「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」(9)
余りにも有名な聖書箇所である。パレスチナ地方では、ぶどうが至る所で栽培されているというが、これを聞いた(あるいは読んだ)最初の人々には、たいへん身近で具体的なたとえに感じられたことだろう。イエスに従うということは、神によって生かされる命の共同体に生きることなのだ、という教えなのである。イエスが「まことのぶどうの木」であり、イエスに従うものはその枝とされている。そして、枝の手入れをしてくださるのが神ご自身である、という宣言なのである。
しかしイエスは、この宣言に先立って、「わたしにつながっていながら実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」と警告をも発している。それは単なる警告ではなく、「ぶどうの木」の所有者が、究極的には神であることへの「おそれ」を促す言葉である。
我々は、「私はまことのぶどうの木に繋がっている」との確信から、時として「だから安心」と結論づけてしまいがちであるが、その時点で我々は、「実を結ぶ枝」であるか否かを判断するのは究極的な所有者である神のみである事を忘れていることになる。
我々は神ではなく被造物に過ぎない。被造物が神の御心を知る事は、神ご自身による啓示の他には不可能である。この単純にして自明の事柄を、我々はいかに忘れる事が多い日常である事か。神の意志が我々人間の考え出した(あるいは発見した)ある種の法則によって知られ得るとか、我々個人の主観的な思い込みにすぎない自称「信仰」を疑う余地すらない「啓示」の結果であるとか、あるいは自分と同じ人間に過ぎない者の言葉を無条件に信じてそれを「神の言葉」として崇拝するとか、少し心を落ち着けて省みるなら神ではないことが明らかであるものを「神」と信じてしまっている局面は、我々の毎日の生活に溢れ返っているのである。
イエスの警告を受けた我々は、絶えず問うて行かなければならない。「自分のしている事は、本当に神の御心にかなっているのか」。「私の確信は、本当に神の御心なのか」。「果たして我々は『まことのぶどうの木』に繋がれた枝であるのか否か」。イエスは、自分の信仰を無条件に肯定する事を許さないのである。「わたしに繋がっていながら実を結ばない枝は、父が取り除かれる!」。イエスを信じ、イエスに従って生きる、という生き方を志向している事実は、神の前に何のアリバイにもならない。現実に、この世には多くの悲惨があり、目を背けたくなる残酷な犯罪や、どこから検討しても不正としか判断出来ないデタラメな政治が横行している。「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とイエスは命じたのではなかったか。我々はこの現実を前に、社会の不正を糾弾し、弱き者に救援の手を差し伸ベ、悲惨な姿にハラワタを断たれるような憤りを感じた、あのイエスの愛を受け継ぐものであり得ると言えるだろうか。既に我々は、「イエスに繋がっていながら実を結ばない枝」に他ならないのではないだろうか。
我々は、イエスに繋がれていることを感謝はしても、単純にそれを喜んではならないのである。イエスが我々に託した使命は、余りにも大きく重いものだからである。信仰を持たない人の方が、遥かにのびのびと豊かに生活できる例を、我々はよく見聞きしている。そして我々は、幸せや喜びだけではなく、我々の信仰をも疑い続けなければならない。それは神やキリストなどの「信じる対象」に対する疑いではなく、それを信じる我々の「信じ方」に対する疑いの生活である。
「疑う」生活には、辛さがつきまとうものである。自分の中の「これだけは大丈夫」という安息の地を手放す生き方だからである。誰もが「自分は安全圏にいる」と信じていたい。異様な殺人事件が起こると、「それは実行犯の人格形成に問題があるのだ」と特殊化したがる。カルトの違法活動が社会問題化すると、「あんなものに入るのは、要するに世間知らずのうっかり者以外には考えられない」と、自分とは関係のない世界での事件にしたがる。誰もが「自分は正常だ」と信じたがっているし、「私たちは正常だ」という共働幻想の上に社会生活が営まれている。正常と異常の区別すら便宜的なものに過ぎない事を薄々と感じながら、努めて考えまいとし、警告には耳を塞いでしまう。
同様の判断停止は、信仰の世界においても全く同じ形で起こるのである。「私は救われた」「私は正しい」「私は、少なくとも間違ってはいない」…。
