竹迫牧師の通信説教
『イエスは奴隷になった』
ヨハネによる福音書 第13章 1-11による説教
     
1997年7月6日
浪岡伝道所礼拝にて

イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。(1)

有名な「洗足のイエス」の場面である。逮捕される直前の最後の夕食時、イエスは弟子たちの足を洗い始めた。上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰に巻き、タライに汲んだ水で弟子たちの足を洗い、腰の手ぬぐいで拭いた。それは全く「奴隷」の身なりであり、働きであった。最後の時を目の前にしたイエスは、弟子たちを最後まで心の底から愛するために、自ら進んで弟子たちの「奴隷」となったのである。

このテキストには、実はそれ以上の事が語られていない、と言い切って良い。神学上は様々な議論がある(他の福音書に比べてこのヨハネ伝では最後の晩餐が1日早い事に注目する者・「洗足」行為に「洗礼」や「聖餐」との関連を読み取ろうとする者・裏切る事が判っていたユダの足さえも洗うイエスの愛を見つめる者、など)が、我々は素直に、イエスが弟子たちに対してさえ奴隷として奉仕されたことを踏まえて読み取れば良い。その奉仕が、イエスの全き愛の表れであることさえ読み外さなければ良い。

洗足には、全ての人の身代わりとして十字架にかかろうとするイエスの愛が、豊かに溢れているのである。まさしく十字架の出来事を先取りするものとして、足を洗うイエスが描かれているのである。イエスは「十字架における死」(他者のために命を投げ出す)という、最後の・最高の愛の行為に向かう途上にあっても、弟子たちを愛し抜かれた。人々を教え導く教師でありながら、そして神の力を帯びて数々の驚くような「しるし」を行って来た身でありながら、奴隷として奉仕するイエスの姿は、ペトロのように思わず躊躇して「私の足など決して洗わないで下さい」と懇願するほど、意表をついたものである。教師なら教師らしく、実りある指導を熱心に追い求める姿だけで、弟子たちは十分にイエスの愛を感じとる事ができたはずである。また、神から遣わされた者ならそれらしく、尊大な態度をもって英雄的な働きに乗り出し、たとえそれが失敗に終わったとしても、人々は長い間、感謝の念をもってその働きを語り伝えた事であろう。だがここでイエスは、そうした誰よりも優れた者としての働きではなく、誰でもできるようなこと・それゆえ誰もがやりたがらず奴隷に任せるような働きをなすのである。

イエスの十字架へ向かう突進は、確かに英雄的な業であった。人々に愛を説きながら敵と対決し、その敵をも愛するがゆえに仕掛けられた罠に自分で飛び込んで行き、嘲られながら十字架で愛を全うしたのがイエスである。その生涯は劇的であり、感動のドラマに彩られ、聖書を読む我々に「あなたは本当に人を愛したことがあるのか」と鋭く問いかける気迫に満ちている。そのイエスの弟子であり、キリストの「からだ」として歩む教会は、救い主イエスに倣うものとして、やはり十字架への道を辿る群れである。聖書を読み、教会に集い、また派遣されて行く我々は思う、「イエスのように、決然と、愛をこめて、歩まなければ」と。そこで我らが思い描くのは、人々を教え、また癒し、悪と闘いつつ、隣人を愛する生活である。その理想を掲げながら生活するうち、しかし我らは己の姿に幻滅を感じ始める。イエスのような非日常的な活躍の場面はなかなか訪れない。我々を取り囲む強大な悪者たちは、手の届かないテレビの向こうにいる。身の周りにいる病人たちは、もはや医者の癒しにより頼む他なく、いざ誰かを教会に誘う場面においてすら、我らは硬直し言葉を忘れる。時たま、目の前に非日常的な事件が持ち上がったとして、しかし多くの場合我らは手も足もでないまま傍観者と化してしまう。「イエスのようになれなかった」という幻滅にさいなまれ、懺悔の祈りを心のうちに呟きながら、再び教会に帰って来る・・・。

