Date: Sun, 16 Feb 97 10:08:19 +0900 From: =?ISO-2022-JP?B?GyRCQ11HdyEhRzcbKEI=?= <CYE06301@niftyserve.or.jp> Reply-To: ymca-s@cup.com Subject: [ymca:0348] tuusin sekkyou To: ymca-s@cup.com (Cup.Com ymca-s ML) Message-Id: <199702161008.FML21882@hopemoon.lanminds.com>
ヨハネによる福音書 第8章12−20による説教
1997年2月16日 浪岡伝道所礼拝にて
イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の 中を歩かず、命の光を持つ。」それでファリサイ派の人々が言った。「あなた は自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」
イエスは、自分を「世の光(世を照らす光)」と表現した。
世界には様々な宗教があるが、そのどれもが「光」を重要な比喩として位置 付けている。聖書もその例に漏れず、創世記において神が第一に創造したのは 光であったと記されており、またこのヨハネ福音書も「キリストは命の光であ る」ことを1章においてすでに語っていた。光を神的な事柄を指し示す表象と して用いるのは、また逆に闇を恐れ・不安・困難などの事柄を指し示す表象と して用いるのは、我々人間の多くの者が視覚に頼る生活を送っていることに由 来するのであろう。
目に頼る者にとって、闇は恐怖の空間となる。なぜならば、そこに何がある のか、視覚を通して見極めたり予測したりすることができないからである。そ こには、踏みしめるべき大地がないかもしれない。体を傷付ける棘があるかも しれない。闇にも関わらずこちらを補足できる野獣がいるかもしれない。その ように、知覚できないゆえに避ける事も難しい危険を予感させるからこそ、闇 は恐怖の象徴となるのである。
従って、ここで便宜的に「闇」と呼ぶものが、「視覚障害者にとって闇の状 態は自明であるから恐怖の対象ではない」などと言う事はできない。問題は、 知覚できるかできないか、なのである。危険があるかないかの判断がつかない 状態が、「闇」である。嗅覚・聴覚・触覚など、我々が頼る視覚以外の感覚を もってしてもなお状況を推し量る事ができない状態を「闇」と呼ぶのである。 目が見えるものにとっても、そこがまるで自分の知らぬ場所であり、何からも 情報を得る事ができないとしたら、いくら光に満ちた場所にいても「闇」の中 に等しいのである。
ユダヤ人心理学者フランクルが書いた『夜と霧』という書物は、彼自身のア ウシュヴィッツ収容所での体験をもとに、収容所に生きる囚人たちの精神の変 化について考察したものである。その中に、時間の感覚の変化が世界観の変化 に結び付いて行くという指摘がある。つまり、収容所内の囚人たちは、目的の 解らない過酷な労働に長い間従事させられ、その生活がいつ終わるのか、そも そも終りがあるのかないのかも判らないままでいる内に、収容所の外の生活が 存在しなくなったかのように感じられるようになるというのである。「いつか はここを出て元の生活に帰れるはずだ」という思いが、辛い囚人生活が長引く 内に「ここを出ても帰る場所などないのではないか」「この収容所が世界の全 てなのではないだろうか」と感じ始める。すると、1日は限りなく長く感じ、 しかし1週間はまたたく間に過ぎてしまう。生きたまま収容所を脱出し元の生 活に戻る、という将来の目的が見失われた時、人は「いま生きているこの状況」 をも現実のものとは思えなくなり、やがて何事にも無感覚になってしまう。
(私が統一協会において体験した販売活動も、まさしくそういう効果を与え るものであったことを思い出す。来る日もくる日もマニュアル通りの詐欺活動 に従事する内、1日よりも1週間を短く感じ始め、やがて乗り込んでいたクル マが世界の全てであり、それ以外の世界は虚構であるかのように実感するに至 ったのである。販売員たちは、ひたすら売り上げを延ばす事にしか生きる意義 を見出だせなくなって行った)
これが究極の「闇」というべき状況ではないだろうか。迷子になった子供時 代。知らぬ場所・知らぬ人々の中に放り出され、いつ自分の家・家族のもとに 帰れるかわからない時、状況はその子供にとっての「闇」である。いじめの空 間に取り残された高校生。助ける者のない窮地に立たされ、その苦難がいつ終 わるか全く判らない彼にとって、その状況は「闇」である。あの震災で家族・ 友人・財産を失った被災者たち。いつまた起こるかも知れない地震・ひしひし と募る生活の危機に怯え、将来への展望が開けぬままなら、それは最早「闇」 なのである。危機に怯え、その状況からの脱出を願っても適えられないままで おかれる時、「闇」は我々から将来への展望を奪い去る。「闇」からの解放が 予感できなくなったとき、我々は絶望に落ち込まざるを得なくなるのである。
