竹迫牧師の通信説教
『裏切り』
ヨハネによる福音書 第13章 21-30 による説教
1997年7月20日
浪岡伝道所礼拝にて

ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。(30)

オウム真理教の幹部が突然刺殺された事件があった。容疑者はすぐに逮捕されたものの、事件の背景はいまだに解明されていない。当時オウムのスポークスマンを務めていたJ幹部は、この事件の直後「刺された幹部は、救急車の中で『ユダにやられた』と語った」と報道陣に対して発表した。これは救急隊員の証言と食い違っており、J幹部の発言の真意もよくわからないままウヤムヤになってしまった。あるいは近い将来、これら一連の出来事の真相が明らかになる日が来るかもしれないが、『ハルマゲドン』などの聖書的な言葉をちりばめたオウム真理教のことであるから、ここで言う『ユダ』とは、やはり「裏切り者」の意味が込められていたのではないか、と考えられる。

イエスは最後の晩餐において、心を騒がせながら「あなたがたのうちの1人が私を裏切ろうとしている」と断言した。それはイスカリオテのシモンの子であるユダを指した言葉であった。キリストを十字架に引き渡した裏切り者として、福音書や使徒言行録の中では悪い扱いを受けているユダだが、もともと「ユダ」という名前は創世記に登場するヤコブの息子の1人で「主をほめたたえよう」という母親の祈りを込めてつけられたものであり、イスラエルではそれほど珍しい名前ではなかった(新約中にある『ユダの手紙』は、イスカリオテのユダとは関係がないし、福音書の中にも「イスカリオテでない方のユダ」として同名の別人が紹介されているか箇所がある)。それが、この裏切りの弟子の存在により、我々は「ユダ」と「裏切り者」とを直結して考えることが多い。

ところで、ユダの裏切りはなぜ罪なのだろうか。そもそも「裏切る」とは、信頼を逆手にとって相手を出し抜く行為を指す言葉である。裏切りは、我々にとって重い事柄ではないだろうか。浪岡伝道所にも訪れたことのあるAさんという女性は、家族や友人をはじめ周囲の全ての人々に嘘をつきまくって統一協会を脱会したと見せかけ、機会を狙って再び統一協会に舞い戻ってしまった。

その時、私たちは「裏切られた」と感じた。彼女の言葉を信じて、そのような行為を選ばないと思っていたからである。裏切りから受ける衝撃はとても大きく、裏切る人や裏切らせる人を私たちは赦せない。

また私たち自身が結果的に誰かを裏切ってしまったとしたら、それが本意ではなかったとしても、殆ど回復不能な断絶が生じる事になる。ヘミングウェイという作家は「裏切り」について、銃の誤射になぞらえながら「何をどういう動機で、あるいはどういう間違いのもとに行ったか、は問題ではない。やったか、やらなかったか、だけが問題なのだ」と述べている。それほど「裏切り」がもたらす結果は重大なものである。沖縄基地問題の反戦地主たちや、成田空港問題の三人塚住民たちの間でも、しばしば戦いは「仲間を裏切るか裏切らないか」に絞られて行くという。たとえ家族や親友であっても、またそこにやむを得ない事情があったとしても、「裏切り」を変更できない事実として受け止めて行かなければならない戦いの厳しさが、そこにある。

しかしイエスは、果たしてユダを信頼していただろうか。ヨハネ福音書では既に6章64において「イエスは最初から、信じない者たちが誰であるか、またご自分を裏切る者が誰であるかを知っておられた」と語られている。また、弟子たちの足を洗う場面においても、誰が裏切るのか知っていたと書かれている。イエスは、決して思わぬ裏切りにあったのではなく、最初からユダの行為を承知していたのである。ユダの行為によって十字架の出来事が実現し救いが成就するという神の計画に全てを委ねていたイエスは、だからユダにもパンを分かち、その足を洗ったのである。ならば、ユダの行為は「裏切り」ではかったのだろうか。「罪」ではなかったのだろうか。

ここで「裏切る」と訳されているのは、元来「引き渡す」という意味を持つ言葉である。ユダは、まさしくイエスをユダヤ最高法院に「引き渡し」、ユダヤ最高法院はローマ当局にイエスを「引き渡し」た。それは、神の子イエスを死に「引き渡し」た行為なのだった。しかし同時に、この「引き渡す」という言葉は、聖書の別の箇所では「伝える」と訳されている言葉でもある(たとえば、聖餐式で朗読されるコリントの信徒への手紙 一 11章23「私があなたがたに『伝えた』事は、私自身、主から受けたことです」など)。それは、自分の手に委ねられたものを、自分の責任において他者に引き渡す行為である。コリント書の著者であるパウロは、自分がキリストから受けとったものを、使徒に託された責任としてコリントの人々に「引き渡し」たのである。引き渡す事を求めて託されたものを引き渡したのである。その点から言うならば、同じ「引き渡す」行為でありながら、ユダの行為が「罪」とされるのは、それが本来引き渡すべきでないものを、引き渡すべきでないところに引き渡した行為だったからなのである。

我々は、何と多くの「引き渡すべきでないもの」を引き渡していることだろうか。わが国の原子力行政を思う。本来、引き渡すべきでない放射性物質を、「安全だ。安全だ」と呪文のように繰り返しながら、未来の人々へ引き渡そうとしているのである。本来引き渡すべきない沖縄の人々の農地を「日本の平和のために」と米軍に引き渡しているのである。ユダの行為が罪であるとするなら(そしてそれは罪である)その罪はユダにだけ特別に存在した罪ではありえないし、またユダひとりをもって終了したものでもない。ユダは、キリストを裏切ったから「特別の悪人」なのではない。我々は、常にこの歴史において、ユダ的な「引き渡し」を繰り返し続けてきたのである。イエスは断言した、「あなたがたのうちの一人が、私を裏切ろうとしている」。裏切る「一人」が問題なのではない。その「一人」が「我々の中に」いる事が問題とされているのである。

にも関わらず、キリストは私たちの足を洗って下さった! 自らが選んだ弟子として、裏切りをも承知しながら我らを選び出し、その裏切りにも関わらず我々を救って下さった。それも「裏切り」の事実すら逆手にとって!

キリストは我々にパン切れを差し出し、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と語りかけている。パンを受けたユダは、裏切りを選ぶ事も、服従を選ぶ事も出来た。夜の闇に出ていくことも、光にとどまる事もできたのである。我々はそのパンを受け、何を選ぶべきだろうか。裏切りをも栄光に変えて下さるイエスに信頼しながら、服従を選ぶ者となりたい。我々に託された、「良いもの」を引き渡す働きに乗り出して行きたい。