Date: Sun, 29 Jun 97 22:09:07 +0900 From: 竹迫 之Reply-To: ymca-s@cup.com Subject: [ymca:0680] tuushin-sekkyou To: ymca-s@cup.com (Cup.Com ymca-s ML) Errors-To: ymca-s-request@cup.com Message-Id: <199706292209.FML18616@hopemoon.lanminds.com> X-ML-Name: ymca-s X-Mail-Count: 0680 Mime-Version: 1.0 Content-Type: text/plain; charset=iso-2022-jp Posted: Sun, 29 Jun 1997 22:03:00 +0900 Lines: 128 竹迫牧師の通信説教 『イエスの叫び』 ヨハネによる福音書 第12章44−50による説教 1997年6月29日 浪岡伝道所礼拝にて (ここから) −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのでは なくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。」(44) 今日の箇所は、これまでイエスが宣教において語ってきた言葉の要約である。イ エスを信じる事は神を信じる事であり、イエスを見る者は神を見ているのである事。 イエスは世を照らす光であり、闇から世を救うために来た事。イエスが語るのは神 の言葉である事。イエスが十字架の時まで人々の前から姿を消すにあたって、これ までに描かれて来た、イエスの奇跡(しるし)、イエスの行動、イエスの教えとい う「弟子以外の人々へのメッセージ」が、総まとめされているのである。それは、 「イエスは神から遣わされた救い主である」「イエスこそがキリストである」とい う証しに他ならない。 それは、イエスの弟子にして「キリストのからだ」である教会が語るべき内容で もある。礼拝において牧師が語る説教も、教会の各種の働きも、究極的には今日の 聖書箇所において語られる内容を伝えるものである。教会から発信される全ての言 葉も働きも、この内容を伝える以外のものであってはならない。教会は、その存在 の意義の全てを「この内容を伝える」という一点に置く時に、教会で「ある」ので ある。そこに、癒しや感動・献身の決意など奇跡的な出来事が生起したとしても、 それはイエスがキリストであることを証しする「しるし」として理解されなければ ならない。教会にそのような「超能力」が備えられているのでなく、教会の存在や 働きが「イエスがキリストである」との証しに用いられる時、そのような出来事が 起きるのである。 教会は、この内容を伝えるために、あらゆる努力を惜しんではならない。「伝わ る」という事実が起こらない限り、伝えた事にはならない。「我々はいつでも『イ エスこそキリストである』と語ってきた」と言い張っても、またそれが事実であっ たとしても、「イエスが救い主である」という言葉が「証言」として受け止められ ない限り、アリバイにすらならない。「イエスが救い主である」という内容が人々 に伝えられたか否か、伝わったか否かに全てがかかっているのである。 ある人々は、イエスが救い主だという事を語り続けるのが教会の使命であると言 う。彼らは聖書の文言をテープに吹き込んで街中に流し、あるいは看板に記して街 中に貼っておく。そうした行為をもって「宣教」と考える。それは確かに「イエス がキリストである」という言葉を発信する行為であるが、しかし「発信」する事が 「伝える」事と同じではない。教会が、「発信した」という事実に満足するだけな ら、それは発信さえしていないのと同じ事である。教会の働きの目的は、イエスが キリストであると「伝える」ことだからである。 またある人々は、かつてイエスがそうしたように、我々も人々に奉仕するべきだ、 と考える。個人的な小規模なものから、組織的・国際的な大規模なものまで、様々 な奉仕が試みられ、現在も継続されている。非常に尊い働きも多くあり、教会なら ではの活動と思われるものも少なくない。しかし、敢えて言わなければならないが、 イエスがキリストであることを伝えるべき教会が、そうした奉仕の働きをなしてい るという事実に満足するだけなら、その働きをしていないのと同じ事である。それ らの奉仕がイエスの捨て身の愛を受け継ぐものとしてなされるだけでなく、イエス がキリストであると「伝える」事をも目的とするはずだからである。教会がいくら 尊い奉仕を重ねたとしても、またそれが人から感謝される奉仕であったとしても、 それを通じて「イエスこそが救い主である」と伝えるのでなければ「教会の働き」 とは言えない。教会でなくても可能な働きに過ぎないからである。 教会の言葉と働きとは、今日に生きる我々にとっても「イエスが救い主である」 と証しするためのものでなければならない。そのために教会は「なぜ2000年前 のイエスが、今日の我々の救い主であり得るか」を明らかにしなければならない。 その上で、それを伝えるための「言葉」や「働き」を用意しなければならない。こ の「伝えるため」という、教会に対してのみ与えられた使命を、教会はどれほど重 視してきたか。