春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていたが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、川上から流れてくる水は、はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで壁のように立った。そのため、アラバの海すなわち潮の海に流れ込む水は全く断たれ、民はエリコに向かって渡ることができた。(15-16)
浪岡伝道所では、わたしが牧師として就任した当初から、聖書研究祈祷会にて旧約聖書を読んできました。聖書通読を目標として創世記から始め、昨日(12月31日)にはヨシュア記の22章を読むことができました。ほぼ、6年がかりです。出エジプト記の後半やレビ記・民数記など、律法の文言が続く箇所では「どうなることか」と心配にもなりましたが、申命記の終わり頃から「この学びは、確かに浪岡伝道所の血肉となりつつある」という手応えが感じられるようになり、特に昨年1年間かけて読んできたヨシュア記に至っては、以前からの学びの蓄積があってこそと感じられる数多くのメッセージを読み取ることができました。
新しい年の始めである今日は、その昨年の学びの中からもう一度、ヨシュア記3章の言葉を読み返してみたいのです。
40年に渡る「不毛」としか言いようのない旅路を経て、ようやくイスラエルの民は「約束の地」カナンを目前とする地域に辿り着くことができました。ところが彼らの前に横たわるのは、雪解けで水嵩の増したヨルダン川の激しい流れだったのです。「約束の地」はすぐそこにあるのに、このヨルダンの深く激しい流れを渡ることは、とても難しいことのように思われたのでした。その時イスラエルの人々を襲った気持ちはどんなものだったでしょうか。この時の直前までイスラエルの民を率いてきた指導者モーセは、カナンに入ることなく天に召されました。モーセは思わず「主よ、なぜですか。なぜここまで来て、わたしの命は取り去られなければならないのでしょうか」と神に訴えました。同じ思いが、ヨルダンに阻まれたイスラエルの民全体に拡がったのではないでしょうか。
しかし神は、新しい指導者であるヨシュアを通じて語りました。「主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、水がせき止められヨルダン川の水は壁のように立つであろう」。その言葉を信じたイスラエルの民が、『箱』を担いだ祭司たちの後に続いた時、果たしてヨルダンの水は真っ二つに分かれ、イスラエルはヨルダンの激流をものともせずに向こう岸に辿りつくことができたのでありました。かつて奴隷とされていたエジプトから脱出する時も、神は葦の海を真っ二つに割ってイスラエルを進ませました。
その時の奇跡がここでも再現されたのです。「エジプトから救い出して新しい土地へと導いて行く」という神の約束が、40年経っても有効であることが示されたのでした。
イスラエルの民は再び、「神は、変わることなく我らと共にある」という確信を与えられたのです。 さて、イスラエルの民の先頭に立たされた箱を担ぐ祭司たちは、ヨルダンを前にしてどのような気持ちだったのでしょうか。神と人との仲立ちとなる祭司であるから、「約束の土地を与える」という神の約束を信じていたには違いないのですが、それでも見るからに深そうで激しい流れのヨルダンを目の前にして、しかも早春の雪解け水である冷たい流れに歩みを進めていかなければならない彼らは、イスラエルの他の人々よりも激しい葛藤を抱えていたのではないでしょうか。他の民が、水の干上がった渇いた川底を歩いたのに対し、この祭司たちは実際に川の水に足を浸しているのです。
この祭司たちこそ、ヨルダンの激しさ・冷たさを文字どおり肌で感じ、太刀打ちできないように思われる圧倒的な現実に直面させられた人々でした。そして彼らには、「神に仕える」という立場上それを拒絶することができず、「神の前に立つ民の代表」という責任上、神の導きに信頼しないわけにはいかなかったのです。水がせき止められて壁のように立ち上がる、という神の言葉が、もし実現しなかったらどうなるか。仮に神の言葉が実現しなかったとしても、彼らはその激流に押し流されるままにならなければならなかった! 『神への信頼』とは、彼ら祭司たちにとってはこのように命がけのものだったのであります。
祭司たちが命がけで一歩を踏み出しヨルダン川に入り込んだ時、神はその力を示したのでありました。水は遥か遠くでせき止められ、民の全てが安全に、喜びをもって神を称えながら、不可能と思われた渡河を果たしたのであります。民の代表として命がけの信仰を神に示したその一歩が、民に神の偉大さを示すものとして用いられたのであります。
祭司たちは川の中央に立ち止まり、民全体が渡り終えるまで待ち続けました。人によってはこのヨルダン渡河を、何らかの自然現象によって川が干上がった結果である(つまり「神の力」という超自然現象ではない)と説明しようとします。あるいは、そちらの方が事実かもしれません。しかしそうであったとしても、神の恵みを宣教する教会の歩みの方向性が、この記事には明らかに示されていると思うのです。すなわち、民に先だって希望の実現に一歩を歩み出していくこと。そして、民全体が希望の実現に辿り着くまで、そのただ中にとどまり続けること。これが、神と人との仲立ちとして現われたキリストの姿であり、そのキリストのからだとして立てられた教会の目指すべき姿であるのです。
私たちもまた、激動の世界のただ中に立たされています。日常的に苦難に苛まれている人もありますし、突発的な患難に立ち向かわなければならない人もあるかもしれません。しかし、神に仕える献身の誓いを立てた私たちには、後戻りは許されません。恐れを乗り越えて一歩を踏み出すように招かれているからです。そしてその一歩が祝されて大いなる力が示されたとしても、人々に先んじてそこへ急ぐことも許されていません。
民の全てに神の恵みが行き渡るまで、その場を動くことは許されていないのです。このような歩みに必要とされているのは、ただひとつ「勇気」です。それも、神に全てを委ねる「勇気」なのです。全てを神に委ねて進み出す「勇気」と、全てを神に委ねてとどまる「勇気」なのです。この「勇気」は、ただ「信仰」によって可能となるのです。
昨年1年間をふり返る時、私たちはもはや単純に「良い年でありますように」と祈るこ
とができない時代に差し掛かっているのだ、と考えざるをえません。これまで積み上げてきたものが音をたてて崩れるような思いさえ、何度も味わってきました。このような時だからこそ、新しい一歩が求められています。それは、ただ信仰によって可能となる一歩であり、この時代から逃れるための一歩であってはなりません。
新しい勇気と、その勇気を可能とする信仰を培う1年としたいものです。