Date: Tue, 22 Apr 97 00:23:08 +0900
From: 竹迫 之 <CYE06301@niftyserve.or.jp>
Subject: [ymca:0515] tuushin sekkyou
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Posted: Mon, 21 Apr 1997 23:30:00 +0900
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竹迫牧師の通信説教
『良い羊飼い』
ヨハネによる福音書 第10章 1−8による説教
1997年4月13日 浪岡伝道所礼拝にて
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「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」
イエスは自らを「良い羊飼い」と証しした。神はイエスをお遣わしになり、人は
イエスによって救いに入る。その関係が、羊飼いと羊に託して語られているのであ
る。それは同時に、教会の頭なるキリストとはどのような方なのか、また教会に集
う我々とはどのような関係を持つのか、の証しにもなっているのである。
キリストが「羊飼い」ならば、我らは「羊」である。しかし自らを「羊」になぞ
らえる事への不快感を訴える人は多い。「あなたは羊のような人ですね」と言われ
た時、それを褒め言葉として受けとる事は恐らく難しいだろう。「羊」が概ねおと
なしい動物であり、群れをなして行動しており、何よりも「羊」は家畜であって支
配や管理の対象であると考えられる事などが原因であろう。「羊飼いに飼われる羊
としての我々」をイメージする時、そこには自主性の放棄・依存・隷属的支配関係
への嫌悪がついてまわるのではないだろうか。そして、その嫌悪感を抱えたままで、
この箇所の語ろうとするメッセージを理解する事は難しいのである。
我々にとって羊飼いは馴染みの薄い職業であるから、まずイエスの時代の羊飼い
について、特に「良き羊飼い」について知られていることを紹介する。
パレスチナの「良き羊飼い」たちは、自分の羊をわが子のように大切に扱ったと
いう。彼らは1匹1匹に名前をつけ、それぞれの羊のもつ特徴や性格を良く知って
いた。羊飼いは羊と常に起居を共にするだけでなく、病気や怪我で苦しむ羊の看護
や妊娠した牝羊や新生の子羊の世話にあたるなど、真の愛情をもって羊に接したの
である。良く慣らされた羊は名前を呼ばれると羊飼いの所に自分から近付いて来る
ほどであったという。良い羊飼いと羊との間には、単なる飼い主と家畜以上の絆が
結ばれていたのである。
羊飼いたちは、羊が外へ迷い出す事のないように、羊が飛び越す事の出来ない高
さまで石を積んだ大きな囲いを造った。門には門番が立っており、羊飼いは朝、そ
の門を通って羊の囲いに入り、羊を草のある牧場に連れて行くのである(したがっ
て、家畜泥棒や強盗たちは、夜に門ではなく柵を乗り越えて中に入り、羊を奪った
り殺したりした)。また移動する時には、羊が泥棒や野獣の餌食にならないよう、
羊飼いは常に羊の群れの先頭に立って道を歩んだ。羊飼いは、道中に群れから離れ
そうな素振りを見せる羊の鼻先に石を落として群れに引き戻すため、投石袋を使っ
た石投げの技術を磨いていた(サムエル記 上 17章においてダビデが巨人戦士ゴ
リアトを倒す場面が描かれているが、羊飼いダビデは石投げによって勝利している)。
羊飼いにとっては、羊を守るために野獣や強盗と闘う事は日常茶飯事であって、
「良き羊飼い」はそのために時には命を落とすことさえあるという。
このように、「良き羊飼い」と「羊」は主従関係で結ばれているのではない。羊
にとって「良き羊飼い」は、自分のために命をすら懸ける保護者であり、「良き羊
飼い」にとって羊たちは、わが子にも等しい愛すべき対象であった。確かにリーダ
ーシップは羊飼いが持っており、羊に対して時には(石を投げるなど)厳しく臨む
事もあるが、しかしそれも羊の安全に配慮するためのものであった。羊は、必ずし
も羊飼いの行動の意図を知ることがないかもしれないが、しかし羊飼いが信頼に足
る存在である事は確信できるのであった。(このような動物の飼い主に対する関係
は、たとえば我が家で飼っている犬の態度からも推測する事ができる。良い飼い主
であるかどうかには自信がないが、しかし犬は犬でそれなりの信頼を寄せているよ
うに感じられる)。
イエスが「良き羊飼い」であると述べるこの福音書の証言は、決して我々に支配
者への隷属を勧めているのではなく、「良き羊飼い」と羊との間に見られるような
信頼で結ばれた関係について語ろうとしているのである。
さて、牧羊はパレスチナにおいてよく見られた産業であったから、多くの人々は
