イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。(16)
復活のイエスと出会った最初の1人は、「あなたのためなら命も棄てます!」と勇んで誓ったペトロでも、イエスの母を引き取った『イエスが愛していた弟子』でもなく、マグダラのマリアであった。ルカ福音書にはこのマリアについて「七つの悪霊をイエスに追い出してもらった」と説明する箇所があるが、ヨハネ福音書においては省略されている。恐らくヨハネ福音書が書かれた当時、このマグダラのマリアは敢えて説明を付す必要もないほど伝説的な女性になっていたのだろう。特にヨハネ福音書には、イエスの十字架を囲んでいた女性たちの1人とされている。母だとか叔母だとかの近親者ならともかく、まったくの他人でありながら十字架の側に立ち続けるのは、相当の勇気や覚悟を備えた女性だったことの現われであると理解できるであろう。それほどに、マリアにとってはイエスの存在が重大だったのである。だから彼女は、ガリラヤからエルサレムへ、更に十字架まで、そしてこの朝にはイエスが葬られて3日目の墓へと、徹底してイエスを追い続けたのであった。
イエスとの交わりによって生きる根拠を与えられたマリアにとって、イエスの死は自分自身の死をも意味する衝撃であった。だからこそ彼女は、イエスの墓が空っぽであると確認した他の2人の弟子たちが自分の家に帰ってしまっても、ただひとり墓の前に立って泣き続けたのであった。彼女はイエスが死んだ後にもなおイエスに執着するのである。それは実はイエスその人への執着であると言うより、イエスによって生かされた彼女自身の存在への執着である。イエスとの交わりがなければ自分自身の存在がありえないから、他の2人の弟子たちが帰ってしまっても彼女はそこに立ち続けたのである。
マリアにとって帰る場所はイエスのもと以外にあり得なかった。そのイエスの遺体が失われた今、彼女は自分の帰り所を見失っていたのである。だから彼女は、それがイエスの痕跡に過ぎないと百も承知で、墓の前に立ち時々中を覗き込みながら泣き続ける他なかったのである。
このマリアの姿を、我々は「浅ましい」と言って済ませられるだろうか。「イエスなしに自分の命も空しい」と感じて墓にとどまり続けたマリアが真っ先に復活のイエスに出会うことができた、という記事を読む時、むしろその「自分の生への執着」に学ばねばならないのではないか、と考えさせられる。復活のイエスは確かに、後には空の墓を見てそのまま帰ってしまった他の弟子たちの所へも現われて下さった。しかしそのイエスが最初に現われて下さったのは、マリアだった。愚直なまでに自分の生の根拠にこだわり続けたマリアに、イエスは「なぜ泣いているのか」と声をかけて下さったのだった。
殊に信仰を持つ人ほど、患難や苦悩に超然としていなければならない、という圧力に晒されることが多いのではないか、と思う。ある医師が末期癌の告知に関して、「僧侶を務める人物に『この人なら自分の運命を受容できるだろう』とありのままに病状を告げたところ、とても激しく落ち込んでしまい、かえって死期を早めてしまった」と、後悔をこめつつ語っているのを読んだことがある。また、交通事故に巻き込まれたある牧師が思わず「南無阿弥陀仏!」と唱えた、という話も聞く。波の激しさにおののいたペトロに向かって「信仰の薄い者よ」と呼びかけるイエスの姿を描く福音書もある。愛する人を失った悲しみに際して、あるいは自分の命を支えるなにものかが奪われてしまった衝撃に晒されて、なりふり構わず走りまわり泣き叫ぶマリアにこそ、復活のイエスが近づいて来られた事を読む時、苦悩や怒りを無機化するのでなく、むしろ徹底してこだわる者にこそ救いが近い事を感じさせられるのである。我々は、それほどまでにゆるされている。我慢することも、苦しみを「ないもの」としてやり過ごすこともない。もっとなりふり構わず「苦しい!」と叫び、「悲しい!」と泣きわめくことがゆるされているのである。
そして復活のイエスとの出会いは、全くマリアの予期しない形で実現した。マリアは墓の前に立ち、時折墓を覗きながらイエスを捜していた。しかしイエスは墓の外から・マリアの背後から現われたのだった。マリアが、自分の生の根拠であったイエスの痕跡を追いかけるばかりであったら、背後に立ったイエスに気づくことはなかった。また、たまたま後ろを振り向いた彼女も、死んだはずのイエスが正反対の背後から現われるとは思っていなかったので、そこに立っているのがイエスだとは気づかなかった。ふたりの天使とイエス自身とが「なぜ泣いているのか」と声をかけ、マリアは自分の悲しみを説明する。
「わたしの主が取り去られました! どこに置かれているのか、わたしにはわかりません!」「あなたがあの方を運び去ったのなら、わたしが引き取りますからどこへ置いたのか教えてください!」マリアの言葉には、彼女が頼りとしてすがりついていたものが奪われた痛みが満ちている。
