竹迫牧師の通信説教
『永遠の命』
ヨハネによる福音書 第17章1−5 による説教
1997年10月19日
浪岡伝道所礼拝にて

「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス=キリストを知ることです」 (3)

十字架の時が迫り、イエスは弟子たちに向かって最後の教えを宣べた。そこでは、イエスが彼らのそばを離れても決して彼らを捨てたのではないこと、それどころか、弟子たちが遭遇するであろう迫害・困難・分裂にもかかわらず、イエスは彼らと共にあり続けるのだ、と語られ続けていた。イエス不在の時を迎えるにあたり、頼みとしてきたイエスが十字架上で無力に殺されるという敗北・挫折を潜り抜けなければならない弟子たちに、信仰に基づく勇気を与えるため、イエスは語り続けてきたのであった。

その長い「最後の教え」が終わり、いよいよ最後の祈りを神に献げる。今日の聖書箇所から始まるこの祈りは「大祭司の祈り」と呼ばれている。イエス=キリストは、神と人との間に立つ祭司なのである。目に見える人の世界と目に見えない神とをつなぐ掛け橋として、「神の不在」という不安と恐怖と暴力に満ちたこの世界に癒しと慰めと励ましとを与える神の恵みの御手として、キリストは世に現われたのであった。

我々地上にある者の目には挫折・敗北としか思われない「十字架上の死」という救いの完成は、弟子たちを躓かせ、世の人々を躓かせ、ここに集う我らをも躓かせる。

「躓き」とは、神の意志を見失うことである。その、決定的な神の勝利に対する決定的な我ら人間の躓きを見越して、イエスは我ら人間の歩みのために祈る。神の御心を見失った人間が、いつまでもそのままで捨てて置かれないよう、また神の御心を悟ることができない我ら人間が、その弱さを正当化して罪の中にとどまり続けることのないよう、祈るのである。

イエスは、神と人とを繋ぐ掛け橋として、神の恵みを言葉で語り、また目に見える働きとして行なってきた。ここでは、その恵みが今後も有効であること・また絶対的なものであることへの信頼が、祈りとして語られている。地上に遣わされた者として、目に見えない神と我々を繋ぐのが「祈り」という対話であること、「祈る」者は神と人とを繋ぐ掛け橋として・つまり「祭司」として立てられる者である事が示されている。つまり、キリストのからだとしてこの世に立てられた教会に委ねられている重要な使命について、この「祈り」から読み取ることができるのである。それは、神と人とを繋ぐ掛け橋としての姿である。「神の不在」という不安と恐怖・そして不正が満ちたこの世界にあって、神が癒しと慰めと励ましという恵みを与えて下さっているという事を知らされているのが教会である。それを知る者として、神の御心を見失っているこの世の人々(そこには、教会に集っている我々も含まれている!)のただ中で、神の恵みを唯一確信するのが教会である。そしてその確信に基づき、キリストの手足として、我々に理解できる言葉と我々の目で見ることができる働きをもって、この世に宣べ伝えるのが教会である。だが、こうした教会に固有の知識・信仰・働きは、神と人とを繋ぐ「祭司」としての「祈り」を基礎とするものなのである。この「祈り」がある限り、神の御心に関する知識が足りず、従って信仰が確立できず、それゆえこの世にあって不十分な働きしかなしえないような「不完全な」教会であっても、それは「キリストのからだなる教会」であり得るのである。いかに、力弱く・欠けの多い・役に立たない集団にしか見えなかったとしても(事実、客観的にはそのような集団として存在するとしても)、この「祭司」としての祈りがある限り、それは教会なのである。

「二人、または三人がイエスの名によって集う時、イエスもまたそこに共にいる」というマタイ福音書の言葉を思い起こす。それは、キリストという看板を掲げて二人・三人が集えば自動的に教会とされる、という機械的な事柄を言い表したものではない。イエスの名によって集うとは、どういう事だろうか。それは、この「大祭司の祈り」を受け継ぐ、という事なのである。我らが、神と人とを繋ぐ掛け橋として立てられている事を知り、そこに我らの生きる根拠がある事を信じ、我らの業がイエスの働きに近づくよう努める事が、つまり教会がより一層「教会」として完成されていく事が、このイエスの「祈り」を受け継ぐ所から始まるのである。

では、どのような祈りを我らのものとする事が、イエスの祈りを受け継ぐことになるのだろうか。今日の箇所では、それは「永遠の命が与えられる」という言葉で語られている。命が永遠のものとされるように、との祈りである。「永遠」とは、よく誤解されているように「無限に続く」という意味ではない。創世記1章には、「時間」さえ神の被造物であることが語られている。その理解からすれば、「無限の時間」というのは、被造物の世界にとどまることでしかないのである。聖書における永遠とは、「限りなく延長される時間」の意味ではなく、「神の領域」を指す言葉である。

つまり「神のものとされる」という意味である。「神の愛するものとされる」という意味である。

「生命」は、感動的なドラマである。見る者・関わる者を豊かにしてくれる。しかしそれだけではない。生命はコントロール不能のものである。こちらの思惑を離れて勝手に動きまわり、背き、反逆する。生命は輝くものであると同時に、不潔なものでもある。秩序を破壊し、静寂を追い払う。そして、生命は必ず終わるものである。別の生命を産み落とし、自分の存在をバトンタッチして消えていく。

この「生命」を、神は愛しておられる。感動的な部分だけを注目しているのではない。その勝って気ままさ、不潔さ、有限さをも、神は愛しておられる。そして、ご自分のものとして守り育むという決意をして下さった。

これが、キリストの説く、そして聖書に繰り返し語られている神の「愛」であり「恵み」である。「永遠のいのちが与えられる」とは、我々のいのち(存在)が、永遠なる神のものとされる、という意味なのである。その事の確信と感謝が、イエスの祈りであった。それを人々に知らせることが、イエスの語り、また行なった福音であった。教会は、このイエスの言葉と働きと、何より確信と感謝の祈りを受け継ぐ群れなのである。

「完全な教会」は、未だこの世には存在しない。どれほど知識に溢れ、信仰深く、また力ある働きに満ちているかのように見えたとしても、それは完成された姿ではなく完成への途上にあるのである。「神の国」という、目には見えているのに決して辿り着くことのできない地平線のごとき幻が、教会の完成された姿であり、それはすなわちこの世の不安・恐怖・絶望が拭い去られる時である。教会はそれがやって来ることは知らされているが、いつそれが来るのかは神のみが知っている。教会は、その地平線に向かって・希望を携えて歩みを進める群れなのである。その群れの一員であることが、「教会である」という証明とされている事が、今日の我らにとっての神の恵みである。完全な教会ではなく、不完全な教会ではあっても、その不完全さゆえに捨てられないのが、神の恵みである。従って我々は、不完全さを嘆くという不自由さからは解放されている。

互いに愛し合いなさい、というイエスの命令は、このお互いの命を「神のもの」として献げ合えということである。お互いの命を永遠のものとされていると信じる事である。日々の歩みにおいて出会う隣人たちとの生活に、何より日々向き合う自分自身に、この命令が行き渡るよう祈りたい。