Date: Sun, 25 May 97 19:29:46 +0900
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竹迫牧師の通信説教
『ひとつに集めるために』
ヨハネによる福音書 第11章 45−54による説教
1997年5月18日  浪岡伝道所礼拝にて(聖霊降臨日礼拝)

(ここから)
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 彼らの中の一人で、その都市の大祭司であったカイアファが言った。「あなたが
たは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで
済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分
の考えから話したのではない。その都市の大祭司であったので預言して、イエスが
国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている
神の子たちをひとつに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。 (50−52)
+++++++
 ラザロの蘇生は、人々にとって喜ばしい出来事であった。マルタ・マリアの姉妹
はもちろん喜びと感謝とをイエスにささげたに違いなく、またそれを目撃した人々
は死から命への甦りというただならぬ出来事に驚きと恐れを抱いた筈である。その
中の多くの人々は(45において説明される通り)イエスが確かに神から遣わされた
者であると確信した事であろう。その確信は、「神が我らと共にいる!」という喜
びと、不可避で対処不能と思われていた重い現実に勝利させて下さる神の約束への
希望を生み出したはずである。さらに、死を覚悟してイエスに従って来た弟子たち
も、自分たちの歩みの先に待っているであろう栄光を示されて、大いに励ましを受
けたに違いない。
 しかしヨハネ福音書は、そうした喜ばしい様子については全く何も語らない。イ
エスが行ったこの奇跡の働きが、死という暗闇に閉ざされたこの世を照らす輝かし
い光だとするならば、その光をただちに打ち消そうとするこの世の闇の反撃につい
て描くのである。それは、これまでのような私刑や暗殺による抹殺ではなく、イエ
スを公に処刑するという計画の発動であった。
 この聖書箇所には、イエスがなぜ十字架につけられなければならなかったのかが
明確に説明されている。当時のイスラエルは植民地としてローマ帝国の支配下に置
かれていたが、イスラエルは決してローマに従う民ではなかった。武力においてロ
ーマとの力の差は明かであったから表向きは服従していたが、皇帝を神と信じさせ
礼拝させようとするローマを、むしろはっきりと「偶像を崇拝する敵」として考え
ていた。ローマ帝国もイスラエルが決して服従している訳ではないと知っていたが、
もしユダヤ人が全面的に抵抗を始めると、圧倒的にローマ帝国が強いとは言えかな
りの血が流される事態は避けられない、との判断から、例外的にユダヤのヤハウェ
信仰を黙認していた。むしろ宗教指導者たちをうまくコントロールする方が、支配
の内実を保つ事が可能だったのである。ユダヤの民衆とローマ帝国の間に立った指
導者たちは、ユダヤ人たちを信仰で縛り付け反乱を抑え込む代りに、ローマ帝国か
ら利益を得ていた。ユダヤにおける平和は、こうした危ういバランスの上に辛うじ
て保たれていたのであった(沖縄をめぐる問題を連想させられる)。
 指導者たちにとってイエスの登場が脅威だったのは、こうした事情による。イエ
スが起こす奇跡の力に、ユダヤ民衆は「これぞローマの支配から民を解放する救い
主だ」との期待を寄せ始めていた。宗教指導者を批判するイエスがますます力をつ
ければ、民衆を押さえ付けることで平安を保っていた指導者たちの立場が危うくな
る。何か騒乱が起これば、それを利用してローマがイスラエルを武力制圧するに違
いないと考えられたからである。そのような政治的判断はユダヤの指導者たちだけ
のものではなく、民衆の中にも同じ様に考える人々があった。イエスが死者を甦ら
せたという事件は、ユダヤ民衆に決定的な影響を与えるに違いなく、ここでローマ
への反逆を訴える勢力が集まったら、ローマとの全面衝突は避けられない。そこで、
今のうちにイエスを排除すべき、と考えた人が、ベタニアの事件を指導者に報告し
たのであった。
 ついにユダヤ最高法院が、イエスの処刑を決断した。何か騒ぎが起こる前に、イ
エスを犯罪者として抹殺する事! イエスひとりをイスラエル・ローマ両者にとって
の共通の敵として葬る事。これ以外に和平を守る道はない、と考えたのであった。
この場面において、イエスの十字架が決定的になった。
 全体のために個人が犠牲になる。これは、我々の国においては美徳と考えられて
きた。確かに献身は自己犠牲的な側面を持つ。その当人が、全体に奉仕するため自
発的に犠牲になるとしたら、その行為は「愛」と考えられるに違いない。イエスが
この世に来られたのは、そしてイエスに倣う者たちが辿って来たのは、その「愛」
の選択であった。しかしこの場面における犠牲の決定は、イエスの愛とは無関係に
下されたものであった。「全体を守るため個人を犠牲にする!」。そしてその犠牲
に選ばれるのは、抵抗する力を持たない「弱い者」なのである。我々の歴史におい
て、数限りなく繰り返されて来た悲劇は、弱い者を犠牲に選ぶ、というこの判断に
基づいて起こされて来たものであった。
 「イエスが弱い者と共にある」と言われる根拠は、ここにある。「イエスは強い
者でありながら弱い者の味方をした」のではない。弱者に哀れみを感じて同情した
のではない。「イエスひとりを犠牲にしてイスラエルの滅びを回避する」というカ
