Date: Thu, 1 May 97 22:57:40 +0900
From: 竹迫 之 
Subject: [ymca:0533] tuushin sekkyou
To: ymca-s@cup.com (Cup.Com ymca-s ML)
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Posted: Thu, 01 May 1997 22:40:00 +0900
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竹迫牧師の通信説教
『光を内に宿す』
ヨハネによる福音書 第11章1−16による説教
1997年4月27日 浪岡伝道所礼拝(東奥義塾高校入学記念礼拝)にて

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 『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである』

 ヨハネ福音書11章は「ラザロのよみがえり」と俗称される物語が収められてい
る。イエスが、病気で死んだラザロを墓の中からよみがえらせた。その奇跡行為に、
イエス自身の十字架上の死と復活が予告されている。それは「死の現実への勝利」
の予告である。我々の関心は「この物語がフィクションであるか事実なのか」に向
きがちであるが、それを問う前に「この物語に示されたメッセージとは何か」を汲
み取る事に専心したい。
 ラザロは、あのマルタとマリアの兄弟であり、イエスとは仲のよい友人だったよ
うである。ラザロの重い病に際し、マルタかマリアかその両方かがイエスに助けを
求めて来た。イエスの持つ「癒し」の力からすれば、ラザロの命が助かるものと期
待したからである。しかしイエスは、その事情は明らかではないが、なおも2日間
そこを動かなかった。その間にラザロは死んでしまうのである。ラザロの死を悟っ
たイエスは、そこで初めてラザロの所へと出発する。
 ラザロの危機を知りながら、イエスが2日間動かなかったことについて、「イエ
スは死者をよみがえらせる力を持っていたから、余裕をこいていた」と読んではな
らない。ここで弟子たちがイエスに告げている通り、エルサレムではイエス自身の
命の危険があった。これまで読んできた通り、イエスと論争して来た人々は今やイ
エスに対する明確な殺意を抱いていたのである。そして(今日の箇所には含まれて
いない記述だが)、ラザロの墓に辿り着いたイエスは、そこで大きく心を動かし、
涙を流している。福音書中イエスが涙を流した記述は、こことルカ福音書の「エル
サレムのための嘆き」のみである。
 イエスはここで、愛する者の危機を知らされつつ、しかし苦悩しながら、2日間
ものあいだ動く事ができずにいたのである!
 それは我々自身が抱える苦悩の姿でもある。我々は世界中のあらゆる場所で、多
くの人々が血を流し病に苦しみ命を落としている現実を知っている。しかし我々は、
それらの出来事に対して何等の変更を加えられないでいることに、大きな苛立ちと
苦悩を覚える。イエスの持つ奇跡の力を、我々もまた手に入れたいと心から願うが、
しかしそれは、多くの場合かなえられない願いである。我々もまた墓の前に立ち尽
くし、心を揺さぶられながら涙を流すのである。我々は、その苦悩や涙を、ネガテ
ィブな姿ではあるが、やはり「愛」と理解している。
 福音書の記述によれば、イエスは我々の抱える苦悩を解決する力を持った異能者
である。しかしそのイエスが、その内に、我々と同じ、人間の愛と哀しみを宿して
いる事を、我々は見逃しがちなのではないだろうか。イエスが我々と同じ涙を流す
事実を、彼が異能者であると伝えられるがゆえに、忘れがちなのではないだろうか。
イエスが異能者であったとして、しかしその力が我々に向けて発揮されるのは、や
はりこうした人間の持ち得る愛と哀しみが動機となっているのである。異能者ゆえ
に愛を持つのではなく、愛ゆえに異能者が我ら人間と共にある決意をされた事実に
注目しなければならない。その愛は、我々も持ち得るはずであるが、我々は能力の
有無を問題にしてそれを無視する局面があまりに多いのではないか。
 しかし同時に、我らの無力さも余りに明確なのである。我々が愛を行おうとする
とき、トマスのように「我らも一緒に死のうではないか」とまで決意しなければな
らなくなる場面も、確かに存在する。先日のリマ事件はテロリスト全員射殺という
ショッキングな結末を迎えた。「テロ」という在り方が良いとは言えない。むしろ
はっきりと「悪い」と断言しなければならない。しかしペルーには、その方法をも
ってしか立ち向かえないと思われる現実がある事も、同時に知っておかなければな
らない。ほぼ絶対的な貧富の差と、今回証明されたような圧倒的な武力を背景にし
た「力による支配」が、ペルーの現実ではないか。あのテロリストたちが行動を起
こす際、彼らの中のある人々もまた指導者の脅迫を受けて事件に至ったと言われて
はいるが、しかし最終的には「我らも一緒に死のうではないか」という決意があっ
た事は間違いないのである。我々は、その思いを無駄にしてはならない。ここにい
る我々は依然として決意しないですんでいるが、同じ時代を生きる若い彼らは決意
せざるを得なかった。そして、あの武力突入が起こった。
 彼らの決断は、そしてまた我らも同じような場面にある時に下さなければならな
いであろう決断は、仮に「愛」を下敷きにしていたとしても、何が待ち受けるかわ
からない「闇」に飛び込んで行くようなものにならざるを得ない事がある。私達の
学ぶ歴史において、「愛」と「正義」と「自由」のために闘った人々は、たくさん
いた。名を知られている人から、その存在さえ知られない人々まで、そして、正し
いやり方をした人から正しくない方法を選んでしまった人まで、数多くの人々が暗
黒の現実に挑戦し、今も闘い続けている。その内の多くの人々が、虐殺され、踏み
躙られてしまった。それは、その人が死んだというだけに止まらず、その人の「愛」
が殺されてしまったという事実なのである。
 我々は、我々の愛が殺されて行く現実に直面し、次第に無気力になっていく。愛
が力を持てないとするならば、そもそも愛の意志は存在する価値がないのではない
か、という思いに囚われるからである。その結果、我々は身の回りで行う事が可能
なはずの、小さな愛の行いさえ放棄してしまう。愛が必要とされる現実を目の当た
りにした時、しかし我々が何をしたところで何も変わらない、と考える。その時に
感じる心の痛みを無視して、何も見ず・何も考えず・何も行わない事を選んでしま
う。それは、我々の内側に生じる痛みが堪え難いからである。体の痛みは我慢した
り馴れたりする事があっても、心の痛みは消し様がない。我々はそれを感じないよ
うにする他に、その痛みから逃れる手段を持っていない。
 もしイエスと我々との違いがあるとしたら(イエスの持つ奇跡の力の他には)、
この心の痛みとどう向き合うかの姿勢にあるのではないか。イエスは、愛する者が
病に苦しみ死に至ろうとする現実を「ただ見ているしかない」という苦悩から、決
して目をそらさない。「自分は何もしていない。何もしなかった。何もできなかっ
た」という現実に執着する。その苦しみは計り知れない(我々はその痛みに耐えら
れるか?)。しかしイエスは、同時にその苦しみを「神の栄光のためである」と言
い切って、圧倒的な闇の世界に向かって歩みを進めるのである。
 イエスは「夜、歩けばつまずく。その人の内に光がないからである」と語る。こ
れは我々の姿である。愛が殺される闇の世界に直面する我々は、つまずき倒れる事
を予測して、そもそもそこへ踏み出す勇気を失ってしまう。我々の内には、闇を照
らす光がないからである。ならばイエスは? 闇の世界に躊躇なく踏み出して行く
彼の内側には、光があったのである。それは、闇は闇に終わらない、という確信に
満ちた希望である! 愛は殺されても死なないと信じる勇気である! イエスはその内
側に、この希望と勇気を持ち続けた! だから彼は、はらわたを引き裂くような心の
内側の痛みに耐えることができた。そして、命の危険を顧みずに進む事ができた。
「闇」の現実は神の栄光を現す舞台である、と信じる事ができたのである。
 もし、その希望と勇気を保つ事ができるなら、イエスが救い主である事を信じな
くても良いのである。しかしもし、イエスが救い主であると信じる事で、その希望
と勇気を得る事ができるなら、イエスを信じなさい。キリストなしに愛を保つ事が
できるなら、キリストを信じる必要はない。しかし、キリストを信じる事で愛が力
を持つのなら、キリストを信じなさい。教会は、キリストを信じる事で、愛を行う
希望と勇気を得る者の集いである。その交わりに加わる事で、生きる喜びを回復す
る事ができるなら、共にイエスに従って歩んで行きたいと願う。
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(ここまで)
願わくは、この言葉があなたにも福音を届けるものとして用いられますように。

