竹迫牧師の通信説教
『イエスは模範になった』
ヨハネによる福音書 第13章12-20 による説教
 
1997年7月13日
浪岡伝道所礼拝にて

「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(15)

イエスが、最後の晩餐において弟子たちの足を洗った。弟子たちにとっては教師であり、また数々の偉大な業を行った預言者であり、そして世界を救う神の子でありながら、イエスは食事の席で、奴隷のかっこうで床にはいつくばり、奴隷のするような仕事をなされたのであった。その場面に続く今日の記事で、イエスは「主であり師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と命じている。そしてそのための「模範を示したのである」と語る。

『イエスに従う群れは、お互いにイエスのように奴隷として仕え合わなければならない』。

これが、最後の晩餐におけるイエスの教えであった。ここでいう「奴隷」とはどのようなものであろうか。弟子たちは、その命令をどう受け取ったのか。

そして我々は、この言葉をどのように実践するべきなのだろうか。

我々は前回、洗足の行為には「全ての人の身代わりとして十字架にかかろうとするイエスの愛が豊かに溢れている」ことを学んだ。イエスの洗足は、十字架の出来事の先取りであった。「足を洗う」という言い方で表されているのは、イエスが十字架で示された愛を、日常生活で繰り返されるごくつまらない行為の中で積み重ねて行く、という事であった。誰にでもできる働きでありながら、それを、その人のみによってなされるかけがえのない働きとしてなし、また受けとること。そこから十字架の愛の実践が始まるのだ、と学んだのであった。

さて、それを踏まえながら今回の箇所を読む時、「私のパンを食べている者が、私に逆らった」という詩篇からの引用に注目させられる。「私のパンを食べている者」とは「最も親しい者」という意味の言い回しであり、「私に逆らう」と訳されているのは本来「私を蹴飛ばした」という意味の言葉である。イエスは、十字架において弟子たちに裏切られるということを見据えながら話しているのである。

「弟子の裏切り」は、イエスを十字架に引き渡したユダのみを指しているのではない。3度に渡って「イエスなど知らない」と言い張ったペトロも含まれているし、結果的にイエスを見捨てて逃げ去った他の弟子たちも含まれている。欲のために裏切った人、能力が足りないために結果的に裏切ってしまった人、あるいは自分の身を守るため裏切らざるを得なかった人、そのすべてを見つめながら、イエスは「お互いの足を洗い合いなさい」と命じているのである。

イエスのこの命令に、一面の空しさを覚えないだろうか。イエスは洗足に十字架の愛を込めながら、しかしその愛が裏切られていくことを知っていたのである。「わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている」。裏切るような人々である事を分かっていながら選び出し、将来裏切るであろう人々に惜しみない愛を向けているのである。それは、「神の子」イエスだったからこそ可能な働きだったのではないか、と感じさせられるのである。

「裏切られる」と知りながら無償の愛を注ぐことなど、到底我々には不可能に思われる。仮に日常的に裏切りを働く人が目の前にいたとしたら、我々はその人に決して近づこうとはしないだろう。万一その人に関わるとしたら、「今度は裏切らないだろう」と信じるからである。そしてその信頼が結果的に裏切られたとしたら、もう2度とその人に近づく気持ちは起きないであろう。

我々が向き合うその人が裏切りを働く人であるかそうではないかを、あらかじめ知る事ができないのは、だから感謝するべき事であるようにも思う。イエスのようにそれを事前に察知する特殊能力が備わっていたら、我々は他者を信じたり愛の関係を築いたりする事ができなくなる。

そもそも、裏切るか裏切らないかは、意識的な詐欺行為を除いては、他者にとってだけでなく本人にとっても、その時にならなければ分からない事であるように思う。そして、今までに1度でも他人を裏切ったことのない人など、いるはずがないのである。統一協会による違法な販売活動を見ると、それに携わる販売員は、嘘をついていることは自覚していても、しかしそれが正義であると堅く信じてのことである。見た目には反社会行為であるとしても、究極的には善なのだから、行わなければならないと思い込んでのことなのである。だからといって正当化はできないが、しかし全ての真実が明らかになった時、販売活動に携わっていた元信者たちは、必ず言いようもない後悔と罪の意識に襲われることになる。裏切り行為は、裏切られる人にとってだけでなく、裏切りを働く当人にとっても、激しい苦痛をもたらすのであることを見る。統一協会問題は極端な事例であるかもしれないが、形こそ違え同様の体験は誰にでもあるのではないか。「後で考えると、あれは裏切りであった」と気付かされることは、個人的な行為としてももちろん、民族・国家のレベルに至るまで繰り返されて来たことではないだろうか。

イエスは、この「洗足」を通じて裏切られつつも愛を向けて行く事を「十字架の愛」の模範として示した。そして、それが日常のごくつまらない場面においても行なわれるように、とイエスは命じた。我々はしかし、そんな事ができるのは「神の子イエス」ならではの特権的な能力であるように感じている。イエスは確かに、裏切られる痛みをよく知っているはずである。それでもなお、将来裏切るであろう人々に仕えていくよう命じるのは、実は「裏切られる者の痛み」より「裏切る者の痛み」の方が遥かに耐え難いものであることをもイエスが知っていたからではないのか。イエス自身が裏切りの体験を持っているかどうかは知る事ができない。聖書にそうした記述が一切ない以上、持っているとも持っていないとも想像出来る。イエスが「私は、どのような人々を選び出したか分かっている」と語るのは、裏切った者が将来襲われるであろう「痛み」をも見つめてのことではなかったか。

我々は、弟子たちの裏切りによって十字架が完成されて行った、という経緯に注目しなければならない。その1点において、イエスの選びは有効である。

イエスを裏切らずにはいられない人間性を、そしてそのことを生涯悔やまずにはいられない人間性そのものを、イエスは見通している。だからイエスの十字架は必要なのである! イエスは、十字架のために、ユダを選びペトロを選び他の弟子たちを選び、我々をも選んだのである。裏切りの事実があり、その自覚に痛みが伴うからこそ、裏切りを用いて、イエスは十字架の愛を示し、また復活によって神が勝利した事を示したのである。

教会は、裏切らなかった者のための集いではない。裏切った者・裏切る者が、しかし神によって招かれイエスによって「洗われている」ことを信じる者の群れである。そこに表されている神の愛を信じ、告白する者の群れである。

裏切られてもその奉仕が有効である事を証しする群れであり、裏切りの痛みがいつか必ず癒される事を証言する群れである。

お互いの足を洗え、とは、そのような群れへの招きなのである。足を洗い合うよう命じられながら、しかしそれを果たせないでいる我々に、イエスは接近される。我らの悔い改めを求める心からの懺悔の祈りを、イエスは受け止めて下さる。裏切る者であるからこそ、イエスは我らの足を洗って下さった。それを心に留める時、初めて我らもお互いの足を洗う奉仕の生活へと乗り出して行く勇気を得る事ができる。イエスが最初に我らの足を洗って下さった。だから、我らも仕え合うのである。裏切りの序曲にすぎないとしても、神はそれをご自身の愛を示すために用いて下さる。感謝をもって日々の歩みに乗り出して行きたい。