Summer School開催のお知らせ

1997年中四国地区学生YMCA連盟夏期学校

「声にならない声を聞く〜一人一人と出会うために〜」


 中四国学生YMCA連盟、およびシニアの皆様 だんだん蒸し暑くなってきましたが、みなさんも汗水垂らしてご活躍のことと思います。 今年もやっぱり例のごとくあの夏期学校の季節がやってきました。

 去年の夏期学校は近 年の学Yの後継者不足の影響もあってか、例年に比べて参加者数があまり多くありません でした。今年は各単位Yでも、個性的で愉快な新メンバーを迎えることができましたので、 彼らともにたくさんの参加を期待できると思います。「○○大学に奇天烈な奴がいる」と いう情報を得ている方で「俺より奇天烈な奴がいるはずはない」と自負しているなら、迷 わずSSに来てください。それが真実かどうかを確かめるまたとないチャンスです。 また、今年は中四学Yシニアの会をタイアップして開催することとなりました。まだま だ経験も足らず、親のすねをかじって生活しているような学生にとって、社会の荒波をか いくぐり、豊富な経験と知恵を重ねてきたシニア達の涙なくしては語れないお話を伺うの はとても貴重な経験となるでしょう。もちろん夜の飲み会でじっくり、しんみり話をする もよし、分団で熱く議論を戦わせるもよいでしょう。

 今年のSSのテーマは「声にならない声を聞く〜一人一人と出会うために〜」です。講 師に自閉症の子供達と関わっておられる松岡夫妻をお招きします。夫妻のお話を通して声 を聞けない、出せない私たちの関係、社会についてみなさんと考え、SSの参加者一人一 人と出会えるような会にしたいと思っています。

 果たしてどのような結果になるのかは、 当日のみなさん次第です。 ご近所もお誘い合わせの上ふるってご参加ください。お待ちしております。

SS実行委員長 河野

君に書いてもらおうと思ったけど間に合わなかったので 市原

日時  1997年 8月22日(金)から25日(土)まで

場所  玉野少年スポーツセンター     706 岡山県玉野市田井2丁目4464-10 Tel:0863(31)0888(呼) Fax:0863(31)0889

テーマ 「声にならない声を聞く 一人一人と出会うために 」

講師  松岡孝司・さわ子 夫妻 参加費 未定(13000円程度になると思います。交通費プール込み)

申込先 岡山大学YMCA操山寮 河野または合田まで   700 岡山市宿本町-213 Tel:086(228)0836


夏期学校テーマ解題 〜声にならない声を聞く〜

藤井 加寿

 声にならない声を聞く。それは私は自分が20才になるまでの中でも聞き忘れ てはならない子供たちの声がありました。

 それは、不登校をしている子供たちのことです。不登校は病気だと決めつけられ 施設に入れられ直そうとされ、逆に心も体も傷つけられ命すらも奪われた子供た ちがいます。その子たちの怒り悲しみを忘れられません。

 今、不登校の子供たちを施設に入れようとする厚生省の発表が今日付けの新聞に 出ていました。施設に入れられしばられてしまう。私は不登校をし、学校の中で生きにくくさせている彼らに二重も三重も足かせをさせるのではないかと思います。

 子供たちの小さな叫び声を耳をすまして聞かないと大人となった私たちは聞こえ なくなっていると思います。私は今だれと出会うのか、だれと出会っていきたいのかを問われていると思います。一人一人の声は小さく、いや小さくさせている私たちがいることを忘れずにいたい。私は高校をやめそうになっていた時、私をみんなが支えてくれたことを幸せに思います。一人一人がいっぱいいてみんなの 支えとなったとき私は心を開いていけたのだと思います。

 「声にならない声を聞く〜一人一人と出会うために〜」それは今から始まるこの 夏期学校だけでなく、小さくされている誰かに出会うことを始めようということが今回のテーマだと思います。みなさんと出会えたそこからスタートしましょう。


声にならない声を聞く〜一人一人と出会うために〜 テーマ改題補助

(市原の独断と偏見によるまとめ)

 声にならない声を聞くとは、どういうことなのか?声にならないなら聞けないじ ゃないか、などという屁理屈を言う前に、まずこの夏期学校を催すにあたっての 運営側の思い入れを聞いて欲しい。これらは、中四の春期連盟委員会PARTUで参 加者みんなで模造紙にこのテーマに対して思うことをただ己の命じるままに書き 殴ったものだ。さて、みんなはこの「一人一人の」言葉をどう聞く?

・私たちは努力せずに人と「出会う」ことができない。常に対話を重ねながら、 相手のジェスチャーや雰囲気を感じ取り相手の気持ちをおもんばかり、次に繰り 出す言葉を探している。相手が与えた印象を常にフィードバックすること、そして常に相手から学ぼうと謙虚であること。その上でただひたすらにまつことしか 私にはできない。

・なぜ、声にならない声を聞けなくなったのか?(以前は聞けてたのかなぁ…)出会いっていうのは大切やねー。でも、声を聞きたいけど同情の心は持ちたくな い。でも自分が同情をもっているかもってないかわからない。それがわからないから声を聞くのにためらう。

・だれかと会いたい。自分とは価値観の違う人と。自分はひとりぼっちだと思っている人と。苦しんで声になっていない人と。声になっていかない人と。そんなだれかに会いたい。

・皆が何をSSに求めているか声にならない声を聞きたい。

・食わず嫌いはもったいない。とりあえず、試食してみよう。

・声にならない声に対して(特に)その重さを自分の量りではかってしまう。同 時に自分の中で声にならない声を聞く…ことから声にならない人の声(声に出せ ないものと、声にならないもの)に少し気づける?声が聞けないと思っているこ とは実は自分が聞きたい声が聞けないと思っているだけなのかも。それときめつ けかな?

