私が初めて女性学年報の編集委員になったのが15号(1994年)、渡辺和子さんが編集 長の時だった。それまでにも何度か年報に投稿はしていたけれど、アカデミズムの世 界に所属しているわけでもなく、自分なりのフェミニズム批評を模索していた私に とって、英米女性文学の研究者である渡辺さんといえば、日本のフェミニズム批評の 先駆者、大先生というイメージだった。そんな方と一緒に仕事ができるなんてと、大 緊張だったけれど、ミーハー気分でうれしくもあった。その一方で、島崎今日子さんのインタビュー集『女学者丁々発止』(1990学陽書 房)で渡辺さんが語られていたことがとても印象に残っていた。お父さんが早くに亡 くなられて、祖母、母という女三人の家庭で育ち、姓を変えないようにお見合い結婚 をされたこと、夫の暴力に合い離婚されたことなど、決してすんなりと学者になられ たわけではなく、女性としてしんどい生き方をされてきた方なのだなあと思ってい た。
実際に接した渡辺さんは、私のもっていたイメージとは違い、とてものんびりと おっとりした方だったが、弱い立場のものの側に立つという姿勢は終始一貫してい た。15号で組まれた特集「マイノリテイとフェミニズム」には渡辺さんの問題意識の あり方があらわれていたと思う。
18号(1997年)で私が編集長になった時、渡辺さんは本当に親身になって相談に のってくださった。何度も長電話につきあってもらい、座談会にも出席してくださっ た。その時は、1995年に55歳で急逝された冥王まさ子さんという女性作家についての 私の原稿のコメントも引き受けてもらった。渡辺さんは、冥王さんととても親しいお 友達だったということで、まだ冥王さんの死のショックから立ち直れていないと言わ れていた。
冥王さんの死について「ある女性作家との「再会」」(『世界週報』1995.6.13) というエッセイを書かれていた。私はそれを読んで、渡辺さんの思いがものすごく伝 わってくるようで、自分の原稿の参考にさせてもらった。そしてこの原稿を書こうと 思った時、そのことを思いだし、コピーをさがして読み返してみた。
そこには(アメリカの女性作家・女性運動家であり40歳で死去した)マーガレット・ フラーの学会に参加するために渡米した時に、「この世で人間であり続けるためのほ んとうの希望を求めて」渡米し、永住権を手に入れたところで亡くなった冥王さんの 葬儀に参列することになったこと。そして生活のために本を書き続け、ようやく自分 の「夢の家」を建てた落成の日、55歳で倒れたイギリスの女性作家エリザベス・ギャ スケルを思い出したということ。希望が手に届き、次の飛躍へと人生の後半を歩み始 めた女性作家たちの偶然にも酷似した運命を思って身震いしたことなどが書かれてい た。そのエッセイの内容と、渡辺さん自身の死が、あまりにも重なってしまっている ことに私はなんとも言えない気持ちになった。本当に悲しすぎると思った。私と渡辺和子さんのつながりは、女性学年報から始まった。それからはずっとエー ルとシスターフッドをもらい続けていたような気がする。渡辺さんなら他にも書ける 場はたくさんあっただろうけれど、女性学年報という媒体をとても大切にして下さ り、その最多執筆者であった。闘病中も、21号の発行のために協力してくださった。
渡辺さんからもらったものの大切さをもう一度確かめながら、これからも大切にし ていかねばと強く思っている。