その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。(19-20)。
復活のイエスは、始めにマグダラのマリアに姿を現した。イエスにすがりつき寄り掛かるようにして生きて来た彼女は、イエスが処刑された上に遺体を納めた墓が空になっている事実を知ると、まるきり生きる根拠を見失って泣くばかりであった。そのマリアが、予想もしなかった方角から、復活したイエス自身に声をかけられ慰めを与えられた時、もはや生きていたイエスの痕跡を求めて泣き続ける無力な女ではなくなっていた。
生きる根拠を見失った(=奪われた)という苦悩を嘗めつくしたマリアだったからこそ、彼女は復活のイエスがもたらす喜びと希望とを語り得る宣教者に変えられていたのである。彼女は復活のイエスによって絶望の淵から立ち上がっていた。そしてイエスに与えられた喜びを、他の人々に告げる者へと生まれ変わっていた。彼女はすぐさま他の弟子のところへ行き、「わたしは主を見ました!」と告げた。
マリアがこの喜ばしい知らせを伝えに行った弟子たちは、しかしその言葉をどう受け取ったのだろうか。今日の聖書箇所の「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」という記述が、マリアの伝言を受け取る前の様子なのか、それとも後なのかははっきりとわからない。マリアがイエスの墓の前に出かけたのが早朝であったこと(今日の箇所では「夕方」になっている)、またマリアがイエスの墓の入り口が開いている事を報告した時にはペトロと「イエスが愛していた弟子」はそれぞれ自分の家にいたこと、などを考えると、あるいはマリアの報告を聞いた弟子たちが、その知らせが事実であるかどうか、そして今後の自分たちはどうするべきなのか、などを話し合うために集まっていたのではないか、とも想像できる。恐らく彼らはマリアから「イエスが復活した」という知らせを聞いていたのである。
しかし、彼らがマリアの報告を聞いていたか否かはそれほど重要な問題ではない、とも思われる。どのみち弟子たちは「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」からである。復活のイエスについての喜びに満ちた報告が語られていたとしても、それは弟子たちの恐れを解消するものにはならなかったのである。彼らは「ユダヤ人を恐れて」いた。イエスを処刑した人々が今度は自分たちを狙うのではないか、と考えていたのである。だから彼らは、鍵をかけて閉じこもっていたのだった。
「そこへ、(復活の)イエスが来て真ん中に」立った! 「あなたがたに平和があるように」と呼びかけた! この記述から「復活のイエスは戸締まりを関係なく通りすぎることができる能力を持っている」と、イエスの『超能力』を強調する人がある。また、それに関連して「復活のイエスは霊的な存在だった」と説明したがる人もある。そうした読み方は、ヨハネ福音書記者が伝えたかった事柄から我々の関心を逸らせる効果しか持っていない。ここで読み取るべき事は、「復活のイエスは恐れのあまり閉じこもる弟子たちの真ん中に立っておられる」という信仰的な事実の指摘である。
恐れや不安のない人生はあり得ない、と言い切って構わないと思う。「恐れ」や「不安」の濃度や頻度にはばらつきがあるとしても、多かれ少なかれ「生きる」ということと「恐れ」「不安」は分かちがたく結び付いており、といってこれらを相対化することもできず、我々は否応なく「恐れ」に飲み込まれたり「不安」の虜になったりしている現実から逃れられないでいる。ここで考えてみたいのは、今日の箇所で復活のイエスに出会った人々が既に「(イエスの)弟子」とされている点である。始めに「イエスの弟子(すなわちクリスチャン=教会の所属メンバー)」でなければ、復活のイエスとの出会いは起こらないのか、という事である。