今日の聖書箇所で、イエスが「わたしは世の光である!」と宣言したのは、 仮庵祭の最中であり、神殿の境内にある宝物殿の近くにおいてであった、と記 されている。仮庵祭の初日には宝物殿近くの大きな燭台に灯がともされ、強い 光がエルサレムの街を照らしたと言われる。それは、イスラエルの民が奴隷の 国エジプトを脱出する際、「火の柱」に導かれて約束の地を目指した夜の旅路 を記念しての事であった。イスラエルの民はエジプトにおいて、目的も期間も 不明のまま過酷な労働に奴隷として従事していた。彼らは闇に捨てられていた のである。そこから脱出した彼らは、火の柱に行く手を示されて旅をした。火 の柱は、民にとって大きな慰めと励ましになった。それは単に夜であったから というばかりでない。行く手には広大な荒れ地が広がり、しかも後ろからはエ ジプトの追跡部隊が迫るという、前にも後ろにも不安と困難と危機とが満ちた 状況に囲まれた彼らの、「闇」を照らす「光」として、火の柱が神から与えら れたのである。神(ヤハウェ)がイスラエルの光となられたのである! その記 念である燭火の儀式に対比して、イエスは自分を「世の光」と証言したのであ った。
確かにヨハネ福音書中のイエスは、ある人々にとっての光であり続けた。生 活に困窮する人々・体制に縛られている人々・世間の風評・長引く病・物理的 な欠乏・そして目の前の対処不可能な困難に直面し自分の存在を呪い神を呪う 人々に、イエスは癒しと慰めと希望とをもたらしてきた。そのイエスが、「渇 いている人はだれでも、私の所に来て飲みなさい!」と呼び掛けた。癒しの神 に感謝するイスラエルに生きながら、しかし癒されない渇きを抱えるという 「闇」に取り残された人々は、そのイエスの言葉に「光」を見出だしたのであ る。今またイエスは、イエス自身が神から来た「光」であることを宣言した。 これまでのイエスの業も、イエスの言葉も、それを聞く「闇」の中の人々に 「光」を予感させた。しかしイエスは、それらが神からの光を反射させたきら めきに過ぎない事を明らかにしたのである。一時的に慰めを与えたり癒しを与 えたりしたそれらのものも、確かに「光」であった。しかし神は、もっと永遠 不滅の「光」を・全ての人を照らし出す大いなる「光」を与えようとされてい る。「私こそがその『光』である!」とイエスは語ったのであった。
イエスを捕らえようとする人々は、「1人の証言は証言として価値を持たな い、と律法は定めている。あなたは自分で自分を証ししている、即ちあなたは 1人で証言している。それは価値のない証言だ!」と反論した。この人々言葉 に、彼らの深い絶望を見る・・・彼らこそが、最も「光」を求め、しかもその 願いの適わなかった人々に違いないからである。絶望の闇に取り残されて、 「『光』など来ない!」と確信するに至ったのが彼らではなかったか。誰が苦 しもうと誰が渇こうと同じ闇の中にいるならば、少しでも居心地のいい闇を造 ろうと決心したのが彼らではなかったか。だからこそ彼らは、「光」の到来を 否定した。「確かに神は、『光』をお与えになるかもしれない。しかしそれは、 ずっと昔の話であり、あるいは遠い将来のことであり、いずれにしろ現在生き ている我々には関係のない話だ!」。イエスに反対した人々こそが、最も深い 絶望に取り残され、自分たちの住む世界の外が存在せず、今イエスを目の前に している状況をも現実のものと思えなくなっていたのである。彼らは全てに無 感覚のまま、ただ見せ掛けの光にとどまりつつ、「闇」を増幅させる奴隷労働 に就かされていたのだった。
イエスにおいてもたらされる光が、神からの光である限り、神はこの人々の ためにこそイエスを遣わしたのである。すなわち、イエスをとらえ、十字架に つけられる事で、イエスが究極の光として現れるために!
光るものには、それ自体が光っている場合と、何かの光を反射しているにす ぎないものとがある。「これこそが、光!」とすがりついたものが、虫を殺す 誘蛾灯や獲物を誘うアンコウの提灯に過ぎない事もある。そのような「光」に すがりつき、しかしそれに裏切られて一切の希望を見失った人々は、イエスの 宣言を受け入れる事が出来ない。イエスを捕らえようとした人々は、まさしく そのような人々であった。
どんな光を頼りとしても構わないのである、それらが神に由来する光の反射 である事を信じるならば! 神は、我らを闇から救い出す決意のもとに、イエス =キリストをこの世に遣わした。頼みとしていた光が消え失せ、以前よりもっ と深い闇に落ち込んだ時、しかし我らは、以前よりもっと光を求める者とされ ていることを悟らなければならない。イエスはそのような我らに「私が世の光 である!」と宣言されるのである。闇の中でこそ、「光」は輝くからである。
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