・一人一人と「出会う」とはどういうことか?

・声にならない、聞くことができない→何に縛られているのか?

・声を出せなくさせるもの、声を聞けなくさせるもの→一人一人の出会いを阻む システム(学校、社会)。一人一人との出会い←対立→統一された価値。聞くと は?「聞いてあげる」とは違うはず。ハズ。実は「聞きたい」?

・オレの声を聞け。

・ともだち。そもそも“声になる声”を聞けねばならぬ。一人ひとりが個性を持 っていきていくための……。人間関係(わからぬ)他者へ。ぼくがぼくであるた めに(Yuzaki Otaka)背すじのばして、他人を理解する。

・自分の心を他人にむかって開く。戦う。よく見る。みきわめる。

・聞いてもらう前にまず聞くこと。

・ただ自分を信じる!!運命と出会うために、ただつき進む!!これから起こる ことをあるがまま受け入れる!!愛に生きる!!

・まず自分の心の声を聞こう。

 以上、運営側の熱い思いが伝わったであろうか?とここで終わってもいいが、これではちょっとわかりにくい点もあるかと思うので、僕の独断と偏見によって勝 手にまとめてみようと思う。勝手にまとめるなという人は、これ以後読まないでください。いや、まとめてみるってのも結構いい感じ、と思っている人は読んで ください。でも、読んでみて「これはちょっと違う」、「おおげさ」「まぎらわしい」等の苦情、お問い合わせはジャ…ではなく、SS当日受け付けますので、そのつもりで。

 さて、「声にならない声」というものに対して、各自がそれぞれのリアリティに基づいて、それぞれの具体的な「声にならない声」を思い浮かべているのがわか る。たとえ、それをはっきりと表さなくとも、参加者のことをある程度知っている僕には、そこになにか筆者の具体的思い入れがあることは、容易に想像が付く (絶対そうとも言い切れないが)。テーマ改題をみてもらっても、おそらくそうだと思う。たとえば、それは学校でいじめにあった人の声だったり、身近な友達の声だったり、家族の声だったり、社会的に差別抑圧されている人の声だった り、もしくは自分の声だったりする。つまり、声にならない声(なにかを言いたい伝えたいにもかかわらず、それを伝えられない、声を上げることのできない人、または人たちの埋もれてしまった思い、のことだと僕は解釈している。)と は、10人いれば10通りの対象があると言ってもいいと思う。それはとっても当然で自然なことだ。なぜなら、声にならない声とは僕たちの日常生活にあふれているということが、僕らにもわかっているからなのだ。今まで、「声にならな い声」に気づかなかった、または聞かなかったことが具体的経験としてある程度あるからではないだろうか?声にならない声は今目の前にいる人にもあるかもしれない。そう考えると、声にならない声を聞くとはパーソナルな人間関係全般に おいてその人とどう向き合うかを問われることでもある。

 では、僕らはなぜ「声にならない声」を聞けなかったのか?という問いもある。 聞けなかったのは単に僕らの「未熟さ」ゆえのことだったのか?たしかに僕らは 未熟だが、同時に「何かに縛られている」のではないだろうか。僕らを「聞けな くさせるもの」「声を出せなくさせるもの」があったのではないだろうか。僕個 人は、それは社会のシステムや価値観などのソーシャルなものがあると考えてい る。たとえば、学校という小さな社会で考えてみてもわかる。僕が中学生や高校 生だったころは、厳しい校則の中で管理されながらひたすら受験のための勉強を していた。それは、苦痛でもあったがある意味楽でもある。みんなと同じ服を着 て、同じように登校して、それなりに勉強をしていればこの学校という社会から はみ出ずに済むのだ。つまり僕は学校という社会の中である画一化された価値観 にのっかって楽に生きていたともいえる。しかし、やはり画一化された社会から は、はみ出る少数者がかならず存在する。不登校の人やいじめられる人たちなど だ。僕は自分がその価値観からはみ出すことが怖くて、彼らの声が聞けなかった のではないかと思う。同様に日本社会に置いても、統一された価値にのっかるこ とでこのようにゆがめられた関係があるのではないか。

 今、僕らが声にならない声を「聞く」のはなぜか?それは「聞いてあげる」といったような同情を意味するのか?いや、「声は聞きたいけど同情の気持ちはもち たくない。」むしろ、僕らは「聞きたい」のだ。「自分が聞きたい声が聞けないと思っているだけ」で本当は聞きたいのだ。なんのためか。「自分とは価値観の 違う人と」出会うことで、自分のたっている立場や、与えられた価値観から自由になって、「一人一人が個性をもっていきていくため」「ぼくがぼくであるため」だ。そのために、「まず自分の心の声を聞」こう。「自分の心を他人に向か って開」こう。聞くとは一方通行ではなく「常に対話を重ね」るものだから。「皆が何をSSに求めているか」は人それぞれだ。だから、まずSSに参加してそれを聞いてみるってのも、「聞く」第一歩じゃないか。「食わず嫌いはもった いない。とりあえず、」SSを「試食してみよう」。

 ふぅ〜。できるだけ、多くの引用を使ってまとめたけど、かなり↑強引な文章になってしまった。結局のところ、僕個人の言いたかったことを表すために利用し ただけのような気もするのだが。(ポイントは「ソーシャル」と「パーソナル」)

文責 市原