[夏期ゼミ]


1997年夏期ゼミナール開催のお知らせ

日程8月15日(金)から18日(月)まで
場所東山荘(静岡県御殿場)
テーマ「Are you ready?
−こわす関係、つくる関係、終えて始まる私の関係−」
講師浅見定雄先生(東北学院大学教授)
聖研講師堀江有里さん(NCC関西青年協議会スタッフ)


タイムテーブル

<8月15日><8月16日>
[こわすDay]
<8月17日>
[つくるDay]
<8月18日>
 9朝拝 朝拝朝拝
10シェアの時間
Activity
*聖書研究
*スモール・グループ
ふりかえり
11 閉会礼拝
12昼食 昼食解散
13*講演
*スモール・グループ
*全体で
*スタンツ準備
*スモール・グループ
*フリー
14集合
15受け付け
開会礼拝
オリエンテーション
16アイス・ブレーキング
17テーマ解題
スモールグループで
ディスカッション
18夕食・入浴夕食・入浴 夕食・入浴
19
20各プログラム紹介インドキャンパーから
のテーマ解題
各プログラム報告(続き)
スタンツ
キャンプ・ファイヤー?
22FreeFreeFree

参加申し込みはこちら!




夏期ゼミワークブックより
  • テーマ改題
  • インドスタディキャンプからの改題1
  • インドスタディキャンプからの改題2
  • 堀江有里さんの紹介
  • チャプレンからのごあいさつ
  • 浅見定雄先生の紹介
  • 講師からのメッセージ

  • テーマ改題
    「テーマ解題」 東北大学YMCA 高徳宗和


     僕が大学に入ってしばらくした頃、兄から「お前が俺と対等に話せるようになれば、 もっと色々な話ができるのになあ」と言われました。兄は別に深い意味を持って言っ たわけではなかったようですが、その一言は僕には結構効きました。その前にもある 人から「お前と話しても何も得られないような気がする」と言われていたのと重なっ て、僕の中の重大事になったのです。

     僕が、そう言われたとき考えたのは、一体何をすれば対等な立場に立てるだろうか という事でした。職に就いて働くようになればいいのか?何か大人らしい事をすれば いいのか?そう考えていました。そうなろうと少しは努力もしてみました。  でもいま思うに、対等に話せない理由は兄に対する自分の姿勢の中にこそあるので はないだろうかと思えます。

     僕は三人兄弟の末っ子で、常に自分より強く、正しい(と思える)人が周りにいま した。とくに父と兄は同性ということもあり、自分の中の理想像となっていました。 兄を見るとき、理想化のフィルターを通してしか見れなくなりました。またその理想 化した兄に気にいられるように自分を作ってきました。

    そしてこの癖と言うか姿勢はいつの間にか染み付き、今もまだ離れません。僕は人 と話すときは、なかなかその人と真っ向で話す事ができません。その人をある程度 「こうだ」と決め付けて枠で囲み、その枠に向かって話すのです。また同時に、その 枠に合うような自分を作り上げて話をしてしまうのです。兄と話すときは、兄はこう いうことが気に入るだろう、こういう感じで話せばいいだろう、と半ば無意識に自分 を決め付けていました。

     理想化に限らず他人をある一つの枠にはめ込むこと(ex.男、女、「年寄り」、 「外人」etc)と言うのは僕の中ではまったく日常的に行われています。それこそ あまりにも身近すぎて分からない程。もしかしたら自分の周りの今までの関係はすべ てが、相手を枠にはめ込み、その枠に対して合いそうな自分を演ずる事で保たれてる つながりなのかしらん、と不安になったぐらいです。

     なぜ演技することでのつながりに不安を感じるのか。それは演技することは自分の 否定につながるように思えるからです。演技することで本当の自分から目を背けてし まっているように思えます。そう言ったつながりの中では自分は成長できないのでは ないかという恐れさえ感じます。

     一体どれが、僕の枠なしでの関係なのだろうか、疑えばすべて疑わしくもなります。 しかし、今回の夏期ゼミで僕が問い掛けたいものはここです。自分の周りにあるつな がりについて考えることで、今までの自分の周囲との関係を認識し、それでいいのか ?と周囲にもそして自分にも問い掛けていく。今回のテーマの中に「こわす関係  つくる関係」という言葉があります。関係をこわすというのは断ち切ったり離れたり するのではなく、問い直していくこと、これが関係をこわすという事ではないのでし ょうか。そして関係をつくるというのはそこから新しい関係を模索していくというこ とではないのかなあと考えています。