日常的にその姿を見聞きしており、良き羊飼いと羊との関係について良く知ってい
た。何より、イスラエルの伝説的な英雄であるダビデ自身が羊飼いの出身であった
し、詩篇23編にも「主は(私の)羊飼い」という言葉がある。「良き羊飼い」と
しての神のイメージは、イスラエルの人々のこうした生活環境に由来する素朴な信
仰の表れであろう。神は、良い羊飼いが羊に接するように、我々人間に向き合って
下さる。起居を共にし、1人1人の名前と特徴・性格を良く知っていてくださる。
外敵から守るために気を配り、わが子のように育み、病の時には真の愛をもって接
して下さる。時には鼻先に石を落として怒りの声を発するが、それは我々が神の保
護のもとから迷い出さないようにとの配慮からである…。
実際、イスラエルの辿って来た歴史は、荒れ野に置き去りにされた羊の体験する
ような恐怖の連続であった。奴隷とされ、捕虜とされ、時に国を滅ぼされるという
歴史を経て、イエスの時代にもまたローマ帝国の支配を受けている。身を守るもの
がないだけでなく、常に自分を狙う敵に囲まれており、そのままでは命を失うのが
当然という状況に置かれ続けて来たからである。神を「羊飼い」・人を「羊」と例
えるのは、自主性の放棄でなく隷属でもなく依存でもなく、自分たちのおかれた環
境・だどってきた歴史を冷静に見つめた結果、「自分たちが生き延びるためには
『良き羊飼い』の保護が必要であり、事実『良き羊飼い』である神の保護があった
からこそ、イスラエルは生き延びる事が出来たのだ」という認識に達した結果に過
ぎないのである。
現在この社会に住む我々はどうであろうか。「良き羊飼い」なしに生きる事の出
来る社会であろうか。日本では神を信じなくても生きて行けると考える人が多い、
と言われる。むしろ、神を信じる者は狂気に近いとさえ考えられている傾向すらあ
る。真面目にやっていけば、あるいは真面目でなくても「人並み」のことさえして
いれば、誰でも幸せになれる、というのが、この日本に支配的な価値観ではあるよ
うに思う。薬害だとか通り魔だとか事故だとか災害だとか、恐ろしい事件がたくさ
ん起こっているのは事実だが、それはみな遠くの「不幸な」誰かに「たまたま」起
こった出来事だ。それは、事実どこかで起こっているに違いないが、自分には起こ
らない・起こるはずがない。実際には、そのように考える人が大多数を占めて「い
られる」に過ぎないのが、現在の我々の社会の姿なのではないか。
「自分には、それは起こらない」と漠然と安心していられるのは、どこかの誰か
による途方もない努力の結果であるか、あるいは万にひとつの素晴らしい幸運に恵
まれているか、もしくはそのシワ寄せを見えない所に押し付けているか、のどれか
が原因である。そして我々は、そろそろ極端なシワ寄せがなされている現実に気付
くべき時に至っているのではないか。沖縄の例を見るまでもない。東海村の核燃サ
イクル施設事故を振り返るまでもない。野獣や泥棒や「悪い羊飼い」の犠牲になっ
ている羊は、かなりの数に上っている。我々はただ、群れの中央を占拠しているの
でそれらを遠くの事として傍観できているに過ぎない・あるいは気付かないでいら
れる・または悪意を込めて無視する事ができるだけなのである。
イエスの話を聞きながらその意味を悟る事がなかったのは、まさしく群れの中央
に居座って、見えない所にシワ寄せを押し付けていた人々であった。野獣や強盗が
群れの仲間を殺しても、自分に危険がない限り平然と無視できる人々であった(あ
るいは「人」という羊は、そういうものなのかもしれない。危険が自分のすぐそば
を駆け抜ける事がなければ、「羊飼い」による保護の必要を感じないのかもしれな
い。実際の羊はどうであるか知らないが)。それは「神は(私の)羊飼い」と告白
する信仰からは大きく逸脱していた。
「良き羊飼い」の声を聞き分ける羊となりたいと願う。何より群れの中に生きざ
るを得ない羊である自分を悟りたいと願う。群れの中で起こっている出来事は、自
分にも起こり得る出来事である。群れを離れても生きて行けるという確信が錯覚に
過ぎない事を悟った時、「良き羊飼い」の声を聞き分ける事ができるだろうか。そ
の声に応えて群れに戻る事ができる羊であるだろうか。
更にイエスは言う「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私
を知っている。それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じであ
る」。「良き羊飼い」イエスは、同時に「良き羊」でもある! 「良き羊」は、羊の
ために命をも捨てる「良き羊飼い」として群れに遣わされる。自分の羊を知る者は、
羊にも知られる者とされるのである。
「良き羊」でありたい。「良き羊飼い」とされるために!