イアファの提案は、神の意志を語る「預言」であったと記されている。人間世界の
陰謀にイエスの身を投げ込む事で救いを完成させるという、神の計画がカイアファ
の口を通して伝えられたのであった。「弱者の犠牲」は、果たして神の意志であろ
うか。今日「弱者」と呼ばれる人々が犠牲とされることも、それは神の意志である
のだろうか。
 「弱者の犠牲」は人間の都合による悪しき判断であり、なくすべき悲劇である。
しかしイエスが「弱者の犠牲」とされた事自体は、神の救いのご計画であった。イ
エスは、そのために世に来られた。弱者と共にあるために、神が弱者を愛される方
であると証しするために、弱者を通じることで「救い」が人からのものでない事が
明らかにされるために。
 弟子たちが、イエス不在を嘆きイエスを十字架においやったそれぞれの負い目を
持ち寄って祈りを合わせていた時、聖霊が下り教会が誕生した、と使徒言行録は語
る。イエスの十字架が神の救いの計画にあって必然であり、イエスを十字架におい
やる人間の罪が、救いへの奉仕と変えられて用いられた事を明らかにしたのが、復
活であった。その復活の恵みを証しする群れとして立てられたのが教会である。教
会には、ユダヤ人のみならず、全世界の人々が集められることになった。
 イエスが世のために犠牲となられたのは、世を救おうとする愛の働きであった。
またイエスの死を通じて、教会が立てられた。ユダヤ人もそうでないものも、神の
もとにひとつとされるためである。イエスの体である教会は、イエスの体であるが
ゆえに、弱者と共になければならない。それが神の意志である。
 しかし心しなければならない。「弱者の犠牲」が神のみ心であるのは、イエスの
十字架1回限りだという事を! イエスが弱い者と共におられるがゆえに、弱者が
強者の犠牲にされてはならない。全ての者がひとつに集められるのは、イエスがす
べての者の身代わりとして犠牲にされた十字架の下に、である。福音が喜びのメッ
セージとして語られるのは、強い者が生き残るために弱い者を犠牲にする、という
悲惨の歴史が、あの十字架の出来事1回限りで打ち止めとされた、という点にある。
全ての悲惨が神によって罪と定められ、その罪もあの1回限りの十字架において終
了させるべく赦されたのである。その事実を語るため、我々はひとつに集められた。
イエスの十字架の意味を知る我々が弱い者とされまた弱い者となるのは、その事を
全世界に語るためである。
 イエスのからだなる教会は、イエスと共にある弱者たちと共に歩む。そのような
教会を作り上げるために、祈りを合わせよう。
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(ここまで)
願わくは、この言葉があなたにも福音を届けるものとして用いられますように。
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この通信は、NIFTY-Serve を経由して、以下の人々に同時発信されています。
上原 秀樹さん  木村 達夫さん  佐野 真さん  等々力かおりさん
長倉 望さん  水木 はるみさん  山田 有信さん  
YMCA同盟学生部メイリング・リスト登録の皆さん
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竹迫 之  CYE06301@niftyserve.or.jp
(追記)
 激務の日々を過ごしています。親からも教師からも「怠け者」と罵られつつ育っ
た私ですが、こんな勤勉さが隠されていたのかと驚きを感じます。説教の原稿が間
に合わず、数行のメモを走り書きして礼拝に臨む、という事態が3週間も続きまし
た。浪岡伝道所の教会総会、奥羽教区の総会が相次いで終り、八甲田伝道所の建築
計画でお付き合いする業者との打ち合わせもひとつの山を越え、ようやくこのよう
に通信説教の原稿もまとめる事が出来ました。まとめてお送りします(FAXで受
信する方、一杯紙を使ってゴメンなさい)。一部の方々には「死んでいるのではな
いか」とご心配をおかけしました。
 浪岡伝道所の累積赤字はとうとう20万円に達し、牧師謝儀(給与)を減額する事
で対処するべく協議を進めてきましたが、年度替わり直前になって会計役員が胃潰
瘍のため入院してしまいました。もともと寝た切りの家族を抱えた信徒でありまし
たから、様々な心労が重なってのことと思います。頑張ってくれたのだなあ。
 八甲田伝道所の会堂建築は、ログハウス案で決定しそうです。山の斜面に立つ丸
太小屋は、想像するだけでも楽しい姿ですが、大切なのはその内実。農村センター
としての活動が実を結ぶよう、祈りをもって支えたいものです。それにしてもログ
ハウスは、メーカーによって全然考え方が違うものですね。住まう器によって人の
生活は大きな影響を受けるものですが、教会ならではの建物になって欲しい、と願
っています。
 5月26日、東北教区の「原理問題対策委員会」に出席します。私は奥羽教区の
「統一協会問題対策委員会」の委員長を務めていますが、奥羽教区の場合、特に仙
台にまたがる相談が多いので、教区を越えた協力体制づくりのために協議します。
(案内状を見たら「講師  竹迫 之先生」と書かれていた。講演だなんて一言も
聞いていないのだがなあ。なんも準備してないけど、ちゃんと謝礼が出るのかなあ)
今年の11月には、再び大掛かりな合同結婚式が催される予定です。何とか阻止した
いものです。今年もきっとまた相談の嵐なんだろうなあ。浅見定雄先生の『なぜカ
ルト宗教は生まれるのか』(日本基督教団出版局)は秀逸でした。しかし、あちこ
ちの講演をまとめたためか、重複する箇所が多かったようにも感じます。お手軽だ
な、浅見君。今後も頑張ってくれたまえ。(・・・本人に読まれてないだろうな?)