イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい」。(6−8)
ついに、イエス逮捕の場面である。イエスは、弟子たちと共にキドロンと呼ばれる谷の向こうにある園へでかけた。これがあの「ゲツセマネ」と呼ばれた場所であるかどうかは分からないが、イエスたちはそこに度々訪れていたことが説明されている。
当然、イエスを引き渡すために夜の闇へと出ていったユダも知っている場所であった。ユダが、この時刻にピタリと狙いを合わせてイエスを捕らえようとする人々を連れて行く所を見ると、このキドロン谷の園へ出かけるのは、イエスたちにとって定められたスケジュールに沿った行為であったのかもしれない。イエスたちは、ユダヤ教の指導者たちが派遣した役人たちや物々しい装備に身を固めたローマ兵たちに取り囲まれる。イエスを守ろうと考えたペトロは、咄嗟に剣を抜いて切りかかり、マルコスという人物の片耳を切り落とした。イエスはペトロを制して「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」と語る。人々はイエスを捕らえて縛り上げ、引き立てていくのである。
ここで我々は、他の福音書に示されている「ゲツセマネの祈り」がヨハネ福音書には欠けている事実に気づかされる。イエスはここで悲しみもだえ、血のような汗をしたたらせながら、「できることなら、この苦い杯を過ぎ去らせてください」と祈り続けたのではなかったか。弟子たちはイエスの苦悩を知らずに傍らで眠りこけ、イエスが逮捕されるのを見るや一目散に逃げ去ったのではなかったか。そしてユダがイエスに口づけすることで逮捕するべき人物を示したのではなかったか。だがヨハネ福音書は、他の福音書ではかなり克明に示されているこれらの出来事一切を省略するのである。
それはひとえに、イエスが「御自分の身に起こることを何もかも知っておられ(4)」たこと、そしてその流れに自分から「進み出て」身を委ねたことを示すためである。この場面においてイエスが捕らえられ、やがて十字架に殺されるまでの全ての出来事が、神によって定められた救いの完成のために必要とされていたことを示すためであり、何よりイエス自身がそれを自らの意志で進んで選び取ったのだ、ということを強調するために、ヨハネ福音書はゲツセマネの祈り・ユダの裏切り行為・弟子たちの逃亡などの説話を省略したのである。
イエスは、隠れ場所から引きずり出されて逮捕されたのではなかった。イエスは全く自発的に、これから起ころうとすることの全てを知りながら、捕らえに来た人々の前に進み出て「誰を捜しているのか」と問いかける。それは「わたしこそがナザレのイエスだ!」と宣言するためである。神から遣わされたキリストとして十字架にかかるためである。人々がイエスを捕らえたのではなく、イエスが引き渡されるために人々を迎えるのである。
「誰を捜しているのか」というイエスの問いかけに対し、人々は「ナザレのイエスだ!」と応える。イエスを捕らえに来た人々の、勝ち誇った響きがそこにある。ユダヤ最高議会に敵対し、ローマ帝国をもものともしない思い上がったイエス、しかも「ナザレからよいものが出るはずがない」と信じきっていた人々にとって軽蔑の対象でしかないイエスを、圧倒的な人数と武装でもって成敗するのだ、という気負いがある。「俺達はユダヤの平和を守るために、世間知らずの田舎者に過ぎない若造イエスをやっつけに来たのだ!」とタンカを切って見せるのである。彼らは、自分たちがイエスの方から招かれたことに気づいていなかった。自分たちの行動が、神によって定められた救いの計画の一部に組み込まれたものであることを知らなかった。イエスを、計略と政治力と軍事力でどうにでもできる青年だとしか考えていなかった。だから彼らは傲然と「ナザレのイエスを出せ!」とすごんでみせるのである。
その彼らに対して「わたしである(わたしが、それである)」とイエスが宣言した時、この世の力を身にまとっていたはずの彼らが、後ろに引き下がって地に倒れるのである。この演劇的な描写は、低い身分の者と見下していた相手が、実は自分の上役だった、と示されて慌てて平伏する時代劇のクライマックスシーンを思い起こさせる。「わたしが、それだ!」という宣言は、旧約において神がご自分をあらわす時に使う言葉と同じ形式で語られている。イエスが神と等しい者であることを知らず、イエスを上回る力をまとってやってきたはずの人々が、まったく抵抗もせず無防備であるひとりの青年・イエスの姿に立ち向かうことができなくなる。それは、神と共にあるイエスの権威が示されたからである。どれほど圧倒的な勢力であるかに感じられるこの世の力も、造り主なる神の名の前には引き下がり平伏する他ないのである。
その意味では、剣を抜いて切りかかっていったペトロも、イエスを捕らえに来た人々と変わることのない思い込みにとらわれていたのであった。彼は「イエスを守らなければ」と思ったのである。そして、必死の思いで切りかかったのである。「自分の力・人間の力で神を守る」という発想の裏側には、神を守るだけの力が人間にはあるはずだ、という主客の転倒が隠れている。思えば、足を洗おうとするイエスを拒んだのもペトロであった。「このような自分はラビに洗っていただく資格がない」という自己卑下があったのである。そして、そのような自分から脱却したい、と強く願う彼だからこそ、次には「頭も背中も洗ってください」と懇願したのである。元々漁師であったペトロは、恐らく剣の扱いにそれほど慣れていたはずはない。また他の弟子に比べて過剰に引き下がったり前に出ようとしたり不安定である所から見て、力のない自分に対するコンプレックスが人一倍強かったに違いない。そして、「そのような自分を変えてくれるかもしれない」という希望をイエスに置いていたのに違いない。
だからペトロにとって、イエスが逮捕されようというこの瞬間に剣を抜かなければ、いままで何のためにイエスに付いてきたのかわからなくなるのである。「ここで死んでもいい!」という気合いを込めて剣を抜いたペトロは、武装した敵の耳を切り落とすほどの活躍を遂げることができたのであった。
しかしイエスは、「その剣を収めよ」とペトロに語る。それは単純に「暴力は良くない」という意味の言葉ではない。「神の権威は人間の力に左右されない」という、逮捕しに来た人々を平伏させるのと同じ、決定的な宣告なのである。十字架は、イエス自らが進んで歩む目標であった。そして、十字架へと向かうイエスの歩みを誰も止めることはできないのである。イエスのからだである教会の歩みもまた同じであることを、心にとめたい。神の定めた教会の歩みを、この世のどんなに大きな力も、逆に致命的に思われるような教会(またはそこに集う我ら)の弱さも、止めることはできないのである。
「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい」。それは、出エジプト記において、エジプトの王ファラオ語れ、とモーセが神から命じられた言葉でもある。
しかし神は、神の力の絶対であることを示すためにファラオの心をかたくなにし、人間の目には絶望的と思われるような状況を作り上げた上でエジプト脱出の計画を実行されたのであった。
我々の目の前にも数々の困難がある。しかし我々の解放のために、イエスは自ら進み出て「わたしがそれである!」と宣言してくださる。その時、我らの前にある困難の数々も、我ら自身の内側にある弱さも、倒れて地に伏して神の栄光があらわされるために用いられるのである。