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(ここまで)
竹迫牧師の通信説教
『神の業を信ぜよ』
ヨハネによる福音書 第10章 19−42 による説教
1997年 4月20日 浪岡伝道所礼拝にて
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「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。
しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そ
うすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは
知り、また悟るだろう。」
我々は前回、「良き羊飼いのたとえ」を学んだ。イエスは「良き羊飼い」であり、
我々はその「羊」である、というそのたとえは、隷属的な主従関係や自主性の放棄
・あるいはイエスへの依存を促すものではなく、キリストと我々の真実の交わりへ
の招きなのである。我々は荒れ野に捨て置かれた羊のごとく危機に囲まれた存在で
あり、それを真実な愛で育もうとする「良き羊飼い」イエスは、我々にとって信頼
すべき保護者なのである。「良き羊飼い」なしに生きて行けると考えるのは、群れ
の中の他の羊に危険を押し付けているにすぎない事を隠蔽する傲慢であって、神な
しに生きているのではなく、隣人なしに生きようとする試みであるにすぎない。
「羊飼い」の声を聞き分ける「羊」になる事が、神がイエスを通じて我らに求めて
いる事柄なのである。更にイエス自らが、「良き羊飼いと羊の関係は、神とキリス
トとの関係に等しい」と語る事で、我らにも神の働きを受け継ぐものとして、隣人
に対する「良き羊飼い」として立ち上がるよう求めているのである。我々は、我々
の隣人の「良き羊飼い」(繰り返すが主従関係に置ける主人ではない!)となるた
めに、「良き羊」であることを求められているのである。
さて、この話を巡ってユダヤ人たちの間に対立が生じたが、それはかなり長い間
続いた。大多数の人々は「彼は悪霊に取り付かれて気が変になっている」と主張し、
ある少数の者たちは「悪霊の仕業ではあるまい」と考えた。この対立に決着をつけ
るべく、メシアであるか否かの証言をイエス自身の口で語らせようと考え、人々は
イエスを取り囲んで質問するのである。イエスは彼らに対して「私は言ったが、あ
なたたちは信じない」と、あの目を癒された盲人の言葉そのままに反論している。
例えば目の見えないために交わりから遠ざけられていた人や、長い間の闘病生活で
すっかり社会から取り残されたと感じていた人、あるいは民族同士の対立を背景に
誰からも嫌われ差別される人を、神と人との交わりに回復させたのがイエスの働き
であった。イエスは、「その働きの如何によって裁け」と語る。
この時イエスを取り囲んだ人たちには、実は明確な殺意があった。彼らは「もし
(あなたが)メシアなら、はっきりそう言いなさい」と問い掛けているが、しかし
彼らはイエスがそれについて語った時には、イエスを打ち殺そうとしている。彼ら
は最初から、「イエスがメシアである」という可能性を、全て排した所に立ってい
るのである。
我々が宣教する際にも「神がいるなら見せてみろ」と言う人々と出会う事がある。
しかしその人々も、今日の聖書箇所に登場する人々と同じく、神について語るその
言葉を受け入れる事はないであろう。神を求めるのは、神の(愛の)働きを求めて
いる人々である。神の業を待ち望む人々は、見えようと見えまいと愛の神を信じる
のである。差し迫った苦悩を抱える人ほど、「いつかはそれが解決される」との信
念を持たずに生きるのは難しい。また「いつかはこの苦しみから解放される」と信
じる時に、その日1日を乗り切る力が与えられるのである。そうした人々にとって、
神は「いるかいないか」で論じられる存在ではなく、神は「いてもらわなければ困
る」存在なのである。
それはまた、イエスについて考える時も同様であろう。イエスによって引き起こ
された癒し(=交わりの回復)を、本当に必要とする人にとって、イエスは「メシ
