「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。(27-28)
十字架につけて殺されたイエス=キリストが復活した。この「復活」を信じるか・信じないかが、キリスト教の信仰を持つか持たないかの別れ道となる。たとえば、信仰を持たないでもイエスという人物の行動や発言を取り上げて「彼は立派な人だった」と言うことはできる。実は、人類の精神史においてイエスという人物の評価は既に定められている、と言える。30代前半で十字架にかけられたこの青年の存在は、人類にとって精神的な革命であったことは最早疑う余地がない。彼のことば・彼の働きが、民主主義の土台を築き、また福祉という発想を生み出し、国家のあり方を大いに変えた。現代社会は、イエスという人物の存在抜きには、今日のような姿にならなかったのである。しかしそのことは、実はこの社会に住む我々が、イエスに対する信仰を持つか持たないかとは、何の関わりもないと言える。イエスを「良き人物」として受け入れることと、「救い主」として一切の希望の根拠とすることとは、全く別の事柄である。それはつまり、イエスが復活したということを信じるか、イエスが復活したということに希望を見るか、という問題である。
今日の聖書箇所にはトマスという人物が出てくる。イエス復活の時にその姿を見なかったトマスは、他の者が「わたしたちは主を見た!」と語るのを信じる事ができなかった。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」とトマスは言い張る。
これを「実証主義的な態度」と言うべきかもしれない。「この目で見ない限りUFOは信じない」「それに触れてみなければ幽霊は信じない」というあり方と、どこか似ている。そして、そういうものの見方・考え方を貫く事は大切である。あるオカルト雑誌が「空中浮遊の証拠」として、足を組んだ人物が空中に浮き上がっている写真を掲載した。それを見たのがきっかけでオウム真理教に入った人が実に多かった。「この目で見なければ信じない」という態度を貫いていたら、それらの人々はそのペテンに惑わされずに済んだはずであった。しかし多くの人々は、その写真を「見て、信じた」のであった。実はあの空中浮遊は練習次第でだれにでも簡単にできるジャンプだそうだが、それが本当にヨガの修行によって得られる超能力なのかどうか、という実証を飛び越えて「この目で見たのだから」という理由で納得してしまったのだった。「科学的な態度」とは、どこかの誰かが科学的に実証した、という情報を信じる事ではない。「それがどういう仕組みで起こっているのか」ということを自分の目で見極め解き明かすことである。「弁護士や医者などが『本当のことだ』と言っているから」あるいは「自分の親や先輩が『本当だ』と言っているから」と信じるのは、全然科学的な態度ではないし実証主義的な態度でもない。「見なければ信じない」というときの『見る』とはどういう事なのかを、トマスの態度から学ぶ事も可能であるかもしれない。
しかし今日の聖書箇所に書かれている「復活を信じるか信じないか」という場面は、単に実証主義的な態度の問題ばかりが描かれているのではないと思われるのである。
それは、このトマスという人物の姿を見る時に明らかとなる。トマスは12人の弟子の1人であるが、実は他の福音書にはただ名前が登場しているだけなのに対し、このヨハネ福音書の中では他に2回も発言する場面が与えられる重要人物にされているのである。自分を殺そうとする人々がいるのを知りながら、病気で死んだ友人のためにでかけて行こうとするイエスを見て「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と他の弟子に語っている(11:16)。また、最後の晩餐の席上で(しかもユダが裏切りのために出て行った後)イエスが語った言葉を受け「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか」と述べている(14:5)。これらは「死」と「復活」をめぐる発言である。トマスは「人はいかに死ぬべきか」を考えている人物なのである。恐らくトマスは、死に方によってその人の人生の価値が決まる、と考えていたのであり、彼なりの「死に方」の哲学を持っていたのではないだろうか。彼にとって「死」とは人生の完成の場面であり、そのためにもトマスは「納得できる死に方」を目指して生きた人物だったように思われるのである。彼にとっては、イエスに従い通し、イエスと共に死ぬ、ということが「納得できる死に方」だったのだろう。それはつまり、トマスにとっての「納得できる生き方」だという事である。彼は死において人生の価値を見ようとしているから、「死んだ後に起こる復活」についてイエスが語っている時、「どこへ行かれるのかわかりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか」と発言するのである。
つまり今日の聖書箇所で問題になっているのは、「復活が事実か事実でないか」ということではない。「疑い深いトマスが信じたのだから、復活は事実であるに違いない」という読み方をする時、我々はやはりこの場面で訴えられている事を見逃すことになるであろう。そうではなく、トマスは「死で終わらない人生」をなかなか受け入れることができなかったが、復活のイエスと出会って「死で終わらない人生」を生き始めた、ということが語られているのである。
