岡山大学YMCAの呼びかけで5月10日-11日に長島愛生園訪問をおこないました。
長島愛生園は1930年に開園した我が国初のハンセン病の国立療養所。長島は岡山県邑久郡邑久(おく)町虫明(むしあけ)の沖合いの瀬戸内海に浮かぶ島です。1995年7月時点で入園者数は713名。開園以来園で亡くなった方は3163名。入園者の平均年齢が70才を越え、ここ数年毎年30数名前後の方が亡くなられています。
中四国学生YMCAでは6年前より同島にある邑久光明園を訪問していました。昨年度は29名が参加しました。希望者が多すぎたため,四国学院大学に学生の参加人数を半分にしてもらいました。前回参加できなかったメンバーのためにぜひ春にも長島訪問を計画したいと考えていました。それが今回実った形になりました。
参加者は岡大より5人(新人生の3人は全員参加),鳥大は5人(新人部員2人、久しぶりのいい響きだ!)、四国学院大学より6人(4人は今回が初めて)、旭川荘厚生専門学院より2人,シニア2人(岡大シニア石原さんが駆けつけてくれた。ありがとう!)、あとゲスト参加1人と総勢21名でした。
5月10日はルーテル岡山教会でハンセン病についての学習会と懇親会をおこないました。11日は朝7時40分、5台の車に分乗し出発,長島曙教会に8時45分に到着しました。 聖日礼拝に参加,そしてその後、教会員の方々と茶話会を持ちました。午後からは宇佐美さんにお世話になり恩賜記念館を案内してもらいました。記念館には愛生園とハンセン病の歴史的な資料、写真、文献、図書、道具や遺品があふれていました。
その後、自治会生活委員長の金泰九(きむ・てぐ)さんの案内で、園内を散策しました。2時間にわたり話をうかがいながら、案内していただきました。全国の療養所唯一の高校跡の「新良田(にいらだ)教室」、「恵みの鐘」、現在まで3200人を納骨する「万霊(ばんれい)山」を歩いてまわりました。散策の後、二班に分かれ金さん、宇佐美さんの部屋にお邪魔し、お話をうかがいました。
お二人の言葉に出会い、人格に触れることができました。私たちの社会はこの人たちを棄民した上で成り立っていたのかと思うと本当に悲しくなりました。
らい予防法が昨年4月に廃止されました。そして我が国からハンセン病がなくなる日もさほど遠くないと思います。しかし長年にわたり療養所に隔離され、人生を奪われ、家族を奪われ、「当たり前の人としてのすべてを奪われていた」人々がいたことを忘れてはならないと思います。そしてそこで行われた我が国の医療、行政の負の歴史を検証しなければならないと思います。そしてまた人を切り捨てて成り立つ自分自身を問い直さなければならないと思います。
長島愛生園訪問感想 鳥取大学YMCA 市原 創
愛生園を訪れるのは今回が初めてだった。僕は何度か邑久光明園を訪問した経験があるが、少なくとも、この小さな島に強制隔離され人権を剥奪され続けた人々がいるということ、そして、その中で人間の尊厳を示し、生きる人々がいるという意味では愛生園も同じだった。
それは僕が毎年光明園を訪れる理由の一つである「自分を振り返る。元気をもらう。」という期待を裏切らないものであった。このように書くと失礼になるのかもしれないが、それが正直な気持ちなのだから仕方がない。やはりここには僕に今足りないものがある。僕が求めているものがある。と、感じてしまう。それは、一言で表現できるものではないが、例えば、金さんや宇佐美さんとの出会いとか、そこで語られる言葉との出会いから感じるものだ。
光明園の時と同じようにやはりここでも暗い死のイメージをぬぐい去ることはできない。何千の「声にならない声」を秘めた納骨堂、過去に多くの入園者が飛び降り自殺したという岸壁、そして高齢に達し日々減少しているという入園者達。まさに国の常套手段(戦後補償などでも示されているように)である「時間と共に闇に葬る」というやり方が、見事に表出している場所であると感じた。園内はとても綺麗で環境も良い。今は自由の身でも、世間や家族の差別が残る限り、社会復帰することもできず一生をこの地で終える人が大半だろう。それは事実上の終身隔離とも言える。法律の廃止がつい最近だったのも、それがわかっていたからじゃないかと疑いたくもなる。
恩寵記念館でも、今までのハンセン氏病患者に対する人権を無視した扱いを示す証拠がたくさん展示してあった。恩寵記念館の「恩寵」は天皇の恩寵だそうだ。「何様のつもりだろうか(天皇様のつもりなのだろう)」と腹も立ってくる。このような記念館こそもっと多くの人が見て知ることのできるように、するべきだと思う。そして、僕を含めた多くの人間がこの事実を見続ける必要があると思う。これらの事実は、人を疎外する日本というシステムに依存して、安穏と生活している僕の足場を揺るがす。
そしてこれらの過去の事実の重みから来るあまりにも暗いイメージにもかかわらず、今現在を生きるそこの人々からは力強い「生」を感じる。宇佐美さんや金さんは、重い過去を抱えながらも、僕たちに対しそれをきちんと語ってくださる。そして、僕たちをちゃんと受け止めてくれる。光明園家族教会の津島さんもそうだった。そんなとき思う。僕はどれだけ目の前の人のことをまっすぐと受け止めることができるのだろうか? 僕はいつのまにか自分を高みに置いて、生きることにいい加減になっている。日々を忙しく暮らす中で、「裸になって今を一生懸命生きる」ことを忘れてしまう。