     またもうひとつだけ。僕は19年間こういう事についてはほとんど考えたことがあ りませんでした。実際、「自分の周りの関係」なんて、意識しないならしないで別に 何も悪いことがおきるわけではないからです。少なくとも表面的には。そして日常に おいて意識する機会が少ないことも確かです。僕は周りとの関係に、何の疑問もなく、 意識さえせずに日々を過ごしていました。

     僕がこういう事について考えるようになったきっかけは兄の言葉であり、またある 人の言葉でした。

     そしてそれに取り組んでみようと思ったきっかけは、昨年度の夏期ゼミでした。

     昨年、僕は初めて夏期ゼミに参加しました。その中で、僕が意見をいったとき、 それを真剣に聞き、真面目に答えてくれた人達がいました。僕はそのとき言った意見 は心の底からの意見でした。それを受け止めて返してもらったときは本当に嬉しかっ たのを覚えています。演じたりしない関係。その時見つけた関係は「本気で意見を述 べあう」という関係でしたが、そういう関係がとても楽しく感じられました。願わく ばそういう関係を持ちたい。今までの関係はいわれてみればなんか窮屈だ。そう思え ました。

     だから僕は今年、夏期ゼミでこのテーマについて考えたいと思いました。夏期ゼミ の中に「つくる関係」のヒントが隠されているのかもしれない、それもありますが、 それ以上に夏期ゼミの中には取り組もうという意欲を掻き立て、勇気を与えてくれる ものがあるのかもしれないと思えるからです。

     昨年は僕は夏期ゼミから周りの関係に取り組もうという意欲と勇気が得られました、 皆さんは今年、何を持って帰るのか、持って帰って確かめてみて下さい。

    (たかとく むねかず)




    インドスタディキャンプからの改題1
    「当たり前」が「当たり前」なインドと「当たり前」が「当たり前でない」日本
    聖和大学YMCA 桃山龍太


     現在の日本の教育事情は、小・中・高は卒業して当たり前。その後大学へ進学す る人の数も非常に多い。しかしながら、インドでは、学校(に行きたくても家庭の事 情や地域の問題、そして身分制度の問題などで学校に行くことのできない子どもた ちがたくさんいる。彼らは、子どもの頃から働き、生活の足しにする。今働いて、 明日のわが身があるのである。一方、安定した家庭で育った子どもの中には、大学 に進学する人もいる。彼らは、心から学べる喜びをかみしめ、勉学に励むのである。

     僕が、インドに行って強く感じたことは、自分は大学で何を学んでいるのだろう ということだ。勉強が嫌いなのに、みんなが大学に進学しているから自分も行かな ければならないものだと思い、入学して、授業も半分上の空。授業中には、あちこ ちでポケットベルや携帯電話が鳴り響き、授業を犠牲にしてでもバイトに入り、休 日に遊ぶための資金をせっせとため込む。そう、大学に進学するのが当たり前にな りすぎて、本来の意味が遠くにかき消されたようになっているのだ。大学に行くこ とが当たり前の時代が、当たり前ではない大学生活を生み出しているのだ。

     インドの人たちは、経済的な問題で本当にやりたいことが出来ない場合が多い。 それは、生活がかかっているから仕方のないことなのかもしれないが、彼らは一日 24時間という限られた時間を大切に使っているという感じがする。自分は今、一番 に何をしなければならないのだろうか。何をするためにここにいるのだろうか。 そのあたりをもっと明確にして、限られた時間を大切に使いたいと思う。

     「時は金なり」

    (ももやま りょうた)



    インドスタディキャンプからの改題2
    活水YWCA 宮田 葵


     「私は今まで人とどう接してきたかな、どんな関係つくってきたかな」インドに 行く前に色々考えました。自分がやってきたこととはいえ考えてると何かさみしく なり「よしインドでは本当の出会いを、関係を」と意気込んで、インドに行くこと にしました。特にアンブマナイの子どもたちやキャンパーに対してその気持ちは強 かったと思います。

     インドでのいろんな出会いの中にとっても大きなアンブマナイボーイズホームで の子どもたちとの出会いがあります。報告書や話を聞いたりして私の頭の中には子 どもたちはとても良い子なんだという変な思い込みのようなイメージがありました。  子どもたちと接していて、子どもたちがカメラや時計など私ではなくて私が持っ ている物ばっかり見てたり、折り紙くれ、ペンくれとしつこく行ってくるのを見て 「こんなはずじゃなーい」とかなりのショックを受けました。

