竹迫牧師の通信説教
『勝利への苦難』
ヨハネによる福音書 第16章25一33 による説教
1997年10月12日
浪岡伝道所礼拝にて

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(33)

今日の箇所で、十字架につけられる直前のイエスによる説教は終わることになる。最後の晩餐の席上で、イエスは夜の闇へと去っていったユダを見送った後、自分が十字架にかかることの意味を説き続けてきた。それを聴いてきた弟子たちは、ある時は動揺し、ある時は悲しみ、またその意味を悟れずに議論し合ったりしてきたのであった。そうした弟子たちを励ますためにも、イエスは辛抱強く語り続け、ようやく弟子たちはイエスの言葉の真意を悟り、信仰を告白するのである。

その告白は、劇中の弟子たちだけのものではなく、ヨハネ福音書が書かれた当時の作者や読者たちの告白でもあった。同じ神を信じているはずのユダヤ教徒から迫害され追放される最中にあって、当時の人々はそうした事態を放置しているかのように思われるイエスや神の真意を問い続けていた。「神はなぜ御心を行なって下さらないのか」「イエスはなぜ我々から遠く離れ去ってしまったのか」「神やイエスはなぜこのような苦難へと我々を向かわせるのか」…。様々な形で繰り返される苦難の予告は、全て記者や当時の読者たちの置かれていた現実の描写だったのである。イエスが弟子たちから取り去られ、イエスが行く所へ弟子たちは行くことができない。世の人々はイエスと弟子たちとを憎み、追放し、殺そうとする。しかも彼らは、「こうすることこそが神の御心である」と信じている。そうした敵たちのただなかに置かれたまま、残された弟子たちは(そして読者たちは)、信仰を全うすべく闘わなければならない。その闘いは、「互いに愛し合う」という教えを堅く守ることであった。

イエスによって繰り返し語られたその内容に応えようとする決意が、劇中の弟子たちの中に生まれ始めた。彼らはイエスに告白する「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます!」。それは、ヨハネ福音書成立当時の読者たちに生じた決意でもあった。彼らは確信した、「イエスの十字架の死は、神の御心に従い抜いた結末であった。

イエスは神と共におられた。だから、その死は敗北ではなく勝利であった。十字架で捨てられたかに見えたイエスは、神と共におられたがゆえに、孤独ではあり得なかった」。ユダヤ教の指導者によって追い出され殺されかかっていた彼らは、そのようにして今度は「自分たちの苦難の意味」を悟ったのである。

「神は、苦難の中にある我々と共におられるのだ!」と彼らは発見したのであった。

自分たちは、予期せぬ苦難に遭遇したのではない。自分たちは、無駄な苦難に遮られているのではない。この苦難は、十字架において苦しみを受けたイエスの苦難と同じものであり、喜びの歴史の1ページであるに過ぎない。苦難がなくなることはないが、しかし苦難によって滅ぼされることもあり得ない。なぜなら、この苦難こそが復活に表わされた勝利の喜びへとまっすぐに続く道であるのだから。そこで彼らは、十字架の時が迫る中で弟子たちを愛し通されたイエスの喜びを「互いに愛し合いなさい」という戒めの中に見出し、それを受け継いだのである。

そのような彼らに、イエスは「わたしは既に世に勝っている!」との宣言を語ったのであった。彼らの内側からあふれてきた勇気は、だから「勝てるか勝てないかわからないがぶつかっていく」という無謀さとは違っていた。目には「負け」のように見える対処不能なほど大きな苦難が、実は勝利の約束を指し示すものであることに気付いた喜びから生まれて来る確信が、その勇気の源となったのである。

その事を踏まえてこの箇所を読む時、現代に生きる我らにとっての闘いとは何か、また勇気とは何かについて考えさせられる。それは個々人によって様々な形を取っているだろう事が想像される。なぜなら、我々はヨハネ福音書成立当時の作者や読者たちが置かれていたような極端な迫害にはさらされていない。つまり、今日の我らにとっての戦うべき・耐えるべき苦難は、我ら一同にとって共通のものという形では、ほぼ我らの外側には存在していない。外側のものと闘っている人々にとってその闘うべき相手は、イエスの命じた「互いに愛し合え」という戒めを遂行するのに障害となる要因に、ほぼ限られているのではないか。それは差別の現実であったり貧困だったりニセキリストだったりと多様を極めるのであり、場面によってはヨハネ福音書成立当時の状況を上回る厳しさを伴う事があるかもしれない。そして、何を捨て置いてもこれだけは大急ぎで取り組まねばならない、と見なすべき課題も多くある。