恩寵記念館の中にあった「生きるんだよ」という言葉が、ここの人たちにとっていかに重いものかを考えると宇佐美さんや金さんから感じる「生」がうそのない希望に満ちたものなのだろうとなぜか納得してしまう。そこには僕にまだ見えない希望があるのだと思う。
それは、システムに支えられた関係からは決して見えてこないようなものではないだろうか。だから僕にとってはこの出会いが用意されていることが希望となる。このような出会いを大事にすることが、僕に欠けている何かをいつか見つけることができるという希望になるのだと思っている。
最後に、朝早くから夕方遅くまで、時間を割いて付き合っていただいた金さんと、記念館とご自宅でお話してくださった宇佐美さん、快く受け入れて下さった上に後かたづけまでしていただいた曙教会のみなさん、プログラムの準備をしてくれたみんなに感謝します。ありがとうございました。そして、プログラム運営にもっと手際よく関わることが出来なかったことをお詫びします。
(いちはら はじめ)
静 寂 鳥取大学YMCA 大石直子
「長島の中は時間が止まっているようだ」と誰かが言っていた。あまりにも慌ただしい毎日の中で生きている私たちにとって、愛生園は不思議な場所だった。ゴミひとつない道路、きれいに刈りこまれた植え込み。休日のせいもあろうが、人の数は少ない。不思議な静寂の中で私たちは恩賜記念館、新良田分校跡、恵の鐘、万霊山などを案内してもらった。以下、順次印象を綴っていきたいと思う。
恩賜記念館では、まず「恩賜」の文字に抵抗を感じた。激動の二十世紀、国はハンセン病患者をスケープゴートとして扱った。隔離し、悲惨な生活をさせておきながら、差別主体そのもの(国)が同時に患者への恩を売っている。人がものを考えるのに一番やっかいな状況とは、敵が敵として姿を現さない場合ではないだろうか。にっこり笑って、敵が「私はあなたの味方ですよ」と言う。例えば私たちが愛情や人の優しさに飢え乾いていたら、そんな敵にだってすがりつきたくなるだろう。そうして逆らえないまま、あたかも食事に微量の毒薬を盛られ続けたように、知らぬ間に殺されていく場合もあろう。ここ恩賜記念館には、ハンセン病患者の診療や看護に生涯を尽くした人々と患者を徹底的に弾圧した人とが同列に展示されていた。
坂道を下り、新良田分校跡に着いた。この学校が設立されて、やっとハンセン病患者が高校教育を受けられるようになった。ここに通った生徒たちは、勉強できる喜びと将来への希望に胸を膨らませていた。だが生徒が「お召し列車」で移送されたことからも分かるように、国の側の差別意識は強固なままであった。分校設立を人権回復と見るべきか、それとも人権蹂躙の固定化と見るべきか。
光が丘では恵の鐘をついた。瀬戸内海が見渡せる小高い場所。ここが長島事件ハンストの拠点となった。ハンセン病患者たちが生命をかけて人権のために立ち上がった場所だ。結果は「重監房」だったそうだが、被差別者が自らの人権のために自発的に立ち上がったという事実は特筆すべきである。このハンストは、いわば「形にならなかった思い」であり、悲劇かもしれない。しかし、限界状況で立ち上がった人々の記録は、私たちが同じような状況に直面したときに勇気を与えてくれるものになるからだ。
緑で染まりそうな道を登って万霊山納骨堂まできた。仏舎利塔を思わせるようなドーム型の納骨堂。納骨された人は3200人以上だという。死してなお差別を受けるハンセン病患者たち。人は誰でも等しくこの世に生を受けたはずなのに、彼らはまるで存在しなかったかのようにひっそりと葬られ、眠っている。死者とは本当にもの言わぬものだろうか。周囲の木々の美しさがかえってやりきれない思いにさせる。
半日歩いて疲れ、一日で歩ききるには広いが一生を過ごすにはずいぶん狭い場所だと思った。そうしてこの静けさ。何も知らずにここを歩いたら、「何と平和な場所だ」と思うだろう。「戦いが終わった」愛生園には静けさがある。しかし、この静けさはのどかさとは異なっている。ものを言うことを禁じられた人々が、思いを胸にためつつ立っているような雰囲気だ。あるいは、人権を侵害されつつも為政者の「恩寵」にすがらされていると思わされてきた人々が、言うべき言葉を見つけだせないでいるようでもある。静寂の意味を知るには耳を澄まさなければならない。「平和」な愛生園を訪問して私たちが何かを得ようと思うのならば、声にならなかった思いの残照を感じ、想像力を働かすことだ。
静けさは環境からだけでなく、そこで生きている人からも感じた。二班に分かれ、私は金さん宅を訪問した。身体が思うように動かなくなり自暴自棄になっていたが、そこを乗り越えて生きる意味を見つけていった金さん。この静けさは、「もの言いたげな」というよりも「自信に裏付けられた」静けさだ。私は最近、人が一生涯で何ができるのかをよく考える。その内容はその人がいる場所や境遇、適性などで大きく異なってくる。だが、自分の限界に挑戦し続けて何かを成し遂げていくことの貴重さは、内容に関わらず等価ではないか。金さんは自分と戦い、自分を見つける作業を繰り返してきたのだろう。その静かな強さは、ややもすると悲観的かつ消極的になってしまう私を叱咤するようだった。
どんなことでも放っておけば時の流れと共に風化し、人々に忘れ去られてしまう。愛生園の静寂はそうした時の流れを表しているように思われた。今ここに立ち、歴史に思いを馳せ、忘れまいと思うことこそ、風化していくものに対する私たちの抵抗であり、過ちを繰り返さないための砦となるのではないだろうか。
(おおいし なおこ)