「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。シモン・ペトロは立って火にあたっていた。(23-25)
中古ビデオで『ブルークリスマス』(監督/岡本喜八)を入手し、ほとんど10年ぶりに観返した。UFOからの光線を浴びて血液が青くなった人々が急速に増え始めるという現象を巡って引き起こされる世界的なパニックの様子を描いたドラマである。
少数派の「青い血液の人間」は、とりあえず外見的にも内面的にも赤い血液の人間と変わるところがない。ただ、「青い血液の人間」は、性格が穏やかになり皮膚の色が白っぽくなるという変化が起こるだけである。表面上、危険な様子はどこにもない。しかし、血液が変色するという変化自体が過去に例のない出来事であり、従って将来何も起こらないという保証もない。政治の指導者たちは、そういう「青い血液の人間」を抹殺することを計画する。それとなく「青い血液の人間」が増えているという情報を流し、秘密裏に「青い血液の人間」を病人として隔離する。
「青い血液」を巡って見えないところで何かが起こっているという印象を与えることで、人々の間には「青い血は怖い」「青い血は人間ではない」という恐怖感が次第に広まっていく。そしてある年のクリスマス、「青い血液の人間」が「赤い血液の人間」に対して反乱を企てていたというニセの情報をでっちあげて「青い血液の人間」を一斉に虐殺する。前もって恐怖感を植え付けられていた人々は、その出来事を通じて「青い血液の人間」はやはり人間ではなかった、と納得し、「青い血液の人間」が虐殺されるのを肯定することになる。
多数派の人間の利益を優先して少数派の人間を見捨てる、という政治の論理を浮き彫りにする佳作であった。「青い血液の人間」という構想自体は荒唐無稽に違いないが、しかし我々人類の歴史には、似たような事例が数多く残されていることを思い起こさなければならない。安全か危険かわからないものに対しては、とりあえず「危険なもの」というレッテルを貼ってしまう。良いものか悪いものかわからないままだが、とりあえず現状を維持するために「悪いもの」と決め付けて排除してしまう。そういう判断が間違っている、と批判されないために、あらかじめ「それは怖い」「それは危険だ」という情報を流して恐怖感を煽り、自分たちの行動を正当化する。人々もまた、自分が多数派にいる、という事実を確認すると、それで安心して少数派が切り捨てられるという事実を黙認してしまうのである。それは、2000年前にイエスというひとりの人物を巡って展開された、あの十字架の出来事そのままである。また、初期キリスト教を始めとする「小数勢力」を巡って各国で引き起こされてきた(また現代も起こり続けている)各種の騒乱そのままである。
「血液」という点で共通するのは、つい先ごろのエイズウィルスが混入した血液製剤をめぐる「同性愛者排除」の風潮も全く同じだった。ナチス・ドイツが展開したのも「ユダヤの血を抹殺する」ことだった。どの出来事も、「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合(14)」という論理で引き起こされた、小数の弱者を切り捨て踏みにじったものである。
『ブルー クリスマス』に非常に印象的な場面があった。主人公の青年は、「青い血液の人間」を虐殺するという使命を負った自衛隊の特殊部隊に所属する工作員。そして彼の恋人が「青い血液の人間」であった。過去の失恋の思い出をひきずって「淋しくなるから、クリスマスは嫌い」という彼女に、主人公は「今年のクリスマスは俺が一緒にいる」と約束をする。彼女は「そんなことを今から約束しないほうがいい。ひょっとしたらその時、あなたは『そんな女、知らない』と言ってるかもしれない」と呟く。そしてその年のクリスマスは、「青い血液の人間」を虐殺する作戦の決行日に指定されてしまうのである。「この人物を抹殺せよ」と主人公に渡された写真は、彼の恋人のものだった。何とか彼女を逃がそうとする主人公は、不審な行動を咎められて「それはお前の知り合いか?」と詰問される。彼は「いえ、知らない人です」と答えてしまう。
『ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。
はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないという言うだろう。」』
ヨハネ福音書13章に記されたイエスの予告が、今日の聖書箇所で成就している。
