97年度夏期ゼミキーパーを終えて 東北大YMCA高徳 宗和
僕は昨年度の夏期ゼミに参加し、多くの人と話す機会が得られました。そのころ僕は、自分が一体何を考えているのか分からず、自分の意見というものを捜していました。
夏期ゼミの中で話していくうちに「ああそうだ」「僕の意見はこうだ」と気付くことが何度かあり、まさしく僕にとっては大発見ともいえる発見が幾つもありました。ほかの人達もそうした発見ができる場所をつくりたい、そして自分もつくる側に立つことでもっと多くの発見があるかもしれない。そう思い、キーパーをすることにしました。
そして何度か運営委員会があり、多くの人と話す機会が得られました。運営委員会は全国各地で開かれました。仙台、東京、福岡、京都、どこでもその地区の人たち、また遠くから駆け付けてくれた人達の参加があり一つ一つの運営委員会がミニ夏期ゼミとなっていました。…嘘をつきました。実は初めの二つ、仙台、東京のときは参加者がほとんどいなくてとても寂しい思いをしたのです。まあそれはともあれ、全国各地の多くの人達と交流を持つことができ、聖書研究や、テーマを深めていく過程を通していろいろな話ができ、ただ“話す”のではなく“話し合う”ことで自分を発見し、相手を少しでも理解できたのではないかと思っています。
またこれに加えて、キーパーのお仕事の中にニュースレターなどに文章を書くというものがあります。僕は毎度この文章を書くとき四苦八苦して締切りぎりぎり、時には(多くの場合)締切りを過ぎるまで延ばしていました。文章を書くのが苦手というわけではなく自分の考えを整理するのがなかなかできないのです。さっきまでこう考えていた(ような気がする)、いや本当は(きっと)こう考えているのだ。こうして、自分の本当の考えが分からず、本当に言いたいことを伝えられているのかが分からなくなるのです。
ただ、文を書いていくうちに整理ができてきて「これが僕の意見だ」と自信を持って言える事が少しずつ見えてきます。書くことは自分との対話なのだと思います。人と話すことで自分の意見が生まれ、人に向かって書くことで自分の意見を整理することができる。この二つをしていくことで自分を少しずつ分かることができるようになりました。これらのことができただけだけでもキーパーをやってよかったなと思っています。
さて、97年度の夏期ゼミのテーマは Are you Ready? こわす関係つくる関係終えて始まるわたしの関係 でした。こわす、つくる、わたし、と、多くのキーワードがありますが、僕の中のキーワードは関係、でありまた、枠、型でした。
僕は、よく人を「こんな人だ」と決め付けて、それ以上知ろうとせずに、その人のすべてを理解した気になっていました。あくまでも自分の常識からははみ出すことをせず、自分が理解できない人は、「変わり者なのだ」の一言で済ます。あくまでも自分は本道にいると思っていました。人を枠にはめる、というのはつまりそういう事です。
ただその本道に立っている自分とは一体何者なのかという事は、分からない。自分がどんな人間かという事を考える事をせずにいるから自分が立っているところこそ世界の中心だと思ってしまうのか。自分の存在を当然のことだと思う、自分と違う考えや価値観は認めない。いつのまにか自分がそうしていることに気付かされました。
このことは特に聖書研究のときに痛感しました。講師の堀江さんが僕たちに言葉を投げ掛けてきたとき僕は初めて今までの自分をより広い視点から見ることができました。
また聖研のときだけでなく、講演のとき、また分団になって話すときも新しい、今まで知らなかった考え、価値観を知ることができました。今までであれば「違う」という一言だけで済ませてきたのですが、今回は、受け入れようと動くことができました。この辺りAre you ready?というテーマが本領を発揮したというところでしょうか?
僕は前、「すべての人を自分より上、下で分けてしまう」ということを書きました。でも今思うに、僕は人を「自分と同じか違う」かで分けていたようです。違う人は無視し、同じ人だけ受け入れる。表面的にはつきあっていてもその人を理解しようとは思いもしない。そういうつきあいしかしていませんでした。周りの人に対して「自分と同じ」「自分とは違う」という枠をはめてそれら枠によって人を判断していました。また人にたいしてだけでなく、自分自身も枠の中にいれて、規定していました。
なぜ枠にはめてしまうのか?それは枠を作ることで「自分は正しい」と思えるからです。自分は多数派に属している、自分と同じ人がこれだけいるのだ、そう思えるからです。また逆にいえば違う人に対して、あいつらは僕たちとは違う、だから間違っている、と言ってしまえるのです、なぜこういうことをするのか、僕の場合それは人と違うのが怖いからでした。自分だけしかそう考える人はいない、という現実を突き付けられるのが怖かったのです。自分が少数派であることが怖いのです。
まあそれだけ他の人と同じであろうとしながらも「その中で自分は特別だ」などと考えていたのですが。
ただ、一度枠内に入ってしまうとその中から出れなくなってしまい、枠から出るには何かのきっかけが必要なことは確かです。僕にとっては昨年度の夏期ゼミがそのきっかけでした。初めに書いたように僕は昨年のとき、自分が何を考えているのか分からなくて、それを知るためにはどうすればいいのかを捜し始めました。しかし枠から出ることはとても難しく、いまだに出れてはいないようです。その最大の理由は枠を出た後に自分というものがあるのか自信がないということです。もし自分というもの、Identityとでも言えばいいのか、そうしたものがなかったら一体自分はなんなのか、そうした現実を見たくないと思い、目を背け続けているのが僕の姿でした。最近はちゃんとみることができているかな、と思っています。
また長い間枠の中で暮らすと、「自分の考え」というものがはっきりしなくなっていき、それを見つけるのは、非常に骨が折れる作業になります。ちょっとずつほぐしては見つめ直し、ほぐしては見つめ直し、ということを繰り返しながら少しずつ見つけていっています。
キーパーを一年間勤めさせてもらい、そのあいだ多くの人と話すことができました。またいろいろと書くこともありました。そうしているうちに少しずつ少しずつ自分を見つけることができるようになりました。自分のかけらとでもいえばいいのか、そうしたかけらを発見したときは言い表せないほど嬉しくなります。夏期ゼミの中でも幾つかの発見がありました。運営委員会の中でもありました。寮生活、学校生活の中でも見つけています。これらかけらはまだまだたくさんあり、新しく生まれもします。すべてを見つけることは多分できないでしょう。だけど自分のかけらを見つけたときの嬉しさ、充実感、それらを感じていきたいと思っています。今まで僕は、そうしなくてはいけないから、したほうがいいから、という理由で動いてきました。これからは自分がそうしたいからするのだ、と考えて動いていこうと思っています。後から自分が「こう思っていたのに」と後悔しないために、またなによりもその方が楽しいから、そうしていきたいと思っています。
一年間がやっと終わろうとしています。僕にとってはなににも替え難い一年間でした。多くの人が支えてくれ、助けてくれることを実感できた年でした。夏期ゼミに出席してくれた人、運営委員会に出席してくれた人、陰で支えてくれた人、またほかにも多くの人、そしてこの文を読んでくれた人、どうも一年間ありがとうございました。