竹迫牧師の通信説教
『成し遂げられた』
ヨハネによる福音書 第19章23−30 による説教
1997年12月21日
浪岡伝道所クリスマス礼拝にて

イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です」。そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。(26-27)

イエスの死の場面である。クリスマスはイエス誕生を祝う時だが、そのイエスは十字架の死のためにこの世にお生まれになった方であることを心に留めたい。「クリスマスくらい、この世の憂さを忘れたい」との誘惑が激しい時代だからこそ、そして特にこの1年の出来事が多くの意味で重いものだったからこそ、このクリスマスの日に十字架に死んだイエスの姿を見つめたい。

ヨハネ福音書が強調するのは、イエスの十字架の死が、アクシデントや敗北などでなく、すべて予め神が定めた通りの出来事であるという点である。28-30に描かれるイエスの死の瞬間を読んでみれば、「すべてのことが今や成し遂げられたのを知り…」「聖書の言葉が実現した」「『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」と、「成就」を意味する言葉が3度に渡って繰り返されており、しかも他の福音書にある「我が神、なぜわたしを見捨てたのか」という言葉も省かれている。イエスの死は、挫折でも失敗でもない。イエスは十字架において死ぬ事で、神の救いの計画を成就したのだ、と言われているのである。

『ジーザス・クライスト・スーパースター』というミュージカル映画では、いま十字架にかかろうとするイエスを見つめながら、既に死んだイスカリオテのユダが現われ『お前の十字架は予定外か? いろんな宗教の教祖たちのなかで、そんな死に方はお前だけだ』と歌う。『最後の誘惑』という映画では、「あなたはそんな死に方をするべきではない」という呼びかけが、イエスを襲う悪魔の誘惑として描かれている。統一協会などのカルト団体も、「十字架で空しく死んだという事件が、世界の救いになるはずがない」という前提で、新しいメシアの登場を訴える。

実は、ヨハネ福音書が書かれた時代に、もう「イエスは十字架で死んだのではなかった」と考える異端宗教が誕生していた。そこでヨハネ福音書は、イエスの十字架は必然であった・イエスはそのために生まれた、というメッセージを強調しようとしたのであった。

我々もまた、これまでヨハネ福音書を読み続ける事で、イエスの死が敗北ではないこと、イエスの死によって救いが達成された事を学んできた。それは容易に理解できることではないが、しかし我らが困難に直面する時、我らを勇気づける力の源となる。イエスが我々の身代わりに死んでくださった事を信じる時、我らと共にイエスがあることを、困難の中でこそはっきりと知ることができるのである。

さて、「すべてのことが成し遂げられた」と書かれる直前に、他の福音書には見られない不思議なエピソードが記されている。イエスの衣服を兵士たちが分けあうためにくじ引きに興ずるのは他の福音書にも共通して描かれている事だが、それに続いてイエスが母を弟子に託す場面である。

イエスの衣服をくじ引きで分けあって楽しむ兵士たちと、十字架のイエスをなす術なく見守るほかない女性たちとが対比されているのである。武力と政治力という大きな力を背景に収奪をさえ楽しむ兵士たちは、このすぐ後にはもうイエスの事を忘れているに違いない。しかし、己の無力を痛感しながら飽くまで十字架の悲惨の目撃者であろうとする人々にとっては、生涯忘れられない出来事となる。そうした対極に位置する人々が十字架を囲んでいたのである。

クリスマスの日にこの場面を読むと、特にイエスの母について心が重くなる。我が子が処刑される姿を見つめる母の胸には、どのような思いが去来していたのだろうか。他の福音書によれば、イエスの誕生は決して華やかなものではなかったばかりか、様々な苦労が伴った出産であった。イエス出産時、その母は未婚であり、また同じ年頃の子ども達が相次いで虐殺される中を必死の思いで育てて来たのであった。先日の新聞に、障害を負う子を育てる看護婦の投書が掲載された。「『生まれる前に障害があるとわかっていたのに、どうして産んだのか。看護婦としての自覚が足りないのではないか』と周囲の人々に言われ続け、我が子を見て『こんな苦しみを負わせてごめんなさい』と涙した日々もあったが、その苦労のゆえにもっと多くの人々の思いやり溢れる優しい心と出会う事ができた。いまは『生まれて来てくれてありがとう』という気持ちです」と書かれていた。