我々はこのペトロの行為を「裏切り」として理解している。マタイ・マルコ・ルカ福音書が、鶏が鳴いた時にイエスの予告を思い出したペトロが激しく泣いた、と報告している。つまり、それら3つの福音書では、ペトロ自身がその行為を「裏切り」と認めているのである。しかし今日の箇所においては、ペトロは泣いていない。確かに状況は「命を捨てます」というペトロの決意が果たされなかったことを示しており、その意味でやはりペトロはイエスを裏切っているのには違いないが、しかし他の福音書には見られなかったペトロの行為の隠された意味が、ここには記されているのではないか。
捕らえられたイエスは、始めにカイアファの舅であるアンナスの所へ連行されている。この事は、当時のユダヤ社会においてはカイアファ以上にアンナスの権力が強力だったことを示している。権力というものが、表面上のルールからは隠された所で行使されるものだということが、暗に示されている。また、大祭司カイアファがイエスに訊問する部分では、返事の仕方が悪い、という理由で、イエスが平手打ちを食わされている。イエスは「わたしが悪いのならそれを証明せよ」と反論するが、こうしたルール無視の権力行使は停まらない。
政治的な権力が、「一人の人間が民(全体)の代わりに死ぬ方が好都合」という結論のために行使されているのである。ここに、「日本の平和と発展のために」という結論のために暴力的に土地を取り上げられてきた沖縄(在日米軍基地)や三里塚(成田空港)や六ヶ所村(核燃サイクル基地)の農民達に向けられているのと同じ刃を見る。「なぜわたしを打つのか」という、不正に対する抗議は黙殺される。
イエスの十字架は、結論が先に用意されて、そこにイエスという人物がはめ込まれていくだけのことなのである。
この状況において、「命も捨てる」というペトロの決意は、どれほどの意味を持っているだろうか。国家権力の流れに対抗するために個人に残された手段は、もはやテロリズムしかなくなる。イエス逮捕の時にペトロが剣を抜いて切りかかり役人の片耳を切り落としたあの方法を、もっと効果的に行なう他なくなってくるのである。ペトロは国家の大きな権力に対抗する手段を持っていなかった。イエスに対する訊問が行われている大祭司の屋敷に入り込むことさえできなかったのである。
彼は「イエスが愛していた弟子」と呼ばれるもう一人の人物と共に大祭司の屋敷に出かけたが、大祭司の知り合いであったその人物が屋敷の庭に入ることが出来たときも、その弟子の手引きによらなければ門の外に立っている他なかった。そのようなペトロが考えていたのは、「カイアファを暗殺する」こと以外にあり得なかったのである。そのために彼は、じっと機会を待つしかなかった。実際はカイアファ一人を殺しただけではイエスを助けることは出来なかったが、ペトロはそんなことをそもそも知らなかったのである。関係者のふりをして大祭司の屋敷の庭に入り込み、火に当たりながら機会をうかがうペトロ。彼には「あなたもあの男と一緒にいた」「あの男の弟子の一人だ」と詰め寄る人々をかわし続ける他手段がなかった。
そして、鶏が鳴いた。
イエスのあの予告は、最終的にはイエスを裏切ってしまうペトロの弱さを指摘したものではなかった。そうではなく、イエスを守るために命を捨てる、という決意そのものが、十字架の道を歩むと決意したイエスの意志に反するものであることが告げられていたのである。最早イエスの処刑は、ペトロの手の届かないところで準備され進行していた。ペトロは仲間の手引きで何とか屋敷の庭に入ることが出来たが、結局イエスの弟子であることを否定しただけで、門の外に立たされているのと同じ結果を生み出すにとどまった。ペトロに要求されていたのは、イエスの処刑が人間の手の届かない所で執行されたこと、そしてそれが他ならぬイエス自身の決断に基づくものであることを目撃して証言することであったのである。
我々の手にあまる課題が、今日においても山積みされている。我々もまた、大きなこの世の流れに対して門の外に立ち尽くしてそれを眺める他なく、それを打ち壊そうと暴力的に庭に入り込んだところで、イエスの弟子であることを3度も否定する結果に終わらざるを得ない。我々もペトロに等しく無力である。
だが我々もまた、門の外に立ち尽くすべく要求されているのである。十字架を見るに忍びないからと言って逃げ出すことは、我々には許されていない。我々もまた、ペトロと同じ使命に招かれている。それは、我々の世界に起こっている数々の悲惨が、まさしくイエスの十字架と同じ現象である、と証言すること! イエスの身に起こった悲惨が、今日もなお繰り返されている、と証言すること! そして我々は、イエス復活の事実において悔い改めと希望の回復を宣教しなければならない。このような世の中は、イエスの復活においてすでに神から否定されているのだということ! この世の権力が、神の力を抹殺することは、ついに出来なかったのだということ!
切り捨てられる弱者達と共に、イエスはある。そして、なす術なく門の外に立ち尽くす我らを、イエスは招いておられる。ペトロのあとに続き、十字架におけるこの世の権力の終焉と復活の希望を宣教する我らとして、新たな週の出発に臨みたい。