「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(35)
イエスはここにおいて「今や人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」と宣言している。ユダがイエスを裏切って夜の闇へと出て行った場面の直後である。十字架への歩みは秒読みを続けていたが、ユダの行動によってイエスの十字架は決定した。救い主を十字架につけた、という事実に、神に背く人の罪の根源が暴露される。人を救おうとして差し延べられた神の手を、我ら人間は拒絶したのである。我々には、十字架は神の計画の挫折・救い主の敗北のように思われる。しかし、十字架を乗り越えた復活において、神が人の罪によって妨げられない絶対者であること、その絶対者が徹底的に神を拒絶する我らの罪を根源まで赦して下さっている事が、逆に明らかになったのである。十字架において「人の子の栄光」は「夜」の闇に輝いたのである。
この栄光が、神に由来するものであって人から出てきたものではないことが、ペトロの裏切りによって、更に一層明らかにされる。「あなたのためなら命を捨てます!」と言い切ったペトロも、やがて身を守るために3度までも「私はイエスを知らない」と言い張る事になる。イエスの十字架が、ユダとペトロに代表される弟子たちの裏切りによって挟まれているのは、この栄光が神と人間との共同作業から生まれたとか人間の反応が偶然栄光に結び付いたとかいう可能性を全て否定するのである。十字架こそが神の計画であり、神と一体であるイエスのみがそれを完成させる事が出来た。人は、そこに何の力も発揮してはおらず、ただ神の一方的な働きかけによって救いを与えられるのである。
この一方的な働きかけは、人間の側に何の根拠も持っていない。人間が素晴らしいから神は救おうとされたのではない。救われるべき何かが人間の中にあるから、救おうとしたのではない。人間はむしろ神に背き続けているのであり、その結果、様々な悪を引き起こしてそれを解決出来ないでいる。そのような人間を、神は救おうと計画し、それを実行した。その理由は我々にはわからない。そうした神の動機を知らないまま、我々は神に背き、ユダのような積極性かペトロのような消極性をもって応え、結局は救い主を十字架においやるのである。にも関わらず、神は救いの計画を中断する事はなかった。
この一方的な働きかけを、我々は「愛」と呼ぶしかない。神は、我々がどんな姿をしていようと、どんな悪さをしようと、それとは関わりなく我々を熱烈に愛しておられる。我々がどんなに背こうと、あるいは弱さのゆえに結果的に背いてしまったとしても、神はその弱さまでまるごと愛しておられる。イエスは、その神の愛を人間に伝えるために、信頼する弟子に裏切られて十字架にかかる必要があった。愛する弟子に「知らない」と否認されなければならなかった。そういう弟子たちの姿を見ながら、しかしイエスはなおも彼らに「子たちよ」と呼び掛けるのである。徹底した孤立に捨てられたイエスが、なおも人を愛し、復活において弟子に接近する姿に、神の人間に対する熱烈な愛が啓示されているのである。
しかしその愛は、一方的なものではあるが、同時に我々の応答を求めるものでもある。裏切り続ける弟子たちをそのままで愛するのが神の愛の深さであるが、神はそうした愛に人間が依存する事を求めない。イエスは語る「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい!」。神の愛は、神の自己満足ではなく、その愛を行うものへと人が成長する事を祈り求め、それを促し導いて行く愛である。イエスの愛を分かち合い、失敗を繰り返しながらそれを行う者へと成長していくことが、我々に託された使命なのである。
我々はその使命を果たすべく、日々の歩みへと送り出されて行く。それはどちらかと言えば、目に見えて成長する我々自身の姿を目撃するよりは、さっぱり成長せず同じような失敗を繰り返し続ける情けない姿を観察する事の多い歩みである。様々な祈りをもって様々な働きを始め、それに全力で取り組みながらも果たせない。こういう自分自身の姿を見るのは苦痛である。しかし、神が愛して下さっているという一点において、我々は自分自身の姿から目を逸らしてはならない。神が救って下さったという一点において、我々は自分をさばいてはならない。そのような姿を見据えながら、いよいよ成長を神に祈ること。その祈りから、我々の神に対する応答が始まるのである。むしろ、自分の姿を見つめる苦しみを感じる時、我々は最も良く神の呼び掛けに応えているのである。