しかし今日の聖書箇所を見る時、イエスが十字架の時に至るまで貫く愛は、奴隷に任せるような、誰にでもできる・しかし誰もやりたがらない、そういう実に些細でつまらない地味な働きとして表れることに、驚きを感じるのである。それは、当時の奴隷がことさら厳しい仕事を強要されていた、という事ではなく、従って「イエスは敢えて奴隷の身分になられた」と特別に意味付けする必要はない。今日の我々は「奴隷」制をもっていないが、昔は「奴隷」に任せていたような細々とした仕事のほとんどを機械に任せている点で、やはり多くの「奴隷」に囲まれて暮らしている状況は変わらないと言える。誰にでもできる、それゆえ誰もやりたがらない、そういう「つまらない仕事」を、機械たちに委託しながら生活しているに過ぎないのである。もちろん、何から何までお任せというような完全な機械化はまだ実現してはいない。しかし、そうした雑務的な労働を機械化することで、我々人間がそれぞれ独創的な「その人でなければできない仕事」をしているか、と言えば、決してそうではない、としか言えないのではないか。やはり現代の我々も、誰にでも出来るような仕事を押し付けられ、また誰かに押し付けつつ生活している。機械化は、それを多少スピードアップしただけのことでしかない。その意味で、我ら自身が奴隷的であり、また他者を奴隷的に見做して生活している現実がある。もちろん、奴隷制を復活させるべき、と考えるのではない。しかし、機械化が浸透し生身の人間を奴隷として扱うことがなくなったからといって、本当に人間を奴隷化する現実はなくなったのだろうか。むしろ、機械化の浸透に伴い、かえって他者を機械的な奴隷と看做す傾向は強まっているのではないか。

私の中学生の時の体験だが、親しくしていた友人が我が家の現金を盗んだという事件が起こった。大きなショックを受けた私は、取り敢えず担任の教師に事の次第を相談したのだが、その途中で職員室に入って来た隣の席の体育教師(当時30代半ばだったと思う)が、話を半分に聞いて、相談している私が盗みを働いて担任に叱責されているに違いないと思い込んだ。話に割り込んで来た彼は、「カネを盗んだだと!? そんな奴はぶん殴っちまえばいいんだ!」と腕を振り上げた。担任教師が慌てて止めに入り、私は殴られずに済んだ。彼はバツの悪そうな顔で退散したが、この出来事を思い起こすたび、そして私が関わっている高校教育の現場において同じような光景が繰り返されているのを見るたびに、さらに神戸において起こった事件の報道に接するたびに、あの体育教師の硬直した教育観(ひいては人間観)を想像してため息が出る。それは、見事に「機械化」された「教育」である。こうインプットすればこういうアウトプットがある、と単純に図式化された「調教」に過ぎないものが、教育と称して実施されていたのである(詳しくは別の機会に譲るが、実は担任教師の方の「指導」も大同小異にとどまり、この盗難事件は考えられる限り最悪の結末を迎えた。校内暴力の嵐が鎮静化しつつある背後でいじめ問題が顕在しかかっていた過渡期的な時代でもあり、何もかも教師のせいにするのも酷な話ではあるが、私を含めた当事者たちにとって、現在もなお避けて通りたい思い出になってしまっている)。「機械化」された交わりが非人間化を引き起こすという現実は、恐らく教育の現場だけでなく、そこかしこに蔓延しているに違いない。

イエスの愛は、どの時代の人間にとっても「あまりに日常的でつまらない働き」と感じられるものにさえもこめられたものであった。誰にでもできる働きでありながら、しかしそれが、偉大な教師であり傑出した預言者であり、そして世を救うメシアである、他ならぬ「イエスの働き」として行なわれたこの「洗足」は、そうしたつまらない働きを他の誰でもない「その人」によってなされるかけがえのない働きとしてなし、また受けとること。そこから十字架の愛の実践が始まるのではないか。

変わり映えのない退屈な日常を生きている、というやるせなさを感じた時、イエスはそのような働きにこそ十字架の愛を込めて歩まれた方であることを思い返したい。何か特別の事件の真ん中に立たされた時だけでなく、日頃の些細な働きの直中にさえ、イエスはともにおられ、我らに愛のまなざしを注いで下さるのである。