これについては、残念ながら「その通り」と言わざるを得ない。マグダラのマリアが復活のイエスと出会った時、はじめ彼女にはそれがイエスだとはわからなかった。イエス自身によって予告されていたとは言え、「イエスが死後復活する」という事を、彼女は信じられなかった。あるいは頭の片隅にその言葉が残っていたかもしれないが、彼女がイエスの死によって受けた衝撃がそれを忘れさせていた。イエス自らが近寄って声をかけるのでなければ、彼女はイエスを見ても「イエスだ」と認めることができなかったのである。ましてイエスの弟子でない人々が復活のイエスと出会ったとしても、そこから生きる希望をつかみ取ることは難しいし、復活のイエスと出会うことで喜びを感じられたとしたら、それはアリマタヤのヨセフやニコデモのようにイエスに共感しつつそれを表沙汰にすることの出来なかった人であって、それは既に「潜在的な弟子」と言うべきであろう。ヨハネ福音書記者は「わたしはイエスの弟子です」と自己開示できなかったアリマタヤのヨセフを「イエスの弟子でありながら…」と紹介している。
ここには、「イエスの弟子となる」ということが、恐れ・不安から切り離された生活を保証するものではなく、不可避的な恐れ・不安を乗り越えるチャンスを手に入れることだ、という理解がある。逆に言えば、「恐れや不安はイエスの弟子になったところで消え去るわけではない」という事である。恐れや不安を抱えて閉じこもっていたとしても、この人々には「弟子」として「集まっていた」という事実がある。教会が集団・もしくは共同体を形成することの意義を、この記述から見出すこともできるかもしれない。
それでも、と再び我々は立ち止まる。弟子として集まっていたこの人々も、復活のイエスその人が自ら姿を現す様子を自分の目で見るまで、恐れ・不安の中にいたのである。これは、マグダラのマリアからしてそうであった。イエスの方から近づくのでなければ、彼女は復活のイエスと出会うことができなかったのである。「イエスの弟子となる」ということは、その当人たちの決断だけで可能になるのではない。「イエスの弟子である」という自覚のもとに行動しながら、なお恐れや不安を乗り越えられないでいる彼らの真ん中に、イエス自らが現われて下さった! この事に再度注目するならば、そしてイエスの行動や言動にひかれつつ公然と弟子たちの仲間になることが出来ずにいた人々さえも「弟子」と呼ばれている点に再度注目するのなら、恐れや不安の中に寄り添う人々の真ん中に、既にイエスが立っておられることを、我々は「信じ」なければならない。不安や恐れの中にある、という点では、イエスを求めていない人々(イエスの名前すら知らない人々までをも含んで!)と、イエスの弟子であるという自覚を持つ我々との間に、何の違いもない。どちらも、イエス自らが近づいて来て下さるのでなければ、喜びを回復することができないからである。我々はただ、復活のイエスが神の国をもたらす、という約束を与えられており、そのことを自分の希望の手がかりとして持ち続けているだけである。そのただひとつの点の他、我々には世の人々との違いがないのである。
この違いは、ある意味では大きな違いである。同じ距離を歩く時でも、目的地を見ながら(標識でも目印でも目的地を示す何かを見ながら)歩くのと、まったく目的地が見えない状態で歩くのと、疲れ方がまるで違うことを我々はよく知っている。まして、その道が険しいものであればあるほど、その違いは大きなものとなる。復活のイエスの約束が与えられている、ということが、どれほど豊かな事であるかを感謝したい。だが同時に、目的地が見えていながらいつまでもそれに辿り着けない時には疲労が倍加するのも体験的な真実である。その場合は目的地が見えているだけ大きな苦しみを負うことになる。とすると、信仰がある・信仰がないという違いは、それほど大きなものではないとも言えるかもしれない。
信仰を持つ・持たないという違いが、本当はそれほど大きなものではない、ということを、我々はもっと見つめて良いのではないか。信仰を持つ我々と信仰を持たない人々とは、共にイエス自らが近寄って「あなたがたに平和があるように」と語りかけて下さるのでなければ、希望を回復することはできないのである。むしろ我々は、イエスの弟子でない人々と共に、復活のイエスの到来を待つ共同体の一員となることを決意したい。信仰を持つ我々が信仰を持たない人々と共にある時、あるいは阪神の大震災によって生きる望みが全て失われた人々に生きる気力を回復させることができるかもしれない。同じ苦しみを抱えている人々に、しかしその苦悩によってへこたれないという我々自身の姿を通じて、希望を保たせることができるかもしれない。逆に、信仰を持つがゆえの苦しみに出会う時、それらの人々との交わりの真ん中にイエスが立っておられる事を再発見する事は、今以上に我々を勇気づけ喜びで満たすに違いない。