     私は日本人として、金持ちとして見られることがとても嫌だと感じていました。 だから子どもの前では物を持たないようにしたり、私は金持ちじゃないんだよとい うことを必死にアピールしたりしていました。

     本当の関係が欲しいと、同じところに立ちたいと、そんな態度を取りながらも、 「あななたちとは違うのよ」という気持ちがいつもどこかにあるのを感じていまし た。

     私はいろんな人と出会う中で思う通りの関係が築けたかどうかはわかりません。 でも自分が見えてきたなぁと思います。今まで気づかなかった、気づかないふりを してきた嫌な自分に気づいて認められるようになりました。そこで終わってはいけ ないというのはわかるけどじゃあこれから私はどうしたらいいんだろう? とい うのは分かりません。

     インドのこと、テーマのことを考えながら夏期ゼミを通して少しでも前にすす めるといいなと思っています。

    (みやた あおい)




    堀江有里さんの紹介
    「堀江有里さんの紹介」 活水YWCAシニア 神崎典子

     こんにちは。私は、「今年の夏期ゼミの聖研講師は堀江有里さんに決まったよ」 と聞いてますます夏期ゼミを楽しみに思うようになった者です。

     私は堀江有里さんと出会って、多数の人が認めている価値観やみんながそうだ と思っていることに頼らないで、自分で考えてみること、なにが真実なことかを 問うてみること、そんな姿勢を感じることがあります。

     私自身は、人から受けることばかりで、自分で考えること、感じること、私な りに応答し、お互いに影響しあうことができずに、これじゃあ死んでるみたいだ と思ったこともありました。去年の夏に日本で行われたWSCF(世界学生キリ スト者連盟)の女性リーダーシップトレーニングを思い起こし、関西でもミリア ムの活動をしようと、平井裕美子さんのおかげで女性神学の読書会を始めること ができたのは、私がちょうどそんな気持ちでふらふらしている頃でした。そこに 堀江さんも来て下さることになったのです。まだ数回行われただけですが、この 読書会があったからこそ、私は再び自分自身であることや誰かと気持ちを分かち 合うことの喜びを感じるようになりました。楽しかったです。また堀江さんの発 言を聞きながら、私たち一人一人に与えられている感性と社会に影響を及ぼして いく力への信頼を取り戻していったように思います。

     その読書会で女性として様々な話がでてくる中で、堀江さんはとても相手の気 持ちに敏感で、「痛み」に対してあたたかく感性を解き放っている方だと感じま した。だからこそ、社会の価値観を問い直す姿勢が大切なのだとも感じました。 聖書を生きるキリストと出会った女性たちのように、堀江さんもまた解放を体験 しながら人との関わりの中を共に働いているような力強さを感じます。

     堀江さんはNCC関西青年協議会で事務局長をされていて、様々な青年・学生 たちとのネットワークや、私たちの生きる現実の中にどう参与していくかという ことを大切にされている方だと思います。夏期ゼミでもみんなでいろんなことを 語り合えたらいいですね。


    チャプレンからのごあいさつ
    チャプレンからのごあいさつ

    堀江有里

     みなさん、こんにちは。はじめまして。

     学Yは何せ、元気がある!…というのが、私の勝手なイメージ。今年は是非、そんな 元気な人たちに会いに行きたいと思っていたところ、「じゃ、チャプレンで」と、 大役を頂いてしまったのでした。

     「こわす関係、つくる関係、終えて始まるわたしの関係」と聞いて、私自身が感じ ること…それは、まず、みんなが違う存在なんだ、ということを認識することだと 思います。そのためには、自分が何者であるのか、自分自身と向き合うことから始 めなければならないでしょう。その上で、それぞれの人間が「違う」ということを 踏まえながら、どうやって関係を作っていけるのか…ということを、皆さんと一緒 に考えたいと思います。

    ……… ……… ………

     「クイア(queer)」って、言葉を聞いたことがありますか?

     日本語では「ヘンタイ」とでも訳すのでしょうけれど、この言葉は、もともとアメ リカで同性愛者たちを嘲笑する言葉でした。しかし、マイナスイメージで投げつけ られた言葉を、アメリカの同性愛者たちは、この言葉を逆手に取り、自分たちに貼 られたレッテルを引き受け、自らの存在を表す言葉として、プラスイメージに変え ていったのです。今は、同性愛者だけではなく、様々なセクシュアル・マイノリテ ィ(性的少数者)を表す言葉として使われています。

     日本の場合、江戸時代以前には、「男色」という文化があったために、同性愛につ いては寛容な状況にある、ということを耳にすることがあります。しかし、本当に そうでしょうか?

