「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」。(14)
神とかキリストとかに反感を持つ高校生たちとつきあうと、神が「絶対的な支配者」としてイメージされている事に気づかされる。つまり、奴隷に対する主人として君臨する神としてのイメージであり、そのような神に従うとは、自ら進んで自由を手放し奴隷になりたがろうとする事だ、と感じられるようである。奴隷は、その意味も目的も知らないまま主人の命令に忠実であることを強要される。人格の多様さは要求されないどころかむしろ不要なものであり、他の誰かといつでも交代できるような働きを押し付けられているに過ぎない。神やキリストを「奴隷に対する主人」としてイメージする人は、だから神やキリストを嫌うし、キリスト者も嫌いになるのである。
それは、彼らが置かれている状況の反映であるのだと思う。学校や家庭が、自分を支配したり縛り付けるものとしか感じられない。自分の自由が、いつも奪われていくような思いを持っている。私は東奥義塾高校で非常勤講師を勤めているが、キリスト教主義高校の生徒たちは、聖書や礼拝に触れる機会が多い分だけ、逆にそれらに対して警戒する気持ちを強く持たざるを得ないのかもしれない、と考えている。
これは、実は高校生に限った事ではない。実に多くの入々が、神もしくはキリストを「(奴隷に対する)支配者」として受け止め、キリスト教に眼らず宗教全般を「奴隷の集団」と感じているのである。カルトと呼ばれる集団を始めとして、そういう「宗教」が多く存在するというのも事実である。そういう集団に奴隷のように所属することで安心する「依存症」的な信徒もまた多く見ることが出来る。何より、我が国は天皇という「支配者」に「奴隷」的に服従して悲惨な戦争を引き起こし、それに敗れると今度はキリスト教を主な宗教文化として持つアメリカの支配を受けた、という歴史を負っているのである。宗教に「支配」と「隷属」を見て警戒するのは、むしろ正常な反応であると考えてよいのかもしれない。
しかし、と一方で考えさせられるのである。「宗教」から身を遠ざけている人々が、本当に自由であるのかどうか。仮に宗教が、自由を奪われるままに自ら進んで奴隷化する生き方だとして、そういう生き方をしない人々は、全き自由の中に生きているのだろうか。あの神戸の殺人事件の容疑者は、自分の犯罪記録を日記風に書き留めていたが、そこには「バモイドオキ」という名前の架空の「神」が登場するという。あの容疑者が、この神に対する宗教行為として事件を起こしたのかどうかはまだ解明されていない事柄だが、殺人という有無を言わさぬ破壊行為が他者に対する「支配」の極端な表れであると考えた時、あの容疑もまた「誰かに支配されている」と感じ続け、そういう日常から脱出するために事件を起こし続けていたのではないか、と想像させられるのである。特定の誰かから支配されたくないと念じる時、何か別の支配者を立てて、それだけに服従するという生き方を選ぶ。このこと自体は、宗教の持つ可能性として否定されるべきではないが、しかし本当に自由な状態からは遠いあり方だとは言わなければならないだろう。
あの容疑者に限らない。天皇の支配という悪夢から覚めたはずの日本は、今度はアメリカの軍事力(核の傘)に依存し隷属するという歩みを続けてきた。個々の人々に注目しても、会社に依存する仕事人間、子どもに依存する教育ママ(あるいはパパ・もしくは両親)、親に依存するモラトリアム人間が氾濫している現実がある。そしてそれぞれが、経済的・精神的に他者を支配するという生活を送っている。カルトが蔓延したり異常な快楽殺人が続発したりする背景に、自由を求めつつまったくそれを見えない形で奪われてしまっている(あるいは、そうと気づかずに自ら進んで手放してしまっている)我々の姿がある。「キリストの自由」を信じ宣べ伝える我々は、どうであろうか。個々の現実に立ち返った時、やはりこの支配と依存の現実に、すっぽりと飲み込まれてしまっているのではないか。
イエスは「もはやあなたがたを僕とは呼ばない。私はあなたがたを友と呼ぶ」と語っている。神が、我々を友として選び、神の方から近寄ってきてくださる。神は我々を奴隷とはなさらずに、友人として扱ってくださる。
友人とは、お互いに自由でありつつ互いのために仕え合う関係ではないか。そのような意味での「友人」と呼ぶに値する関係を、我らはどれほど持ち得ているだろうか。友人と言いながら相手に依存しあう関係しか作れないとしたら、それは真の友とは呼べまい。
イエスは我らのために十字架で命を捨ててくださった。我らもまたそのイエスのために命をささげるとき、我らはイエスの友となる。そしてイエスは、「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と語っている。キリスト者の自由とは、どのような相手に対しても依存せず、また支配しない生き方にある。また依存されず支配されない生き方でもある。そのような友として、この世にあれ、とイエスは命じているのである。我らはこの世の良き友となるよう立てられている。全ての人々にとって良き友として生きる決意を新たにしたい。