納得できる死に方を目指して生きて来たはずのトマスは、実はこの場面では既に挫折している。イエスと共に死ぬ事が彼の本懐であったはずなのに、イエスの死後も彼は生きているからである。死ぬ事への恐怖があったためか、十字架を目指して歩んでいくイエスについていけなくなったためかは分からない。あるいは、本当はイエスと共に死ぬはずだったのに、何かの事情で死ぬ事ができなくなってしまったのかもしれない。しかしイエスと共に死ぬ事で人生を完成させるつもりであったトマスは、イエスと共に死ねなかったという事実に、自分のこれまでの人生に行き詰まりを感じていたのではなかったか。他の弟子たちが復活のイエスと出会った時にトマスはそこにいなかった、と説明されている。自分で思い描いていた生き方ができなかったトマスは、もう仲間の所にもいられなかったのではないか。「自分の人生にはもはや価値がない」と思い込んで、孤独にさまよっていたのではなかったか。彼が「イエスの傷痕に手を入れてみなければ信じない」と言い張ったのは、別に疑い深いからでも実証主義を貫こうとしたからでもない。イエスと共に死ねなかった自分には、もう生きている価値はない、と言いたかったのである。イエスが受けた傷が、決してイエスの敗北ではなかったということが明らかにならないかぎり、もはや希望を取り戻すことはできない、と言いたかったのである。
そのトマスを、他の弟子たちが連れもどしたのである。復活のイエスと出会い、イエスの死が敗北ではなく勝利だった、と悟った弟子たちが、その希望をトマスにも知らせるために「私たちは主を見ました!」と告げ、自分たちの交わりの中に連れもどしたのである。それでもトマスは、家の扉だけでなく、心にまで鍵をかけて自分の中に閉じこもっていた。そこにイエスが現れて「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と声をかけたのだった。
死によって終わらない生き方がある。死んだ後もなお、受け継がれる喜びがある。イエスはトマスにそう語ろうとしたのである。そしてトマスは、それを信じた。イエスが十字架にかかった事は、トマスの挫折となったのではなく、トマスの救いであり喜びのためである、と信じたのである。
南インドには「聖トマス教会」がある。トマスが立てた教会だという伝説が残っている。それほど有名な弟子ではないはずのトマスの名前が残っていることに、このイエスとの出会いによって変えられたトマスの人生の豊かさを見る思いがする。
「復活を信じる」とは、「復活に希望を置く」という事である。自分の人生が死によっておわるのでなく、神の力で豊かなものへと用いられる事を信じる生き方である。
その喜びを分かち合う「教会」という交わりを感謝したい。また生死を越えて時間を越えて繋がっているこの交わりの確かさを噛み締めたい。
願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。
(追記)ご受信の皆様。このところ立て続けの『通信説教』攻撃、ご迷惑様でした。そしてお疲れ様でした。説教データの消失、クリスマス前後の混乱、パソコンの不調などの事情により、そしてわたしの元来の怠惰さも手伝って2ヶ月半も開いてしまったブランクが、ようやく埋められようとしております。『通信説教』のひとつの狙いとして、浪岡でもたれている礼拝の説教を「ほぼ同時に共有する」ということがあります。それは「共に神のことばを聴く」という擬似的な共同体性をかもし出すことができれば、という願いに基づく着想でしたが、ここ半年それができずに来たのでありました。
皆様の迷惑を顧みずにひたすら同時性回復を急いだのは、2月15日に予定されている浪岡伝道所での洗礼式に間に合わせるためであります。この『通信説教』をひとつの手がかりとして、遠隔の地にありながら浪岡伝道所の仲間になるという決意をされた方が現れたのです。
パソコン通信という非常に一面的で頼りない通信手段を用いて、教会形成が可能だろうか。それは悪しき前例をつくることになるのではないか。私自身も心配し、また何人かの人々からも危惧のお言葉を頂いている点であります。しかし浪岡伝道所では、この人との出会いを神の導きと信じ、共に宣教の歩みに立つ決断をいたしました。志願者には既に2回ほど浪岡伝道所の礼拝に参加していただき、準備の時をもっておりますが、むしろ予想される困難の数々を乗り越えようという闘志が強く感じられます。また、この喜びを多くの人々に伝えたいという祈りも聞く事ができております。
そのために、授洗予定の2月15日までには同時性を回復したいと強く願ったのでありました。「わたしたちは、離れているが仲間だ!」と、この2月15日を契機に再度確認したいと考えたのでありました。
これから浪岡伝道所は、遠隔地にあることを前提にするという、これまであまり例のなかった教会形成の試みに乗り出します。また、大阪の山田牧師の御尽力により、インターネットホームページによるヴァーチャル教会も、試験的に運用され始めております(こちらは近日公開予定)。浪岡伝道所および八甲田伝道所のホームページ作りになのりをあげてくださる協力者も出現いたしました。
事態が一挙に転がり始めています。授洗日当日には、全国各地から8名もの方々がお祝いに駆けつけて下さる予定にもなっております(うわー、よく考えたらこれもオーゴトだ!)。
新たな宣教の試みのためにお祈り下さい。
(雪かき協力者も募集中!のTAKE)