「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(27)
先日我々は、52回目の敗戦記念日を迎えた。全国各地で、戦争に反対する集会が企画され、何より軍人・民間人を問わず戦争において亡くなった全ての人々を覚え、平和を求める祈りがささげられた。
その夜の特別番組では、「ぼくたちの戦争」と題して現代の高校生が戦争と平和について考える討論会が生中継された。特に、あの大震災を経験し、また中学生による小学生の殺人というショッキングな事件を目の当たりにした神戸の高校生たちが参加し、改めて「平和とは何か」を問い直すという企画であった。なぜ戦争はなくならないのか。なぜ当時生まれていなかった現代の高校生が50年も前の戦争について責任を持たなければならないのか。何より、本当に人を殺してはならないのか。2時間ほどの放送時間に対して数十名の参加者であり、その上コマーシヤルを挟むなど発言は細切れで、しかも司会者の誘導らしき言動も見られたが、高校生たちの素直な意見が多く出されていたように思う。
あの戦争が終わってから半世紀が過ぎた。テロなどによる一時的な混乱は多くあり、近隣の戦争の影響を受けたり海外の戦争に自衛隊が派遺された事などはあったが、幸いにして日本自体が戦争に巻き込まれたことはなかった。しかし、この50年は果たして「平和な時代」と呼べるのだろうか。武力戦こそなかったものの、「交通戦争」「受験戦争」など、戦争となづけられる現象は数多く起こって来た。それらは確かに、銃弾が飛び交ったり爆弾が破裂したりという実際の戦争とは違うが、しかし死者さえ生まれるほど苛烈なものである点では、やはり戦争と呼ばれるにふさわしかったのではないか。そのことを敏感に感じ取っていた高校生たちは、この社会を創り上げてきた大人達に対する鋭い批判を胸に秘めていたように思う。
我々も問われ続けなければならないだろう。「平和とは何か」。戦争はもちろん平和を破壊するものであるが、しかし単に戦争がない状態を「平和」と呼んでいいのだろうか。もしそれが平和であったのなら、なぜあの神戸の惨劇は起こったのだろうか。我々があの事件にショックを受けたのは、「平和だ」と信じて来たもの(そして「これは平和とは呼べないのではないか」と薄々気づきはじめていたもの)が、平和でも何でもなかった、と明らかにされたからではなかったのだろうか。続く数々の悲惨な事件は、そのショックが根拠のないものではないことを暴露し続けて来たのではないか。
この半世紀の大半は、核兵器の威力に全世界がさらされ続ける「嵐の前の静けさ」ともいうべき状態であった。そういう緊張状態が、あの事件に色濃く反映されているのは間違いない。「戦争の放棄」を謳った平和憲法を掲げながら、我々の手に平和はなかったのである。そこにあったのは緊張であり不安であり、目に見えない敵意と争いの予感であり続けたのである。
今日の聖書箇所で、イエスは「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える」と弟子たちに語っている。イエスの与えた平和とは何だろうか。
我々は、本当にイエスの平和を受け取っているのだろうか。
この言葉が語られたのは、イエスが逮捕される数時間前のことである。まさにイエスから、また弟子たちから平和が奪われようとしていたその時なのである。イエスと弟子たちは、今まさに平和が奪い去られようとする瞬間に立たされていたのであった。それは嵐の前の静けさである。そしてイエスは、その状況をよく理解しているはずであった。いったい、どこから平和などという言葉が出てくるのだろうか。十字架の意味は、イエスの復活まで、弟子たちには閉ざされたままであった。彼らはこの時、イエスの口から語られる別れの言葉に、不安を覚え緊張を感じていたに違いない。弟子たちが感じていたのは「イエスがいなくなる」という将来への不安であり緊張であったが、今日の我々が感じているのは「イエスが共にいない」という現実への不安・緊張である、という違いはあるが、しかしそれは今日を生きる我々が感じているものと同じである。
イエスは、今来たろうとする十字架が、神の救いの計画であることを語り、「世の支配者は私をどうすることもできない!」と力強く宣言している。我々は、イエスの復活について知っており、イエスのこの宣言がやがて成就することを思い起こしながらこの言葉を受け取ることが出来る。復活の出来事を知っているから、そのイエスの宣言に信頼して依り頼むことができるのである。このとき復活の出来事を知る由もなかった弟子たちの不安や緊張の方が、我々の感じているものより大きかったはずであろう。むしろイエスの復活の意味を知りながら、この世の人々と同じ不安や緊張に陥っている我々は、肉体としてのイエスを見た事がない点を割り引いても、不信仰であるとは言えないだろうか。復活を知る我々は、だからこそ不安に打ち勝つという「使命」を負わされているのである。その使命は、日本中が不安と緊張に苛まれている今こそ、いよいよ重いものとなっているのである。
「その使命を果たすために、落ち込んだり不安を感じたりしてはならない」というのではない。イエスは「カラ元気を絞り出せ」と命じているのではない。そうではなく「不安や緊張の意味を悟れ」と命じているのである。
弟子たちの不安や緊張が、復活を通じて喜びと感謝に変えられたこと! どんなに大きな権力を持っている支配者も、それを阻止することができなかったこと! それを思い起こしなさい!とイエスは語っているのである。イエスが不在であることに我々が感じる恐怖が、当時の弟子たちも感じたものであるならば、我々の不安も喜びに変えられるのである。イエスの不在は、再びイエスが来られることの徴である。平和なき時代は、やがて平和がやって来ることの証しなのである。我々には、喜びが約束されている! 我々が宣教すべき福音は、これなのである。
イエスは、イエス不在の間に遣わされる聖霊が、このイエスの教えを思い起こさせると約束している。聖霊によって立てられた教会は、イエスに対する愛によって、イエス不在のこの時すら感謝することができるのである。聖霊を受けなければ、その感謝は起らない。つまりこの感謝の働きは、教会以外には、この世の誰にも不可能な働きなのである。
「私を愛しているなら、私が神のもとに行くのを喜んでくれるはずだ」とイエスは語っている。イエスが神のもとにおられる事を信じる我々は、聖霊の助けによって、イエスの不在を感謝する! すべてが神の救いの計画に置かれている事を信じ、感謝する! 神への感謝を分かち合おう! 不安や恐怖は、やがて何の力も持たなくなる。心を騒がせず、怯えずに、イエスを愛することから始めたい。この時代に語るべき福音を、まず我らの心に刻み付けるために。