     確かに、アメリカにしても同性愛者を排除し、差別する基盤は「聖書」に置かれて います。一方で、日本の場合、聖書を基盤とした価値観は、社会の中では浸透して いません。しかし、テレビなどのマスコミを通じては、やはり今も嘲笑の対象とし て、おもしろおかしく、取り扱われているのが現状です。否定的な、また特殊なイ メージだけ流されたのでは、同性愛者が、自らを名乗って生きることは難しい状況 です。

     ことは、同性愛者だけの問題ではありません。「結婚して家族を作ることが幸せ」 、「結婚したら、男は仕事、女は家庭」という価値観はまだまだ根強いものです。 「女らしく」とか「男らしく」という価値観から外れるとまだまだ生きにくい、ま た「結婚」していない人間は生きにくい、という状況もあります。実際、近年、就 職がない女子学生たちは「永久就職」と称して、「結婚」を選択する、という状況 も残っています。また、結婚して、子どもを産んで一人前、という価値観は、まだ まだはびこっています。

     私たちは、こうやって「性別」とか「性的指向」というものに縛られて生活してい るのではないでしょうか?

     無意識のうちに持っているものを、また「常識」と思い込んでいるものを、問い直 してみることによって、自分の持っている枠を打ち破り、新たな自分を発見できた ら良いな、と思っています。

     というわけで、よろしくお願いします。



    浅見定雄先生の紹介
    浅見定雄先生の紹介

    日本基督教団浪岡伝道所・八甲田伝道所牧師 竹迫 之

     僭越ながら、わが敬愛する浅見定雄先生をご紹介させていただきます。

     浅見先生のお名前をはじめて伺ったのは、私がまだ統一協会のメンバーだった頃 のことです。統一協会には自分たちに反対する人々を「サタン」呼ばわりする習慣 がありますが、私の頭にはまさしく「サタンの親玉」としての“アサミ サダオ” が、脱会後もなおしばらくインプットされたままだったのであります。

     私を統一協会から救出した牧師の1人であるS先生が東北学院キリスト教学科卒 でありまして、そのつながりからS先生が牧しておられた教会に修養会の講師とし て浅見先生が招かれました。マインドコントロールが解けて物事の見方・考え方が 180度変わったとは言え、“アサミ”は依然「親玉」のままであり、私はかなり の緊張をもって初めての対面に臨んだのでありました。

     ところが、統一協会内部では「超大型の悪魔」として恐れられていたはずの“アサ ミ”は、実は意外にちっこいおっさんであり、私はかなり拍子抜けしてしまったので ありました。「こんなモノを恐れていたのか」と驚いた私は、改めてマインドコント ロールの恐ろしさを心の底から噛み締めたのであります。お話してみると、“アサ ミ”は「身長が低い」とか「胴が長い」とかいう意味以上に腰が低い紳士であって、 どんな素朴な質問でも正面から受け止めて丁寧に答えて下さる方でありました。私な どより随分と年上の方ですが、それでも「若い」という一点で相手をバカにする事の ない、それまでに出会ったことのない種類の人物であるとの印象を強く持ったのであ りました。

     さて、その修養会では旧約聖書について学んだのでありますが、“アサミ”の専門が 「旧約聖書学」である事を、私はこの時初めて知ったのです。だいたい、聖書を学問的 に読むということが可能だなどと想像したこともなかった私は、「世界は広い」と奇妙 な興奮を覚えたものでした。そして、見た目はちっこいおっさんにすぎない“アサミ” が、実は大変巨大な人物なのだということも、同時に発見しはじめたのであります。何し ろその知識。の豊かなこと! 旧約に関することは専門だから当たり前としても、いわゆ る自然科学一般について、歴史について、語学について、どんな質問を向けられてもすら すらと答えが出てくるのです。「この人の頭の中身はどうなっているのだろう?」と怖 れにも似た驚きを感じたのでありました。だって、私などいい加減前後不覚になった夜 の飲み会ですら、洋酒1本取り上げては名前の由来や製造された地方の特産物にいたる まで、様々なウンチクがとめどなく溢れ出すのですから。いくらちっこいからといって も、人を外見で断じてはならないのであります。

