「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(6)
今日の聖書箇所は、「最後の晩餐」において語られるイエスの言葉の一部である。イエスは、最初に弟子たちを選ぶ時点から、十字架に際して、誰がどんな風に裏切っていくかをよく知っていた。我々は「イエスを裏切った弟子」というと、すぐさまイスカリオテのユダや鶏が鳴く前に3度にわたってイエスを否定したペトロを連想するのであるが、実際
にはすべての弟子たちが「イエスを見捨てた」という一点において、イエスを裏切っているのである。ただ、ユダとペトロの姿はそうした弟子たちの典型として描かれているのであるに過ぎない。
ペトロは感激屋で思い付いた事はすぐ実行に移す熱中型の弟子であった。恐らくイエスの言葉や行いに感動してすぐさま弟子になるべく飛び込んできた人物なのだろう。一方のユダは、物事を深く理詰めで考える几帳面なタイプだったのではないか。ユダがイエスの弟子たちの中で財布を預かる会計係であったことは福音書の中でも何度か説明されている。恐らくその生真面目さが買われたのではないかと想像するのだが、たとえばこのヨハネ福音書の中では、イエスに高価な香油を注いだ女性に向かって、それをお金に換えればたくさんの貧しい人々に施しができた、と非難する場面が出てくる。そこでは「彼は会計係でありながら財布の中身をごまかしていた」と説明されてはいるが、「財布の中身をごまかせるだけの力量を持っていた」と読み替えることは可能であろう。香油の価格をぱっと計算出来る頭の良さに加え、それをいかに有効に用いるかを合理的に考え、しかも思い付いた事を心の内に留めておくのでなく言葉にして提案出来る企画力も持っている。ロマンティックなペトロに対して、大変な現実主義者であり、しっかりとした実力を持った人物としてユダは描かれる。このふたりが、イエスの弟子の典型的な姿とされているのである(ペトロは原始教会において有力な指導者であった実在の人物だが、ユダになるとその実在は疑わしいとされている)。
我々自身の生き方や信仰のあり方を振り返る時、このペトロとユダの姿に象徴されるような異なる二面が自分の中に宿っている事に気づかされる事はある。しかしそれ以上に、実は我々が「かくありたい」と願う理想的なクリスチャン像というのは、このふたりの姿に集約されるのではないか、とも思えるのである。イエスそのひとに素直に感動し、命じられた事はすぐさま実行に移す弟子。またこの世の現実に向き合った時、冷静沈着に事態を見極めながら合理的な計画の下に実効性のある行動を起こしていく弟子。
「鳩のように素直でへビのように賢い」その姿に、我々はある種の憧れを常に抱いている。
我々の現実の姿は、必ずしもペトロとユダのようではない。と言うより、ペトロにもユダにも程遠いと言わなければならない局面は多い。むしろ我々は、この2人のマイナス面、熱しやすいが冷めやすいというペトロの持続性のなさや、計算高いくせに依存的で、重大な局面で重大な裏切りを働いてしまうユダの冷たさ、をわが身に見出す事の方が多いのではないだろうか。
そしてヨハネ福音書は、イエスの弟子として我々には理想的に見えるこのふたりが、十字架の出来事を前にどちらも単なる裏切り者でしかなかったと言う事実を淡々と描写するのである。それを読む時、我々もまた、ペトロかユダかのどちらかでしかないであろうという漠然とした無力感を覚えるのである。結果、我々は「私は道であり真理であり命である」とご自分を証しして下さるイエスの招きを受けつつ、「主よ、どうしてその道を知ることが出来るでしょうか」「私たちに神を示して下さい」と足踏みを繰り返す事になる。そして、そうした態度の保留こそが、茨の冠を被せられ鞭打たれながら重い十字架を負わされて引き立てられていくイエスを見送ったはずの、「その他大勢の弟子たち」の姿そのままなのである。ペトロにもユダにもなれない、散り散りになったまま無力感を噛み締める他ない惨めな姿をさらすことになるのである。
ユダがイエスを引き渡すために夜の闇の中へと出て行き、「あなたのためなら命も捨てる」と決意したはずのペトロが3度もイエスを否定する、と予告された直後に、イエスは弟子たちに向かって「心を騒がせるな」と語り掛ける。
ここで「騒ぐ」と訳されているのは、元来「嵐で海上の水が激しく波たち乱れる様子」を表す言葉であり、バラバラに千切れるという意味を持つ言葉だという。まさしく我々の心は「騒いでいる」。(理想像としての)ペトロにもユダにもなれず、その他大勢の弟子たちのように、散り散りになったまま無力感を噛み締める姿が、イエスによってひとつに集められながらもバラバラに引き裂かれている我々の現実である。先のあの戦争において我らの日本基督教団は誕生した。我が国における宣教の前進を願って、教団の大部分は戦争をめぐる国策への積極的な協力に心を砕き、信仰的な良心に基づいて態度決定できずにいた同信の仲間たちを切り捨てることさえしたのである。敗戦後、教団は戦時のあり方に対する反省の意を込めて新しい出発を開始したはずであった。しかし、「合同のとらえなおし」問題における沖縄キリスト教団との関係やいわゆる「教団紛争」以降の様々な混乱、さらに教団誕生の経過に関する歴史理解をめぐる数々の衝突を見る。それは、今まさに十字架にかけられたイエスの足元で、バラバラに右往左往する弟子たちの姿そのものである。
イエスは、そういう我々の現実を見つめながら、「心を騒がせるな=心を分裂させるな。神を、そして私(イエス)を信じなさい」と我々に命じているのである。
こう命じるイエス自身が、バラバラになってしまいそうな現実を歩み通してこられた方であった事を思い起こしたい。ラザロの死を目の前にして(11:33)、また目前に迫った十字架の時を思い(12:27)、そしてユダの裏切りを前にして(13:21)、心を騒がせながら(心がバラバラに千切られながら)歩んでこられた方が、イエスであった。
イエスは、我々の心を知っておられる。我らの心が乱れる時、イエスもまたそのような思いを胸に生きてこられた方であると知らされるのである。イエスは、我々の誰よりも、この「心が乱れる苦しさ」を知っておられる。
そのイエスが、「私の父の家には住む所がたくさんある」と宣言された。「住む所」と言われると天の国の世界を想像するのであるが、ここにはむしろ「共にとどまる所」という意味の言葉が使われている。我々とともに、イエスが居てくださる、という約束が語られているのである。「私のいる所に、あなたがたもいることになる」とイエスは約束して下さっている。心が散り散りに乱れた私たちでありながら、その誰1人として排除されず、イエスとともにイエスの業を行う交わりへと招いて下さる姿がここにある。イエスがなさった愛の業を、我々もまた行う者へと変えて下さると、約束し宣言するのである。
私たちの教会は、殊に「戦争」に関する局面において、数々の負い目に満ちた歴史を歩んできた。イエスは、その苦しさをよく知っておられる。また、その数々の罪にも関わらず、我らを選び、また遺わして下さる。その恵みに委ねながら、心をひとつにする交わりへと一歩を踏み出していきたい。