VOW特集 「渡辺和子さんを偲んで」


No.219 (2001.3.6) から

弔 辞


姫岡とし子

 

 渡辺和子さんには、本当にたくさんの友人 がいます。そのなかで私が代表して弔辞を述 べさせていただくのは、偶然にも、和子さん の最後のレストランでの夕食を共にし、また 病院での最後の晩餐を見守り、病床で意識不 明になる前の最後の言葉を聞くめぐりあわせ になったからです。

 一緒に食事をしたのは11月24日金曜日、 和子さんが最後に緊急入院をする丁度一週間 前のことです。そのとき彼女はとても食欲旺 盛で、また4月から大学に復帰して教えるん だと力強く語っていたため、容体急変はまっ たく予想外のことでした。最後の晩餐は、お かゆを二口ほど口にしただけ。でも彼女は元 気になるためには食べなくてはならない、人 間、食欲があるうちは死なないと自らにいい きかせるように必死で食べようとしていまし た。
彼女の最後の言葉は、何と「帰って」でした。 重病人扱いしてほしくなかったのだと思いま す。最後まで生きることしか考えていなかっ た、そして生きるために、あらゆる手段をつ くした和子さん、さぞかし無念でしょう。私 たちも至極残念です。まだまだ一緒に語り合 いたい、語り合うことが山ほどあるのに。

 和子さんの病気が発見されたのは、昨年の ちょうど今頃です。3ヶ月前にお母さんを同 じ病で亡くされ、それが早期発見につながっ たと、彼女は説明していました。しかし、病 状はもっと深刻だったようで、彼女は日本で は認可されていない薬が使えるアメリカでの 抗ガン剤治療と手術という道を選びました。 どんな進行癌でも、こんなにたくさん治療の オプションと成功例があるよと示してくれる アメリカの医療に、彼女は希望をみいだした のです。

 彼女がもっとも重視したのは、治療中のク オリティ−オブライフです。幸い副作用もほ とんどなかったため、アメリカでは美術館や コンサ−ト、友人たちとの食事会など、一方 ではソ−シャルライフを満喫し、他方で6月 にニュ−ヨ−クで開かれた「北京プラス5」 会議でワ−クショップを主催したり、政府間 会議のロビ−活動を展開したりと、活発に女 性運動を続けていました。アメリカでの治療 と充実した日常生活、他人にはまねのできな い、こんなすばらしいことをやってのけられ たのは、あなた自身がフェミニズム・グロ− バル・ネットワークの生みの、育ての親だっ たからです。

 和子さんは専門のアメリカ文学でも多くの 業績を残しました。しかし、あなたの人間性 がもっとも発揮されていたのは、自身が先頭 にたって牽引したフェミニズム運動です。メ ディアにおける性差別、性暴力、女性学教育、 セクシュアルハラスメントと、いつも陣頭指 揮者で切り込み隊長、理論的支柱でした。あ なたのすごいところは、時間と忍耐を要求さ れる裏方の仕事も、きっちりこなしていたこ とです。
あなたは、とても優しい人でしたね。深夜ま で電話やメ−ルによるセクハラ相談に応じて、 いつも睡眠不足。気がつけば、研究室で夜明 かししていたなんてこともしょっちゅうでし た。「あなたの得意技は居眠り」だと私は冗 談をいっていたけれど、まさに骨身を削って の活動でしたね。おかげで、どれだけ多くの 人があなたの活動で救われ、あなたからエネ ルギ−をもらったことか。そんなあなたを失 うことは、世界のフェミニズム運動にとって はかりしれない痛手です。

 日本でも海外でもフェミニズム関連の大き な会議があると、主催者やパネリストである 場合はもちろん、一人の聴衆としても、いつ もあなたはちゃんとその場にいました。あな たの好奇心と行動力、パワ−とエネルギ−に は、誰もが脱帽します。誰にもまねはできま せん。
人間機関車和子号は、休むことなく走り続け てきました。これからは、ゆっくり眠ってく ださい、なんて私はとてもいう気になりませ ん。居眠りであってほしい。天国からときど きひょっこり顔を出して、私たちをエンパワ −メントしてくださいね。