神がこの世の存在でない以上、この世にある何ものも神の御心を代弁するものとはなり得ないのである。従って、この世の常識とか、世間一般の通念とか、歴史上示された数々の事件とか、それらのものを神の御心を知るために役立てる事は全く不可能である。我々は常に、前の時代にも後の時代にもない、新しい事件の直中に置き去りにされ、我々自身の持つ(与えられた)力のみでその中を生きなければならない。全く、自分の中にあるあらゆるものがとことんまで疑わしい! 我々は、とかく目の前のものを信じやすく、はっきりと嘘だとわかっているものにさえ本物の感動すら覚えてしまうことがある。まるで、「絶対安全」という保証付きでスリルを味わうジェットコースターに乗るように。そして時には、実際に事故が起り得るということさえ知っていながら、「安全なスリル」の幻想を買うために金を払ったりもするのである。
一方、そういう信じ方を疑い始めた我々には、心休まるひとときが生きている限り永遠に訪れない。すべてを委ねて安らぐことが可能になるのは、死の瞬間以外にありえなくなる。これは厳しい生き方とある。我々は「自分は間違った信じ方をしているかもしれない」という不安の中を生きなければならない。しかしイエスは、そういう不安な生き方へと我々を派遺するのである。イエスが現実を生きる我々の目から隠されているという「イエス不在」の生活へと、我々は送り出される。我々はイエスを確かに信じながら、同時にその信じ方には間違いがあるかもしれない、と恐れながら歩まねばならないのである。
しかしこのことは同時に、我々に対する神の大いなる恵みの表れであることを、我々は知らなければならない。神は我々に「疑う事」を許して下さっているのである。「私に繋がっていなさい。私もあなたがたに繋がっている」。イエスという「まことのぶどうの木」に繋がる枝となるか、それとも実を結ばない枝として一生を終わるか、その選択は、我々自身の自由な決断に委ねられているのである。神の御心を知る術を持たない我々が、神の御心に従いたいと願いつつも、そうとは気づかぬままに御心から逸れていくことを、自分の意志と自分の力とで避ける努力が可能となる。疑いを許して下さる神!
それは我々の自由を極限まで許してくださる神である。
従って我々は、自分の信仰を疑い続けるその瞬間にこそ、かえって神の愛の深さの中に生かされているのである。自分の信じ方を疑い、「自分は間違っているかもしれない」「自分は実を結んでいないかもしれない」という不安の中にあるその時にこそ、イエスは「私もあなたがたに繋がっている!」と確かに宣言してくださるのである。神は疑う不安の中を歩む我々をこそ、豊かに生かして下さる! ここには「自分の意志で、自分の自由のままに、イエスを愛せよ!」との招きがある。これは大いなる恵みであると言わねばならない。我々は、白分本来の姿で、自由に生きる事が許されているのである。
その自由の中で、神を愛する生活を選ぶようにと招かれているのである。
福音とは「不安のただなかに置かれている人にこそイエスが接近している」という事実を認識することではないか、と考えさせられる。すなわち宣教とは、「あなたの不安は、イエスという救い主が共におられることを知る手がかりだ」と告知する働きである。老いも若きも、男も女も、みな大いなる不安の中に取り残されている。また、そのただ中へと派遣される我々も、イエスの不在という不安のうちを歩まねばならない。両者の不安が同質のものであることを確認し、それがイエスの恵みに結び付いていることの歓びを分かち合うことが、「救い」を知る者に課せられた務めではないか。もし、「自分は疑いようもなく安息のただなかにある」と信じることができる人があるならば、それも与えられた祝福であるかもしれない。しかし、その祝福を独占することは許されていない! イエスは、不安のただ中にある人に繋がっておられるからである。
「わたしも、あなたがたに繋がっている!」とイエスは約束してくださった。これが我々に対するイエスの自由な愛の姿である。我々も、それに自由な愛で応えたい。ここでは、イエスの掟を守る事が、イエスの愛に応える事だ、とも語られている。イエスの与えた新しい掟とは、「イエスが我々を愛したように、我々も互いに愛し合う」ということであった。イエスの約束を知る者は、イエスの代理として遣わされるべく召されたのである。イエスの約束を知らぬまま救い主不在の不安に生きている人々と共に、神からの愛を分かち合いたい。