竹迫牧師の通信説教
『聖なる者たち』
ヨハネによる福音書 第17章6-19 による説教
1997年10月26日
浪岡伝道所礼拝にて

「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪いものから守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです」。(15-16)

イエスによる「大祭司の祈り」を連続して読んでいる。前回読んだ1-5において、イエスが神と人との間に立つ「祭司」であること、とりわけ「神の栄光」を与えられた「大祭司」であることが示された。この「祭司」としての務めは、イエスのからだなる教会の務めでもある。神によって選ばれた者として、世の人々に神の栄光を証しすると共に、世の人々のための「執り成しの祈り」を献げるのが「祭司」の務めなのである。というより、世の人々のための執り成しこそが、神の栄光を証しするのである。

今日の箇所においては、実際に人を神に執り成すための祈りが語られている。そこですぐに気づくのは、イエスは「全ての人々のために」祈っているのではない点である。イエスは明確に「世のためではなく、わたしに与えて下さった人々のためにお願いします」(9)と祈っている。神がイエスの弟子として選び、イエスに与えた人々のために祈るのである。

これは差別ではないだろうか。あるいは矛盾ではないだろうか。イエスは、イエスをキリストとして信じ告白するクリスチャンのためにしか祈って下さらないのだろうか。「教会に連なる」とは、あたかも洪水で滅びようとするこの世から逃れて方舟に乗り込むような、この世からの逃避を意味するのだろうか。イエスはここで「真理によって、彼らを聖なる者としてください」とも祈っている。我々はこの世の人々と別れて別の存在にならなければならないのだろうか。

聖書に示されている信仰のあり方には、確かにそのような側面が含まれている、と言うべきである。旧約において登場する人々は、神に選ばれて特別な使命を担うよう押し出されていく。そのようにして立たされた人々が、神の計画の中に配され「聖なる者」とされていくのである。ノアがそうであり、アブラハムがそうであり、イサクもヤコブもそうであった。これらの者たちと交わされた契約に基づき、その子孫であるイスラエルは「聖なる民」として立てられ、神に従っていきるという特別な使命を担って歩んだのである。もちろんその出発には「ドレイからの解放」という神の恵みがあった。だが、それは特別な民として立つ出発点に過ぎず、むしろその後は良いこと・快いことよりは、苦しく・厳しい事の方が多くあった。

それに耐えかねた人々は神に従う生活を捨てて、脱落してしまった。「洗礼を受けてクリスチャンになる」という生活に入る時、またキリスト者としての長い歩みの途上にある時、我々が見逃してはならない点・忘れてはならない点はここである。

確かに我々は、この世とは違う「選ばれた者」としての生活を送らなければならなくなる(これから洗礼を受けよう、と考える人があったならば、この点を見逃して信仰生活を考えるわけにはいかないことを覚えてほしいと願う。苦しみの種類は人によって様々であるが、この世に属して埋没していたなら絶対に出会わなかったであろう苦しみであることは間違いない)。

しかし誤解してはならないのは、我々がその歩みに乗り出して行かなければならないのは、自分でそうありたいと願ったからではない、という点である。我々は、この世の誰とも違う「聖なる者」になりたいと欲し、そのために(修行として)努力しているのではない。聖なる者として歩む時に与えられる「神の恵み」を欲して聖なる者になるのではない。そうではなく「神が我々を『聖なる者』として選んだ」から、我々は選ばれた者としてふさわしくあるよう努めなければならないのである。そこには、選択の余地はない、とさえ言える。我々がその道を生きる事を選んだのではなく、神が我々をその道で生かすべく選んだのである。

その途上において負わされる苦しみとは、偉い人になるためとか正しい人になるためとかいうこととは、基本的に関係がない(旧約の物語から我々が受ける慰めは、この点である。道徳的に見て正しくない人や、どちらかといえば利己主義的な人でさえ、神は「聖なる者」として選ぶことがあり得る)。もともと、聖なる者となる、というのは、神によってこの世から区別されるという意味である。その意味では、この世の基準に照らして素晴らしいとか偉いとか判断することではない。むしろ聖書に示された神の姿からすれば、この世においては取るに足らぬ者・人々から軽蔑され毛嫌いされる者・全く価値がないものとして見捨てられている者が選ばれて行く傾向が認められる。聖なる者が受ける苦しみとは、この「神の基準」と「この世の基準」とのギャップが原因になることが多いのではないか。選ばれた者たちは「神よ、なぜ私のような者を選ばれたのか」と祈らざるを得ない。もっと優れた人格や能力を持っている者なら、他に幾らでもいる。その現実が、さらに選ばれた者たちを落ち込ませる。選ばれた者として備えられた道を歩む時、この世から憎まれる者としての素質に加えて、更に憎まれる者としての道を歩んでいかなければならない。他者とは決して分かち合うことの出来ない苦しみを、選ばれた者たちは自分の十字架として負っていかなければならないのである。

しかし、こうしたこの世からの孤立のただ中に置かれる時、我らは神の恵み・ただ「聖なる者」として選ばれた者にだけ与えられる恵みを知ることになる。それは、「天地の造り主なる神が我らと共におられる」という事実である。選ばれた者たち・聖なる者たちは、神がこの世を造られた目的の延長線上に立たされている。

それは、神が命に換えても惜しくないほど・この世を愛しておられる、という事実を証しすることである。この世にある数々の悲惨(その一部は、現在進行形で我々も体験するものである)が、ただ偶然引き起こされた哀しむべき出来事として捨て置かれるのではなく、それらの一切が過不足なく神の愛を証しするために用いられる事を信じ、そのことを根拠として希望を語ることがゆるされている、という歓びが与えられるのである。我々の受け取るその歓びこそが、神が愛でありイエスが救い主であることを証しする強力な武器となる。人々に慰めを語り癒しをもたらすおおいなる手がかりとなる。その歓びを受け取るためにこそ、我らは「悪い者」たちのただなかに遣わされるのであり、日々の苦しみを十字架として背負って歩むよう遣わされるのである。

我らの味わう孤立・苦悩・精神的物質的なあらゆる困難は、みなこの「キリストと共にある歓び」を知らされるための材料である! この「神のご計画」を知り、全面的に信頼する時に、我らの苦悩の一切は歓びへと直結する希望のしるしとされる。この希望を手放すことなく歩む時、我らは初めて、同じ苦悩を背負って歩む世の人々の隣人とされ、選ばれた者に相応しい器へと作り替えられるのである。

希望を確かに保ちながら、祈りをもって励む我らでありたい。