そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(37)
捕されたイエスが、ローマ総督ピラトの元に送られ、訊問を受ける場面である。過ぎ越し祭の前日であったため、人々は汚れのないままに過ぎ越しの食事が出来るようにピラトの官邸に入らなかった。そこでピラトは、官邸の中に連れ込まれたイエスと官邸の外に立っている人々との間を行ったり来たりすることになる。
さて、イエスについて問われているのは、イエスがユダヤの王であるか、そうでないかの一点であった。イスラエルは元々王国としてあったが、この時代にはローマ帝国の支配を受けていた。つまり、この時代にはローマ皇帝がユダヤの王として君臨していたということになる。もちろんローマ皇帝はユダヤの神を神として認めず、むしろ「ローマ皇帝を神として崇めよ」と命じた『異教徒』であり、唯一の神のみを信じるというユダヤ人からすると、それは容認できない抑圧であった。イスラエルがローマの支配から脱して独立国となることは、当時のユダヤの悲願だったのである。イエスが登場した時、人々が「ユダヤの王、万歳」と熱狂したのも、イエスがローマの支配を跳ね返してユダヤの独立を達成する人物だと期待されたからである。イエス自身は、そのような政治的指導者として現われたのではなかったが、もしイエスを中心にユダヤ独立を目指した運動が始まっていたら、ローマ帝国はそれを許さずユダヤを滅ぼしにかかるだろうことは明らかだった。そこでユダヤの指導者たちは、イエスがユダヤ独立を謳って失敗した間抜けな革命家であることを強く印象づけ、またローマ帝国の手によって死刑にさせることで「ローマに対する反逆者をローマ自身がさばいた」という実績をつくろうとしたのだった。「どういう罪でこの男を訴えるのか」と質問しても、彼らは具体的な罪状を言わない。「あなたたちが裁け」と突っぱねるピラトに対して「わたしたちには人を死刑にする権限がありません」と答えている様子からわかるように、「イエスをローマへの反逆者として死刑にする」という先に用意された結論のために、人々がイエスをピラトに引き渡したのである。
そこでピラトはイエスに問う、「お前がユダヤ人の王なのか」。もしイエスがローマ帝国からユダヤが独立するために王として立ち上がったのなら、ピラトはそれをローマへの反逆者として裁かなければならない。ユダヤがローマに反抗しないように監視するのが総督としての職務だからである。しかしピラトは、(イエスと人々の間を何度も往復するところから見て)イエスがローマに対する反逆者だとは考えていなかったようである。ただ、もしイエスにローマへの反逆の意志があるのなら、そのように裁かなければならないと考えての質問であった。
イエスはピラトに答える代わりに「それはあなたの考えか、それとも他の者がそう言ったのか」と質問する。ピラトには、本当にイエスがローマに対する反逆者として見えているのかどうか。単に訴えられている事実の確認として質問しているのか。もちろんピラトは事実確認のためだけに質問したのであるが、イエスはここで「真理を証しする王を、あなたは受け入れるか」という問いを込めているのである。イエスは確かに、この世を愛する神から遣わされた神の国の王なのであった。イエスにとりこの世にある全ての人々は、みな神が愛し救おうとされる対象なのであり、自分を死刑にする権限を持っていようが持っていまいが、そのことはニの次なのであった。
イエスのからだなる教会のこの世に対するあり方を見る。我らにとっても、この世の全ての人々は神の愛したもう対象である。それが我々をどうにでもできる権力や能力を持った人であっても、そのことを理由に神の愛=福音を伝えなくても良いという根拠にはなりえない。どのような人々に対しても、我らは真理を証しする責任を負っている。同様のことは状況についても言えるであろう。たとえ自分が罪にまみれており、また現実を打開する力を有していないとしても、そのこと事態は我らが負っている証しの責任を妨げるものではないのである。
「わたしの国はこの世に属していない」。この世の者ではない神が、この世の者ではない神の国の王として遣わしたのがイエスであった。だからイエスは、この世の力(ここでは武力として説明されている)を有していない。神は、この世をさばくためではなく、救うためにイエスを遣わしたからである。
イエスがローマへの反逆者ではない、という確信を深めたピラトは、再び人々のところへ出て、過ぎ越し祭にひとりの犯罪人を釈放する習慣を利用してイエスを釈放しようとしたが、人々はそれを拒絶して、強盗であるバラバの釈放を求めた。バラバが文字どおりの強盗であるかはよくわからない。他の福音書では「暴徒」と書かれており、むしろローマに対する反逆を志すテロリストを思わせるが、イエスを釈放しようとしたピラトの思惑は見事に外れてしまう。もしバラバが反ローマのテロリストなら、ユダヤの人々のこの判断は、「我々はローマに敵対する」という意志表明に他ならなかった。人々は神の恵みを証しする王を拒絶して、暴力と流血の王を求めたのだった。ここに、現代の我らの姿をも重ねて見ることができる。
しかし「真理とは何か」とのコトバを発したピラトはどうなのだろうか。コトバだけを取り上げるなら、彼は真理を求める人のようにも思われるが、実際には議論を打ち切るために吐き捨てるように出た発言であった。彼にとっても真理が何であるかは、もはや関係のないことになっている。イエスは、まったく神を拒絶するこの世に遣わされた王なのであった。
神を拒絶するのは、我々のこの時代も同様である。それは神からの平安を拒絶するということである。神の支配から逃れているこの世の人々は、しかし自由だろうか?
暴力と流血があふれる現実を観るならば、そしてその現実に涙する人々が存在する事実を観るならば、我らは自由を求めつつもかえってそれを遠ざける世界の姿を発見するのである。
「真理とは何か」。拒絶のコトバとしてではなく、真の平安を求めるための福音として、我らに託された言葉でもある。イエスの問いを受け継ぎつつ、自由を求める人々の「真理とは何か」との訴えに耳を傾ける我らでありたい。
願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。
(追記)つい先日この欄で『人造人間キカイダー』について触れたばかりなのに、石ノ森章太郎氏が亡くなってしまいました。このところ、わたしの精神史に重要な位置を占める人々の訃報があいついでいますが、中でも石ノ森章太郎氏はテレビッ子だったわたしにとり、思想上の肉親とさえ言えるのではないかと感じています。改めて氏の作品に流れるメッセージを受け止め、噛み締めたいものだと願っています。
さて、消えていく命があるかと思うと、新たに生まれる生命もあります。なんと、我が家にまたまた仔犬が生まれてしまいました。この度出産したのは昨年2月に誕生したMAYAであります。かねてよりおバカな愛敬を振りまくことで何かと話題を提供しておりましたが、ついに母親になってしまいました。現在のところ4匹が出現しており、全てオスのようであります。キリスト教会随一のブリーダーになりつつあるわたしとしては「もういい加減にしてくれ」という気分ではありますが、生まれてみるとやっぱりかわいい。特に3頭目は半分身を乗り出した状態のまま30分も経過してしまい、さすがの母イヌもぐったりしてきたので人力で引き出したのですが、その後しばらく呼吸停止のままぐったりとしており、揉んだりさすったりしているうちにようやく息を吹き返したのでありました。一安心してみると、ぎゃーぎゃーと一番うるさい奴になっているので「ほっときゃ良かったかな」と思うくらい元気です。MAYAもどちらかと言えば死に掛かっていた仔犬でしたから、この新生児もきっと母親を凌ぐおバカなイヌになるであろうと考えております。
あー、また里親を捜さなければ。
(1年で14匹も仔犬を取り上げたサンバ牧師のTAKE)