しかし2度繰り返される「なぜ泣いているのか」という問いは、それが神(の救いの計画)に属する天使たちと復活のイエス自身によって語られている事を考えれば、実は「あなたはもう泣く必要がない」との呼びかけが込められたものなのである。「なぜ泣くのか(=もう泣く必要はないのに)」という呼びかけの本当の意味を、悲しみのあまりマリアは悟ることができなかった。彼女は、生前のイエスがそうしていたのであろう「マリアよ!」という親しげな言葉をかけられて、初めてイエスが復活して間近に立っていることを悟ったのである。自分の生の根拠が回復されたこと・そしてそれが永遠に失われないことを確信したのである。
福音の宣教はイエスを信じる者すべてに共通して負わされている使命だが、その使命に立つ我々がいま悲しんでいる人・いま怒っている人へと向かっていかなければならないのは、その人の苦悩を逆手にとって「イエスが救い主である」と『教育』する(溺れる人は藁をも掴むから)ためではなく、その人の間近に救い主が立っているという信仰的事実を見るからである。イエスは、その人をこそ目指して歩まれる。なぜなら、その人は慰められるべきであるから! イエスが救い主であると信じる我々は、その人をキリストに近づけるためではなく、その人の間近に立たれる復活のキリストに我々が出会うために、その人に近づくのである。そして、その人が苦しみのあまり・悲しみのあまり気づけないでいる「背後に迫っている救い」を指摘するのである。「あなたは、もう泣く必要がない」と。
だが、その人が本当に「背後に迫っている救い」に気づくのは、イエス自らがその人に語りかけてくださるからなのである。
「マリアよ!」
あなたの苦しみは、またあなたの悲しみは、あなた自身が救われるため、あなたが自分の力で立ち上がり、救いの喜びを伝えるためである! いま痛んでいる人を癒し、立ち上がらせるためである!
マリアは、今やあれほど追い求めていたイエスにすがりつかず、あれほどの悲しみも喜びに変えられて、「わたしは主を見ました!」と語るために弟子たちの所へ走っていく。そのころ弟子たちは、イエスに続いて処罰されることを恐れて、またイエスを失った悲しみに打ちひしがれて家に閉じこもっていた。きっとマリアはその彼らに語ったのである、「なぜあなたがたは泣いているのですか!?」と。
それは、徹底して自分の生に執着し、またイエスを失った悲しみを味わいつくしたからマリアだからこそ語りうる福音の言葉なのである。
願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。
(追記)
クルマで関東にでかける機会があったのですが、「雪のない冬を過ごせる」との期待も空しく、まるで狙ったように雪が追いかけて来たのには参りました。わたしはもともとサイタマに住んでおりましたが、わたしがいたころには体験した事のなかったほどの積雪に見舞われたのであります。一晩で40センチもの雪を身にまとった我が愛車を掘り起こすのは一苦労でした。しかし普段から雪道走行に慣れておりタイヤもスタッドレスで固めている我が愛車は、そこかしこでスタックしている高級車たちを尻目にゆうゆうと関東を駆け回ったのでありました。いやー、久々に気持ち良かった。
ところが青森に戻って来てしばらくすると、今シーズンに履かせたばかりの新品のスタッドレスタイヤをパンクさせてしまったのでした。実際に穴が開いているのか、それとも何らかの事情で空気が抜けただけなのかはわかりませんが、とりあえず3輪だけスタッドレスタイヤを履いた状態で雪道を走っています。転がり抵抗のバラツキからかクルマの挙動は今ひとつ安定しませんが、津軽地方における生活では乗らないわけにはいかないのです。「関東の高級車たちの怨念か」などとは考えませんでしたが、この地方では雪対策にどれだけの負担を強いられているのだろうか、とつい思ってしまいます。
何より暖房用の燃料費がすごい。積雪で家屋が破損する事もまれではありません。先日秋田では、雪下ろしをしていて屋根から転落したらしい女性が、雪の中から死後3日目に発見されたという事件もありました。
「関東に記録的な豪雪が!」などの報道に密度が高いのには、それなりに必然性があると思います。何しろ関東圏の交通が麻痺すると、東北地方の物流まで打撃を受けるのですから、やっぱり無関心ではいられません。しかし一方で、東北地方の人々が負っている雪の苦労はいったい誰が顧みるのだろうとも思ってしまうのです。東北地方に住んでいて寒さの厳しさや雪の多さに多少慣れているからといって、まったく何も感じていないわけではないのです。誰もが雪にうんざりし、灯油代を計算して頭を抱えたりしているのです。そして、じっとこの季節が過ぎ去るのを待っているのです。
これを書いている今も、ちらちらと雪が舞っています。2月は例年、さらに雪が降るときです。
(でも家の中にまで氷が張るのはウチぐらいだと思うTAKE)