教会が語ってきた言葉は確かにキリスト教の知識を広めたし、教会 のなしてきた行為は確かにキリストの愛の実践であった。にも関わらず、「イエス がキリストである」事が、どれほど人々に伝えられて来たのだろうか。『伝わった』 のだろうか。 神戸において小学生が惨殺されたという事件が起こってから1カ月。容疑者とし て中学生が逮捕されたと報道された。遺体が切断されるという事件のおぞましさに 加え、大胆な挑戦状が人々の不安を掻き立てた。もし今回逮捕された容疑者が犯人 だったとしたら、これは大変痛ましい事件として記憶されることになるだろう。新 聞社に送られた挑戦状には、「人の痛みだけが自分の痛みをやわらげることになる」 という1節が含まれていた。「犯人の心の中に癒されない痛みがあり、それが殺人 を引き起こしたのだ」という意味であろうが、しかしこの告白が、「救い主が痛む 事で我々の傷が癒された」という、教会が宣べ伝えるキリスト論そのままである点 に注意したい。 この犯人は殺人を犯すほどにキリストを求めながら、キリストとは出会わなかっ たのである! この犯人に、キリストは伝わっていなかったのである! 舞台は神 戸である。あの大震災の後、ボランティアという形で多くの人々の善意が実践に移 された、あの神戸である。多くのキリスト者たちもまた、イエスの愛を実践するべ く、神戸において働いたし、今も働いているのであある。それでもなお、最もキリ ストを必要とする人に、キリストは伝えられていなかった! 宣教も奉仕も十分で はなく、「キリストを伝える」という働きが行き届いていなかった事実を、教会は 痛みをもって受け止めなければならない。涙をもって告白し、悔い改めなければな らない。そして、今以上に大声で叫ばなければならない、「イエスこそが救い主で ある!」と。 今日の聖初箇所において、イエスがこれらの言葉を「叫んだ」と記されている点 に注目したい。イエスは、叫んだのである! イエスの言葉を受け入れない世に対 して、イエスの働きを悟らない人々に対して、イエスの愛を拒絶する我々に対して、 イエスは大声で叫ばずにはいられなかったのである。この世を愛するイエスの、あ まりにも悲惨なこの世の姿に対する、いたたまれない叫び声が、イエスの宣教の本 質だったのである。 キリストのからだとしてこの世にある教会は、この「叫び」の源となる痛みを見 失ってはならない。語る言葉が届かず渾身の奉仕も実らないこの現実に、痛みと憤 りを抱くその時に、教会はイエスの叫びを受け継ぐ者とされるのである。この世に 対する痛み・憤りは、この世に対する「愛」の表れである。我々自身が叫ばずにい られない時、イエスの愛が確かに我らに向けられたものであることを、我々は悟る のである。そして、我々の働きが実を結ばない現実に身をよじるような思いを抱く 時、我らはイエスの愛を行う者へと変えられている事実を悟るのである。 十字架へ向かうイエスの叫びを受け継ぐ者でありたい。その叫びの源にある愛を、 信じ行う者となりたい。その祈りを失わない限り、教会はキリストのからだである。 イエスにおいて起こった救いを受け継ぐものとなるのである。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− (ここまで) ************************************** この通信は、NIFTY-Serve を経由して、以下の人々に同時発信されています。 安保 尊さん 上原 秀樹さん 木村 達夫さん 佐野 真さん 等々力かおりさん 長倉 望さん 水木 はるみさん 山田 有信さん YMCA同盟学生部メイリング・リスト登録の皆さん ************************************** (追記)22日、御殿場の静岡にて開催されたYMCA大会の聖日礼拝に招かれ、 説教の奉仕をいたしました。YMCA同盟の中に組織された「青年・女性特別委員 会」のプロデュースする礼拝であるとの事で、特に「青年」問題に関する考察に時 間をかけました。青年教育に関する様々な資料を一括して再検討し、自分の取り組 んで来たことなどを振り返りつつ、「今日、『青年』とは誰のことか」「教育の使 命とは何か」を考えるうち、YMCA以上に教会自身が問われている課題なのだ、 との印象を強くしました。教会からは事業体化が批判されるYMCAですが、青年 を「使える人材」としか受け止めてこなかった教会にもまた、悔い改めが必要だと 感じました。2週間にわたって担当の方と連絡を取り合い、説教だけでなく礼拝の 式順から検討を行いましたが、ギター・オルガン・ピアノによる奏楽と、信徒・非 信徒合わせて5名による連続祈祷など、YMCAならではの試みを実現することが できました。出席した人々の「神と向き合うのが礼拝なのですね」という感想を伺 い、こちらの方が礼拝の意義を教えられたように思いました。 そして、神戸の小学生殺人事件の容疑者逮捕の報道に接しました。体中から力が 脱けるような無力感に襲われ、しかしそこには教会のなすべき奉仕の在り方が強く 示されているようにも思われました。この呻きを聴いて下さる神の愛に希望を置き つつ、為せる事を誠実に果たして行きたいと願います。 竹迫 之 CYE06301@niftyserve.or.jp mit21006@seagreen.ocn.ne.jp