浅見先生の講演を聴いて  大野 高志(慶應義塾大学YMCA)

自分が今までカルトというものに対して抱いてきた考えがいかに浅薄なものにすぎなかったかを思い知らされました。

わたしはこの講演を聴くまで、いわゆるカルトをわたし(たち)の倫理的な思考の俎上に載せることを非常におそれてきました。もし『お父様』が本当にメシアだったら……、もし『尊師』に従っていくことで我々が救われ、従わないものはポアされることでのみ本当に救われるのだとしたら……。もちろんわたし自身には、彼らのドグマと本気で対峙し、また受け入れたがゆえにそのことに悩んだという経験があるわけではありません。しかしながら、彼らのドグマがこの世離れすればするほど、彼らがわたし(たち)の倫理とかけ離れたところで、しかも外に閉じたドグマをもてばもつほど、ー彼らのドグマがそれほど高尚なものであるはずはありませんがーロジックとしてはわたし(たち)の倫理の側からの彼らのドグマへの介入も不可能事となってしまうわけです。当たり前の事ながら、ドグマは反証可能な科学とは違うーそれゆえにわたしは、カルトをわたし(たち)の倫理で考える事を中止し、わたしのドグマ、すなわちキリスト教のドグマでのみ扱おうとしてきたのです。

ところが浅見先生のおっしゃることには、カルト批判の根拠を自己の思想信条に求めてはいけないというではありませんか。根拠は、社会的な問題性、そして(その社会的な問題を引き起こす背景という意味も含めて)究極的にはそのカルトを操る教祖が善意からしていることではないということにあるんだと。わたしはやっと気づきました、カルトはドグマではないと。むろん、事の首謀者が善意の行為者であるということは、行為全体の正当性にとって十分条件であるとはいえないでしょうが、自らに利するためだけに設けた借り物のドグマが行為全体を正当化するなど、よもやありえない話なのです。わたしは『悪い木がよい実を結ぶことはない』ことに改めて気づかされた思いです。

さて、今回の夏期ゼミのテーマは、『Are you ready?ーこわす関係・つくる関係・終えて始まるわたしの関係ー』でした。今までわたしは、カルトをその教祖の人となりに目を向けることなく、そのドグマのみで判断してきたわけですが(けだし、カルトの内部にいる人々もそうなのだろう)、この考えは教祖と呼ばれている人物との自然で、人間的な関係をこわし、意図的につくられた関係へとわたしたちを導きます。わたしには浅見先生の講演が、まさにこのような人間関係をこわし、つくり、終えて始まる関係に入る準備をすることの重要性を説いているように思われます。

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(協力部 スタッフからのメッセージ)

「つながりの中で私らしく」   協力部 横山 由利亜

思えば1996年1月、しんしんと底冷えのする京都主事宅ミリアムに個人的に参加したのが始まりだった。気が付けば灼熱の夏の日、国立埼玉婦人教育会館にて「ゆりあんぬ」と呼ばれていた。あのWSCF女性リーダーシップ・トレーニング・プログラムは私の学Y体験の原点だと思う。あれから1年半が過ぎ、学生部は協力部学生YMCA事務局となり、協力主事は共働スタッフとして新スタートを切った。その間のさまざまな混乱の中、「学Y出身でない人が学Yのこと分かるの?」とか「運動に担当者とは何事ぞ!」とか「同盟はお金がないから学Yを見捨てるの」とかそういう学Yメンバーからの無言の、時に声に出したプレッシャー、同盟内側からの「学Yっていまひとつ何やっているのかよく分からないのよね」とか「本当に支えるべき中身と可能性がある運動なのか」という疑問、疑惑を受けたが、自分なりにしっちゃか、めっちゃか咀嚼、反芻、消化して、なんとか「私らしく」仕事として、また運動として関わってこれたのも、あのプログラムでエンパワーされたからだと強く信じている。学Y、女性、YMC職員、私の中のそれぞれのアイデンティティーを見出し、つなげあわせるキッ カケを与えらた、と。

学生YMCAのキーワードとして「人を育てる」という言葉が頻繁に出てくるが、学生YMCA運動の分かりにくさは、この「人を育てる」というのが運動の目的でも結果でもない点にあるのではないかと思う。私たちはこの1年半の激動の時間の中で、学生YMCAのアイデンティティーが「人が育っている」という「ING形」でしかあり得ず、それは非常に不確かで、支える人の大変な情熱とまた時間を要することを一人一人がその「育てた」「育てられた」経験に基づき改めて覚え直したのでないか。そして集う学生、シニア、共働スタッフ、職員自身がその情熱と時間をどのよう分かち持つことができるのかが問われ、めいいっぱい応答した時間であった。1997年度上半期の報告の中で、地道な努力、新しい試みの成果が挙げられたが、それらはまさに応答の結果であり、その背後に甚大な思い、行動力があったことをリソースやノウハウの蓄積と共にきちんと心に刻んで置きたい。学生YMCA運動、あるいはYMCA運動はすでにそこにあるものとして存在するのではなく、関わる人の有形、無形の思い、行動、支えにより初めて実体となり、人を通してつながり、引き継がれていくのだ、と 。

ミリアムがリーダーシップ・トレーニング・プログラムから導き出した帰結の第1番目に、「女性の視点で聖書を読む−私たちが生きている社会と照らしあわせて背後に隠された女性の物語を想像力をもって再構築し、私たち一人一人の自己尊厳を取り戻します」を挙げているが、この情報過多でありながら見通しの不明瞭な時代にあって、一人一人が自分の「物語」を見つけだしていくことの困難さを覚える時、それを支え、応援する働きの貴重さを思う。「人間らしく生きたい」思いを大切にし、そのことに現れる一人一人の個性を守り育てていく学生YMCAの姿勢は誇るべきものだと心から思う。

いま「YMCAで働く魅力とは何か」と問われるなら、「私たちは何によって繋がっているのか(潜在的可能性として)何がつながりの動機になろうとしているのか。そのことを探り、見つけだす試行錯誤の楽しさと、自分自身もそのつながりの中にあるということを実感できる喜び」と答えたい。学生YMCAという舞台で「同盟事務局学生YMCA担当職員」という配役を与えられた私の役割は、学生同士、シニア同士はもちろん、学生とシニア、学Yと都市Y、ワイズメンズクラブ、まだ見ぬ人たち、いろんな人たちをいろんな形でつないでいくことではないかと考えている。

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