**************************************こ
の通信は、NIFTY-Serve を経由して、以下の人々に同時発信されています。
上原 秀樹さん  木村 達夫さん  佐野 真さん  長倉 望さん
水木 はるみさん  山田 有信さん  
YMCA同盟学生部メイリング・リスト登録の皆さん
**************************************

竹迫 之  CYE06301@niftyserve.or.jp

《追記》
 4月29日(元天皇誕生日の「みどりの日」ではなく、チェルノブイリ事故を記
念する「地球の日」である事を覚えましょう)、宮城県中新田「バッハホール」に
て、『立花千春&竹佐古真希フレッシュコンサート』が開催されました。フルート
とパイプオルガンに山田武彦氏によるピアノを加えるという異色のトリオコンサー
トでした。私自身は聴衆でしたが、心配した音量のバランスも問題なくクリアして
おり、新しい可能性が示された演奏であったと思います。学生YMCAからは辻・
高徳両氏が来られ、私の仙台在住時代に知り合った統一協会被害者のご家族や親し
い友人たちなど、懐かしい人々との再会もありました。またこの機会に牧師が交替
した仙台北三番丁教会を訪ね、新任の酒井 薫先生ともお会いできました(酒井先
生は、私を統一協会から救出し、後に洗礼を授けて下さった人生の恩師です)。な
かなか内容の濃い仙台行きでしたから、徹夜の運転も気にならなかったゾ、と言っ
ておこう(夜明けの高速道路で一瞬「お花畑」を目撃したのも、まあ経験と言えば
言えるでしょう。きっとあれが死後の世界です。いやあ、貴重な体験を儲けてしま
った。わはは)。