十字架にかけられた息子を見やるこの母の胸の内はどうであったか。イエス成長の過程においては、苦労を越える喜びも多々あったに違いないのである。今死に行く息子を前に、せめてその最期を看取ろうとする彼女には、それらの思い出が去来したのではなかったか。しかしこの場面は、苦労の末に産み落としまた育てた息子イエスが、命を献げる事をも恐れない弟子を育てたという事実が明らかになる瞬間でもあるのである。母の身柄はその弟子に託される。血縁を越える絆によって結ばれた新しい家族が、息子の手によって彼女に与えられたのであった。息子は失われるが、息子の「遺産」は彼女を慰めるばかりでなく、今以上の豊かさをもたらした事であろう。

さて、こうした母と子のドラマを越えた、教会に対するイエスからのメッセージが、ここで語られている事を心に留めたい。十字架に見るような悲惨のただ中で全てを奪われている人々を、イエスは自分の弟子である教会に託しているのである。「見なさい、あなたの母です」とそれを指し、家族として養う事を教会に呼びかけているのである。

この弟子は、イエスの母を自分の母としてひきとった。「互いに愛し合え」「労苦を負う人々と共にあれ」というイエスの教えを受けた弟子が、悲劇のただ中に立ち尽くすイエスの母を引き取った。教会が世の人々に対して向き合う方向が、ここには明確に語られている。引き裂かれるような思いをもって立ち尽くす人々を、新しい家族として迎え、共に生きる事! その悲しみを、自分の悲しみとして引き受け分かち合うこと!

イエスの教えを受け継ぎ、命の危険をも顧みず十字架の下に立つ1人の弟子が、その命令の通りイエスの母を自分の母として引き取った。これをもってイエスは「全てが成し遂げられた」と悟ったのである。

クリスマスの時、そのようなイエスの誕生を覚える祭だからこそ、世の悲惨に目を向けたい。悲しみの呻きに耳を傾けたい。イエスの命令が私たちに行き渡っている事を、イエスは信じている。

その信頼に応える我らでありたいと願う。

願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。


(追記)先日この欄で、新たなイヌたちの誕生についてお伝えしました。その母イヌの兄弟にあたるイヌが、クルマに撥ねられて死んでしまった、という報告を受けました。

そのご家族はとても悲嘆に暮れており、特にその場に居合わせた息子さんは「自分の不注意で」と悔やんでおられるようでした。わたし自身にとっても衝撃的なことではありましたが、「こんなに悲しんで下さる人々に愛されたのだ」と思うと、それはとても幸福なイヌとして生きたのだと感じています。そのイヌが死んだのが日曜日の夜、我が家のマヤが子どもを産んだのは月曜日の夜であります。「きっと生まれ変わりですね」というと、そのご家族は「元気に育ってくれるよう祈っています」と言って下さいました。

ある人の唯一の心の支えであった猫が、クルマに轢かれて死んでしまった、というお話を聞いたばかりでありました。心を通わせる事ができる分、その動物たちの死はとても痛ましいものです。でも、わたしたちが心を痛ませるほどその動物たちへの思いが深かったのだと考える時、いたずらに虐待されたり殺されたりしていく動物たちのいる世の中で、ずいぶんと幸せな生き方をすることができたものだ、と信じることもできると思います。

マヤの兄弟は、ほぼ即死であったとの事です。それほど苦しまずに済んだというのはかえって幸運なことでもありました。その死を悼むわたしたちには辛い事ですが、たくさんの財産を与えてくれたその存在に、いつまでも感謝の心を絶やさずにいたいと願っています。

(こんな時にしかイヌを撫でてやらないTAKE)