ここで「平和があるように」と訳されているのは、『シャローム』という言葉である。ヘブライ語を使う人々の間では日常的に交わされる挨拶の言葉(たとえば日本語なら「おはよう」とか「こんにちは」などの普段から何気なく使われているようなもの)だという。しかし弟子たちにとって、それは日常的なありふれた言葉であるからこそ、逆にイエス復活の事実に強い励ましを受けたのである。だから彼らは「主を見て喜んだ」のであった。「シャローム」が、信仰を持たない人々との日常的な言葉として使われる時、復活のイエスを囲む喜びは、恐れや不安に苛まれる人々全てに分かち合われるものになる。
我々が弟子でない人々と共に生きるには、もちろんイエスの行われた愛の業を我々もこの世の人々のただ中で行なう事が必要である。同時に、そしてその事以上に、イエスの体の傷がこの世の人々と共に我々の罪の結果であるという告白こそが必要である。
「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」とイエスは語った。これは、我々自身にも適用される言葉である。我々の罪が赦されていることを確信する信仰から、全ての人々の赦しが分かち合われるのである。
イエスの派遣命令は、このように読まれるべきである。イエスは弟子たちに、何か救いの特権を与えたのではない。イエスは神の意志によって、自分を十字架につけて殺そうとする人々の中に現われ共に生きようとされた。同じように、イエスは我々を遣わそうとしているのである。この事を正面から考えれば、イエスの名によって生きるということは、信仰を持たない人々よりも苦しい生き方を歩むことになる。
しかし我々には、罪が赦されたということ・希望が回復されるということ・喜びが与えられるということが先に知らされている。これは、「恵みによって」としか説明できないが、「シャローム」というイエスの言葉を先に与えられ、それを全ての人々と共に分かち合うために派遣されるのである。
その使命の重さをこそ、感謝したい。そのために「我々の信仰を増したまえ」と、聖霊の働きを願い求めるものでありたい。共に主を見る喜びが、全ての人々に行き渡るよう祈りつつこの週を生きよう。
願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。
(追記)
パトリシア=コーンウェルの『検死官』シリーズを立て続けに3冊読んでしまいました。変死体の分析から犯罪性を焙り出して犯人像をかためていくという、これまでに読んだ事のないスタイルのミステリィであります。巻を重ねるごとに主要な登場人物たちの内面が厚さを増していくのが見所ですが、何より怪談を思わせるような猟奇的な事件が、緻密な分析を通じて「犯罪」として再構成されていく鮮やかな筋立てに興奮させられました。医学や科学の分野については知識がほとんどないわたしですが、微細な痕跡を組み立てて再現されるのは、やはり犯人や被害者・関係者の「人間像」であり、それらが絡まり合うからこそドラマが出現するのだ、と改めて感じさせられました。
『検死官』シリーズのような入り組んだストーリィでは、どちらかと言えばドラマよりも謎解きの方が先行しがちに思えますが、そこがパトリシア=コーンウェルの「うまさ」です。ミステリィ本来の謎解きに手を抜くことなく、さらに重厚なドラマを仕立てていく力量には唸るしかありませんでした。いったいどんな取材をしているのか、大変興味深いところです。
さて、小説を地で行くような奇怪な事件が後を絶ちません。ミステリィの手法を安直に模倣した事件も多く見られます。それらについての報道を見る時にも、やたらにセンセーションが強調され興味本位のプライバシー暴露が続くだけで、「人間」を見つめる視点が希薄になっているように感じます。怪事件のケーススタディは文学で十分。実生活においても、奇想天外なストーリィより厚みのあるドラマを楽しみたいものです。
(ホントはハードボイルドが大好きなTAKE)