Date: Sun, 16 Mar 97 14:53:12 +0900
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『日のあるうちに』

ヨハネによる福音書 第9章1−12による説教
1997年3月16日 浪岡伝道所礼拝にて

「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わ ねばならない。だれも働く事のできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光 である。」

生まれつき目が見えないために、物乞いをして生きる男がいた。イエスがこの男 を通りすがりに見掛けた時、弟子たちが問うた。「この人が生まれつき目が見えな いのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」。

弟子たちの問いは、「体の障害は罪の結果によるもの」という考え方が支配的だ った社会を背景にしている。イスラエルの信じる「完全なる神」への信仰の強さの 裏返しとして、「身体の障害は神が良しとしない結果である」という理解が生れ、 それは本人か本人の両親の罪が原因であると考えられたのであった。

しかし実は、これはイスラエルに特有の考え方ではない。むしろ世界的に共通す る価値観であり、とりわけわが国においては今でも支配的な感覚なのではないか、 との思いを、最近強く持っている。因果応報という考え方が、何かひどい病気や災 害が起こった時に、その患者や被害者には特定の原因があってこんなことになって しまったのだ、という感覚の土壌になっている。

薬害エイズ問題が裁かれつつある。血友病の治療などに使われた輸入血液製剤 (非加熱)にエイズに感染する危険がある事を知っていながら、その使用を制限し なかったのが殺人に値するかどうかが争われている。目を引くのは、血液製剤によ る感染を確認しながら、同性愛の感染者が現れるまで輸入血液製剤の危険を発表し なかった、という経緯である。エイズウィルスは血液などの体液を媒介に感染する ため、当初同性愛者や麻薬患者の間で広がっていることが知られていた。そのため エイズは、「道徳的に良くない事をする人がかかる恥ずかしい病気だ」と受けとら れていたのである(そのように主張したキリスト教団体もあった。エイズは「神の 審きである」と)。その結果、エイズ患者に対する差別が急速に広がったが、日本 においてそれは製薬会社や厚生省の「責任逃れ」の隠れ蓑として機能した。

エイズが「何だかわからない恐ろしい病気」であったころ、人々は「自分だけは 大丈夫」と思うための材料を欲しがったのである。「あれはホモがかかる病気だ。 自分は『正常』だから大丈夫」「あれは麻薬患者がかかる病気だ。自分の生活は 『健常』だから大丈夫」と原因・結果を整理することで安心を得ていた。責任逃れ を図った人々は、多くの人々のそうした心理を利用したのである。

戦争・いじめ・カルトなど、他の問題について考える時にも、我々はそうした整 理をする誘惑にかられる事がある。「昔の人はバカだったから戦争を止められなか った」「いじめで自殺するのは、その人がもともと弱いからだ」「カルトに入るの はアホだ」と考える事で、自分がその被害者になるかもしれないという不安を忘れ たがる。また、それらを阻止する責任が自分にあることを忘れようとするのである。

(先日、こんな話を聞いた。ある人が自動車事故に巻き込まれたが、この人が障 害者であることが判ると、加害者も警察も「調子が悪いのはもともとの事だ」とと りあわないというのである。以前この人は教会に通っていたこともあるが、その当 時の牧師に相談したところ「礼拝に出ないからそういうことになる」とたしなめら れたという。この人は自分の子供の寝顔を見ながら「こんな自分では子供にも迷惑 をかける。いっそのこと一緒に死んでしまおうか」と考える眠れない日々を過ごし ている)

この聖書箇所でイエスが出会った生まれつき目の見えない人について、それが本 人か両親の罪の結果であると考える感覚にも、こうした「不安の解消」「責任逃れ」 の二重の心理が働いている。目が見えない責任を親か本人にかぶせてしまえば、 「ある日突然目が見えなくなってしまうかもしれない。自分の家族が物乞いになる かもしれない」という不安や、「この人は生活に困っているから助けるべきだ」と いう責任を打ち消す事ができる。自分の周囲に起こっている出来事を見ないように 聞かないように、自分の事だけを考えて生活できるのである。更に、「これは誰の 罪によるのか」と考え発言して関心を寄せるポーズをとることが、そうした「自分 の事だけを考える」自分である事を巧妙にカムフラージュすることになる。「これ は誰の罪か?」と、取り敢えず言っておけば良いのである! その人は、打ち捨てら れた人に関心を寄せる優しい自分である事を確認し、他人にもそう宣伝する事がで きる。その人はそのようにして、「人間らしさ」の幻の中に生きる事ができる。

イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業 がこの人に現れるためである」と述べ、この人に向き合い、見えるようにされた。 生まれつき見えない人が、見えるようになった。我々人間の手の及ばない領域に変 化を起こすのは、確かに神の業である。しかしイエスは続けて言うのである、「私 達は、私をお遣わしになった方の業を、まだ日のある内に行わねばならない!」。

我々に、神の業を行う事が可能であろうか? 見えない人を見えるようにするのは、 確かに医療技術によってできることかもしれない。「ならば医者に任せれば良い! それは我々の仕事ではない! 」そう断言して、隣人を見捨てる生活に止まる事は可 能である。また「神の業は神の業である。神からの人、キリストに任せておけば良 い! 我々に出来る事ではない! 」と居直る事も可能である。イエスの言う「私をお 遣わしになった方の業」とは、見えない者を見えるようにするような奇跡に類する 事なのだろうか。これについては、この後も3週にわたって考えるテーマとしたい。

しかし今日の所は、1つだけ指摘する事ができる。すなわち、自分が関わりたく ないと思う人、自分が関わっても仕方がないと思う人、そうした人々に向き合うよ う、「この人に、神のみ業が現れる!」と信じるよう、イエスが求めているという 点である。「これは誰の罪によるものか?」と関心を寄せるポーズ自体が、その当 人を捨て去る態度でしかない。そしてまた、その当人が同じ発想を自分に向けてい たら? 「私の目が見えないのは、誰の罪か? 私に罪がないとしたら、親か? 社会か? 神か? 誰もが自分を見捨てるのか!」。この孤立こそが、罪である。孤立させ、自 分からも孤立するという、悪循環が我々の罪である。人に対しての孤立、自分に対 しての孤立、何より神から孤立する事が、そして孤立させることが、我々の罪であ る。

イエスはこの人を捨てなかった。目が見えるようになったのは、イエスがこの人 を捨てていたら起こらなかった「結果」である。仮に目が見えないままだとしても、 「神のみ業があなたに現れる!=神はあなたを見捨てない!=もちろん、私も!」 と呼び掛け関わりになったイエスの存在が、この人を孤立から脱出させた。この人 を知る近所の人々が驚きをもって彼を迎える、「これは、あの物乞いをしていた人 ではないか!」。彼も正面から答えている、「私がそうなのです!」。恐らくは、 最も彼自身が葬り去りたかったはずの自己像を、まさしく自分のものとして受け止 めている。孤立は解消されている。交わりが回復されている。

イエスは、神から孤立した人間を、神との交わりに立ち返らせるキリストである。 それが、人との交わりの回復に示されているのである。

「日のある内に!」。キリストの働きが明確であると悟る我々は、キリストに倣 って人々に向き合う。キリストによる交わりの回復を明らかに示すのは、教会の使 命である。教会は人々に向き合う「神も、私も、彼らも、あなたを見捨てない!」。 キリストによって照らされたこの光に、より多くの人々と共に与かる我らでありた い。「日のあるうちに、行わねばならない!」。


願わくは、この言葉があなたにも福音を届けるものとして用いられますように。


この通信は、NIFTY−Serveを経由して、以下の人々に同時発信されてい ます。

上原 秀樹さん  木村 達夫さん  長倉 望さん  水木 はるみさん   山田 有信さん  YMCA同盟学生部メイリング・リスト登録の皆さん


(追記)
去る11日、茨城県東海村にある核燃料再処理工場が爆発事故を起こしまし た。当初は「ボヤだった」「放射能漏れはない」などとしていた動燃事業団の発表 も、時間の流れと共に、放射能被曝者が30人以上いること、爆発に伴って通常値の 10倍にあたるプルトニウムやウランが放出されていたことが明らかにされました。 事業団では「想定外の事故であり現場が混乱していた」と説明していますが、そも そも「原子力」に安全を求める事ができるのか。青森県には近日中に、フランスか ら返還される高レベル放射性廃棄物が陸揚げされる予定です。「日のある内に!」

竹迫 之 <CYE06301@niftyserve.or.jp>