だが多くの場合、そうした戦うべき相手は、何もしなければ直接我らを目標として攻撃して来るものではない事の方が多いのである。それは「闘うべき相手」として設定した途端に牙をむいてはむかってくる敵であるには違いないが、避けて通ろうとすれば不可能なこともない相手である。「キリスト」の名において歩む我らを選別的に狙い撃ちしようと待っているわけではないから、闘いの様相は必然的にヨハネ福音書成立当時とは異ならざるを得ない。彼らにとっての敵が自分たちの外側にあったのに対し、現代に生きる我々にとっての敵は、むしろ我々の内側にいる。

多くの例を挙げることは可能だが、今回はその「内側の敵」の最大のものとして、我らの「日常に耐えられない弱さ」を考えたい。今日ほど、「生まれながらの自分」にとどまる事が否定されている時代はないのではないか。誰もが「もっと優れた自分になる」事を強制され、また心から願っている。何につけ他に遅れることは最大の恥辱であり、そして他に抜きんでた者ほど優れているとされる価値観の中を、我らは歩んでいる。

ここに、我らの戦うべき最大の敵が隠れているのではないか。「他と違っていてはならない」基準は、あるがままの我らの姿からは遥かに高い次元に設定されており、「他と違う自分」を競う世界は更にその上に設定されている。「人並み」であることは当り前であり、更に誰よりも優れた「人並み以上」の者になるよう仕向けられ、また自分自身からも願っているのが、我らの置かれている現実ではないか。しかもその現実は、容易に教会の中にも持ち込まれ得るものである。

このような時代には、「信仰を持つ」事自体が他者との比較において捉えられてしまう事さえありうるのである。「互いに愛し合え」というイエスの命令が、「誰よりも深く愛を行なう」という競争に置き換えられ、他者への愛の基礎となる「自分への愛」が置き去りにされていく現実があるのではないか。今ある自分を、今あるままで愛することは、思いのほか難しい。殊に、全てが他者との比較に置き換えられる価値観が支配する今の時代、それは絶望的なまでに不利な闘いとさえなりうるのである。「互いに愛しあえ」というイエスの命令が、お互いを解放するのでなくかえって縛り上げていくものへと転用されていく。結果、何か「愛」らしきことを行なわねば、まるでそこにいる事自体が罪であるかのように感じられる。やがて、日常にとどまる事を罪悪と考え非日常的な「愛」の現場へ我先にと飛び込んで行きたくなる。それは、絶えず「自分でないものに変わらなければならない」と迫って来る力に押し出されて「人並み以上に」愛する者となろうとする試みである。その結果、取り組んでいる事柄には何らかの進展や解決が起こるかもしれない。しかし、それに関わる当人が受ける圧力は、全く手付かずのまま次に持ち越される事になる。

そうした課題に取り組む事が偽善だというのではない。しかしそれに関わる人々にとっての解放までもが同時に起こっていないような取り組みならば、我らはそのような迷宮に踏み込んでいるかもしれないことを疑うべきである。そうでなければ、「これが主の御心なのだから」と初期キリスト者を迫害した人々と同じ働きを繰り返すことにもなりかねない。

ヨハネ福音書成立当時と現代を生きる我々とを簡単に比較することは避けるべきだろうと思う。どちらがより困難な状況であるかを考える事にそれほどの意味はない。しかし、教会における連帯を分断し、そこにある人々を息苦しくさせ、時には棄教さえ悩ませるという「効果」をもたらすという意味では、ヨハネ福音書成立当時の状況も今日の我々が向き合うこの状況も、同じ種類の苦難であるとは言えないだろうか。

我々の置かれた状況における闘いは、嵐のような時代を生きた人々にとっては「笑い事」として受け取られる程度の患難に過ぎないのかもしれない。しかしイエスのメッセージは、「どちらがより重い荷を負っているか」にではなく、「与えられている苦難は勝利を証しするものである」という点に重きがある。『わたしは既に、世に勝っている』という主の宣言に勇気の源があるということにおいて、そのイエスの宣言がどのような状況の人々に対しても有効であるという点において、我らの証しは組み立てられていかなければならない。

どのような形であれ、与えられている苦難を「勝利のためのもの!」と感謝して受け取ることができる我らでありたいと願う。荷の重さを競うのでなく、荷を負うもの同士の労りをこそ心掛けたい。