アであるかそうでないか」で論じられる存在ではなく、「メシアでなければ困る」
存在であるはずなのである。「もしメシアなら・・・」と問いを立てている時点で、
彼らは既にメシアとしてのイエスを必要としていないのである。
この事件が起こったのは神殿奉献記念祭の時であったとされる。神殿奉献記念祭
とは、バビロン捕囚時代に破壊された神殿が再建された事の記念日であり、同時に、
その後シリア王によってギリシャ神崇拝の場にされてしまったこの神殿を、激しい
独立運動の果てに再びヤハウェ礼拝の神殿へと引き戻した事の記念日でもある。聖
書の信仰は「ヤハウェがイスラエルと共にある」との信念を保つものである。神が
共におられるにふさわしい民となることを、何より優先する課題としていた宗教で
ある。イスラエルには、全能の神が、本来顧みるべき強さも美しさも備えていなか
った弱いイスラエルに対して、なぜか行って下さった絶大な救いの業の記憶を絶や
さないよう、細心の注意を込めた律法を定めた。神の行われた業の記憶を、人間が
自分たちで行うことで引き継いでいくためである。不正をことごとく滅ぼし、弱い
者を助け、お互いが支え合う。そうした働きが為されているとき、それは即ち「神
が共にいて下さった」ことの証拠となるのである。神殿は、イスラエルがそのよう
な民である事の象徴として建設されたものだったが、いつしか「神は神殿に住んで
おられる」という理解が先行するようになってしまった。神殿の内側さえ「聖く」
保っておけば、仮に神殿の外が「汚れ」ていようとも、神はイスラエルのこの神殿
を離れないはずだ、と理解されたのではないか。その神殿において「神の使い」と
されるイエスが歩きまわる事は「神殿(あるいはそこに住む神)を汚す行為」であ
って、この祭りの時にイエスを殺そうと考えたのはそのためである。
しかしイエスは、それを非難して言ったのである、「神の業が行われているとき
こそ、神はそこに共におられるのだ」と。イエスは、「神が共におられるのは、神
の働きを信じる群れである」とはっきりと宣言しているのである。イエスが神から
遣わされた救い主である事は、イエスが行う働きによって既に証明されており、そ
れは救い主を求める人々にとっては明確な証しになっている。その事をイエスは、
「私と父とはひとつ」という言葉で言い表した。イエスが神の業を行う限り、神は
イエスと共にあるのである。
しかしこの言葉は、イエスを信じない者・救いを必要としないと思う者にとって
は、イエスに対する殺意に結び付いた。イエスの言葉は、キリストを必要としない
者にとって、陥れるための格好の材料を提供することになった。キリストを必要と
していないその時点で、彼らの不信仰は明確に示されている。
神と共にあるために、神の業を行う我々となろう。「神がいるかもしれないから」
ではなく、「神が必要だから」、我らの内に神が宿るために、神の業を行おう。福
音の主要なメッセージである「神は我らと共にある」との言葉は、我々が「既に」
神と共にあるという確信を持っている時に生まれる呼び掛けなのである。そして我
々が隣人との間に神の業を行う限り、神は我々の中に住んで下さっている事は確か
なのである。その時にこそ、「神はあなたと共にある」と語る我々の言葉は、確信
に満ちた魅力的な訴えとなるのであろう。我々自身がこの言葉から生きる希望を与
えられている限り、それは隣人に対しても希望をもたらす約束の言葉になるのであ
る。
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(ここまで)
願わくは、この言葉があなたにも福音を届けるものとして用いられますように。
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この通信は、NIFTY-Serve を経由して、以下の人々に同時発信されています。
上原 秀樹さん 木村 達夫さん 佐野 真さん 長倉 望さん
水木 はるみさん 山田 有信さん
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竹迫 之 CYE06301@niftyserve.or.jp