     その後S先生から洗礼を受けた私は、牧師になる勉強をするべく浅見先生のおられる 東北学院キリスト教学科に編入しました。その時の私には、“アサミ”のような知識の 鉄人になりたいという、ひそかな目標が宿っていたのでした。

     しかし私は、入学後ほどなくして“アサミ”の正体に直面させられたのでした。講義 中、いきなり机を叩いて怒り狂うのは序の口。目は吊り上り口は耳元まで裂け、教室を 追い出される学生が続出するありさまでした。後に“アサミ”の著書である『にせユダ ヤ人と日本人』を読むに至り「ああ彼はニセモノの知識が許せないのだなあ」と気付き ましたが、しかしあの怪獣のごとく荒れ狂う彼の姿は、正真正銘のサタンを見た思いが したものです。それでも教室を1歩でも出ると“アサミ”はまたたくまにヒブル語とウ ガリット語の駄洒落に自分で笑って学生を化石化させる「浅見定雄」に戻るのです。 その変身ぶりは仮面ライダーもかくやというほど鮮やかであり、改めて「人を外見で判 断してはならない」と気付かされたものでした。いったいどちらが浅見先生の本当の姿 なのか分からなくなった当時の私は、「この人の頭の中身はどうなっているのだろう? 」と、あらゆる意味でいっぺんアタマをカチ割ってみたい誘惑に駆られたものでした。

     後に牧師になった私は、やはり牧師であられる浅見先生と『同労者』として時々お会 いするようになりました。すると、先程書いたこととは矛盾するようですが、実はこの 人は外見通りのちっこいおっさんに過ぎないのではないか、と感じるようになりまし た。私の見た所、これは周囲に女性がおらず、しかも本人が上機嫌である場合に限られ るようですが、驚いたことにお酒に酔うと脱ぎ出すことがあるのです。初めてそれを 目撃した時は私の“アサミ”観に相当な修正を余儀なくされましたが、2回3回と見る うちに、それがなければ浅見先生と会った気がしないようになってしまいました。皆さ んがそれを見ることができるかどうかは、ひとえに「夜」の盛り上がりにかかっていま すが、UFOや超能力を目撃するよりははるかに高い確率で可能な事だと思われます。

     世界は、確かに広い。その広がりを、ちっこくも巨大で恐ろしくも楽しい「浅見定雄 先生」と直に出会うことで感じていただきたい。

     この世には、いまだ解明されざる謎が満ちているのです。

    (たけさこ いたる)




    講師からのメッセージ
    講師からのメッセージ

    浅見定雄

    「こわす関係〜つくる関係」・・・学生の皆さんが考える題は難解だなあと思い ます。神戸市須磨区のA少年が「壊す」、「壊れる」という表現を多用しているこ とも思い出されました。

    私が聖書以外で多少発言できるのは、カルトとマインド・コントロールのことで す。そこで私としてはこの観点から、私なりに主題に接近してみたいと思います。 目下書き留め中のメモから拾い書きしますと…

    破壊的カルトと言われるものに共通しているのは、今までの人間関係や社会関係 を一律に否定的に見てそれからの断絶を説くこと、そして自分たちの閉ざされた 「関係」の中へとメンバーを誘い込むことです。ところがそのカルトの内部は、 一般社会以上に俗っぽい価値観で動いています。

    それなのになぜカルトが若者を惹きつけるかというと、私たちの現在の社会や人 間関係の中に、確かにカルトの言い分をもっともらしく思わせるような問題があま りに多いからです。私たちは、現在の社会や人間関係の何をこわし、何をつくって いくべきなのでしょうか。

    もうひとつは「マインド・コントロール」です。これによってカルトは、あるい は問題の所在をすり替え、あるいは虚偽の解答を真実らしく思わせます。ただここ でも、私たちの社会の子育てや教育や「社会的要請」の中に、カルトのマインド・ コントロールを批判するだけでは済まされない同質の問題があると思わずにはいら れません。

    というわけで、問題点の幾つかは見えるように思うのですが、解決への処方箋と なると特効薬は見当たりません。むしろ私の結論は、カルトと同種の安易で断定的 な特効薬を欲しがらずに生きる生き方こそ大切なのではないかということです。 そしてこの点が、聖書の救済観や歴史観とも関連をもってくるように思っています。


    参考図書: 浅見定雄著「なぜカルト宗教は生まれるのか」