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Posted: Sun, 01 Jun 1997 23:47:00 +0900
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竹迫牧師の通信説教
『イエスに何を見るか』
ヨハネによる福音書11:55-12:11による説教
 1997年5月25日 浪岡伝道所礼拝にて

(ここから)
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 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日の
ために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる
が、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」(7−8)

 「イエスの居所を知る者は届け出よ」との命令が出されていた。ユダヤの最高
法院は、イエスを処刑する事でユダヤの平和を保とうと考えていたからである。
イエスは以前から命を狙われていたが、今回は正式な逮捕と処刑という計画が組
まれていた。イエスにとっては以前にもまして危険な状態であり、事実、それか
ら6日経ってイエスは逮捕され、十字架に処刑されるのである。
 そうした危機の直中で、「ナルドの香油」と呼ばれる出来事が起こったのであ
る。
 イエスは再びベタニアにいた。ベタニアはイエス殺害の陰謀が渦巻くエルサレ
ムの近郊にある貧しい村で、マルタ・マリア姉妹、その兄弟でイエスにより死か
ら蘇生させられたラザロが住む所でもあった。イエスを囲んでの宴会が催されて
いた。その時、マリアが「純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ」をイエ
スの足に塗り自分の髪で拭った。家中にその薫りが満ちた。宴会で歓迎の意を表
するために来客の頭に香油を注ぐ習慣があったが、ここでは主賓とは言えイエス
1人に、しかも足に塗ったのである。後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが
それを非難して「それを300デナリオンで売って、貧しい人々に施すべきであ
った」と言った。ナルドの香油は、ヒマラヤ産の木の根から採集できる高価なも
のであったという。1リトラは326グラム相当であり、1デナリオンは男子1
日の労賃であって、つまりほぼ年収分の高級品を使ったことになるのである。
 ユダならずとも、これには声を上げざるを得ないのではないか。浪岡伝道所の
今年度の予算は180万円弱であるが、もし我々の手にこの香油があれば、もう
少し余裕をもった活動が可能になるであろう。教会近隣に居住する人々の中で、
様々な事情から生活に困難を覚えている人は多くある。それらの人々への奉仕が、
そうしたお金があれば可能になる。ユダのように声には出さずとも、心の内で同
様の呟きを抱えた者が、そこにはいたのではないか。
 教会の合い言葉は「愛の実践」である。貧しい人々への施しは、早くから教会
活動の大きな柱となっていた事が知られている。使徒言行録やパウロの書簡にも、
教会が貧しい人々に食事を提供していたことが記されている。そうした配慮が、
実際にイエスの時代から行われていたのかどうかは定かではないが、イエスの癒
し自体がそういう性質を持っていたのだし、何より律法には貧しい人々への配慮
が繰り返し命じられているのである。ここでは、会計役のユダがお金をごまかし
ていたと説明されてはいるが、あるいは彼は、特に貧しい人々への配慮に使命を
感じて、不正になるまで施しを行っていたのかもしれない。そうだとしたら、確
かに公的な会計を私物化しているには違いないが、しかしユダの生真面目さの表
れであったと理解する事ができる。教会の財政の在り方についてまわる課題が、
この場面には凝縮されているのではないか。 しかしイエスは、「この人のする
ままにさせておきなさい」とマリアの行為を評価するのである。「わたしの葬り
の日のために、それを取って置いたのだから」と。確かにイエスはこの時、十字
架に向かう最後の6日間の途上にあったのである。イエスにとっては、マリアに
よって最高級の贈り物をささげられた事が、格別の感慨をもって受け止められた
のは間違いない。この出来事は、マリアにとってイエスが掛け替えのない存在で
あった事の証しであり、また告白であったからである。マリアにとってこの時の
イエスは、命の危険を冒してまで訪問してくれただけでなく、死んでいたラザロ
を蘇らせた人物であった。他の福音書には、様々な形でマリアがイエスによって
助けられた事情について説明されている。つまりマリアにとってこの香油は、イ
エスに捧げる他の使い道がなかった物なのである。マリアがどうしてこのような
高価なものを持っていたのか事情は明らかではないが、仮にイエスに用いる目的
で入手した物でなかったとしても、今ではイエスのために用いる以外の使い道を
見出だせなくなっていた物だったのである。
 イエスがそこにいると聞いた人々が、大勢押し寄せて来た。彼らは死からよみ
がえらされたラザロと、ラザロに命を取り戻させたイエスとを見物にきたのであ
った。突き詰めて言えば、彼らはイエスの「働き」を見にきたのである。それが
自分にとって得になる働きであるか否かを見極めるために。マリアにとっては、
既にイエスの「働き」が重要だったのではなく、イエスの「存在」そのものが生
きる希望となっていたのであった。だから彼女の行動は、イエスに対する損得や
計算を度外視した愛となって表れたのである。
 教会が実践する事を求められる「隣人愛」は、何を根拠とする愛なのだろうか。
我々は困っている人を見た時、「助けなければ」と素朴に発想する。そして救援
を求める人々は、実に多く存在する。だが、その素朴な発想を、どこまで貫徹す
る事ができるだろうか。我々に対して従順であり、好意を返してくれる人に対し
て、我々はほとんど無限に「隣人愛」を行う事が出来るだろう。そうした人々の
微笑みや感謝に力づけられて、限界を越えた行為が可能になることすらあるだろ
う。しかし、我々を計算づくで利用し、ある時には密かに、あるいはおおっぴら
に軽蔑し反抗する人々に、もしくは嘲りを内面におしかくしている事に気付いて
しまった人々に、我々は「隣人愛」を実践する事が出来るだろうか。
 それは、イエスを愛することによって可能となるのである。なぜなら、イエス
こそは「敵を愛する」ゆえに、嘲られ罵られながら十字架に身をささげた方だか
ら! イエスを愛する時に、イエスに我らの生きる根拠を見出だす時に、我らは
初めて、それが我らを傷付け軽蔑する人々であろうとも、イエスが愛されたゆえ
に愛する事ができるようになるのである。
 我々にとってイエスは、どんな存在だろうか。我々はイエスによって達成され
た救いを信じ、そこに希望をおくものであるが、我々の持っている最上のものを
イエスに捧げるほど、その希望は確かなものとなっているだろうか。教会が困難
の中にある人々に救援を差し延べるのは、「我々が大切に思うイエスが命じるか
ら」なされる行いではなかったのか。マリアの在り方は、浪費的であり刹那的で
はある。ひょっとしたら、キリストの愛についてよく言われるような「エロスの
愛とアガペーの愛」という区別すら曖昧であったかもしれない。しかしあの香油
は、マリアにとっては一番ふさわしい使われ方をした財産だったのである。我々
も、教会や自分の財産を用いる時、このマリアの在り方に学びたいと思う。
 イエスに何を見るかが問われている。我らの生きる希望の根拠を見て、歩みの
糧としていきたい。
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(ここまで)