1998.11 報告

1998.11 例会
「わたしからフェミニズム」発刊記念シンポジウム&バースパーティー
ノラの方舟 〜フェミニズムの未来戦略〜


報告 part5

女性学の担い手と世代間格差

國信潤子さん



 この頃いろんなところで女性学について話す機会があるのですが、この研究会は若い会員は増えているのですか?

 (フロアから)「増えてる。」「増えてないよ。」

 そのあたりのところを日本女性学会と比べてみたら面白いのですが、日本女性学会では会員が600名になりました。院生の女性が多くて、あそこに名前を連ねて学会誌に研究発表すると業績リストに載るということで入ってくるらしいのです。

 日本社会学会にはジェンダー部会というのがあって、私は日本社会学会では全然活動していないのですが、コーディネーターをやらされました。なぜ私に声がかかったのかというと、ジェンダー関係の部会や発表が多くなりすぎて、みんな総動員されたらしいのです。でも研究発表の中身を聞いたら、この人たちは東大とか、学術振興会とかの若いステータスのある研究員ですけど、ジェンダー論の背景などを知っている人から一度も指導を受けたことのない人たちなのだとびっくりしました。

 例えばその発表は「女性学とかフェミニズムの研究というのは、運動よりも学問的な研究が先走っていて、言葉上の議論に終わっている」というような枕詞で始まって、ジェンダーとセックスの、ジェンダーが概念になって、実態とは離れているとして、ボーボワールのフェミニズム研究を報告するのです。これがジェンダー論の発表というわけです。そういう人たちの先輩に当たる人たちが、大学でジェンダー論を教えるのです。女性学という言葉をその人たちはあまりつかいたがりません。

 こういうジェンダー論研究者がふえてくるとどうなるかというと、例えば東大の若手教授の瀬地山角さんなどいますが、性暴力を受けた女性に対して、「人によっては殴られたくらいにしか感じない、というような女性もいるんですよ」というようなことをサラっと言ってしまったり、あるいは女性が自己選択、主体的な選択をしているんだから、そういう人の労働環境を守れればいいなどというのです。また大学生に人気のある宮台さんみたいな論客が受けるのです。

 かなり前に朝日新聞の角田由紀子弁護士と瀬地山さんの売買春についての対談記事を学生に配布して討論しました。「あなたたち、こういうことをどういうふうに思いますか」と聞くと、学生の8割が瀬地山さん派なのです。つまり「性の買売春をすることを殴られたぐらいにしか思わない人もいるのに、フェミニストは殴られたようなことを、一生を棒に振るというような決めつけをする」「頭の固いフェミニストオバサングループの考えは古い」ということのようです。そして性産業で稼げるなら、自己決定権として性労働を選べるのだ、ということになります。その労働には他にもいろいろな問題があるのだ、性労働の労働管理はいったい可能なのかということはすっとばされてしまっています。フェミニズムという思想を押さえてジェンダー論をやっている人と、ジェンダー関係の社会学的研究をするという人の間にはかなりの開きがあるのです。

 ジェンダー研究を日本社会学会などで報告しようとする人は、自分はフェミニストではない、あるいは自分はジェンダー論専門ではないと言いながら報告しているのです。そういう場で、私が「女性学というのはそういうふうにして始まったのではないですよ」というと、また難しいおばさんが余計なお世話をしてくれるというふうに、思われがちになります。しかし女性学のよって立つ女性の主体性抑圧の構造をいかに認識するか、またそれをいかに研究領域にしっかり根付かせるかは重要な問題です。

 そして女性学が、学としてまだ専攻確立ができないもう一つの理由は、相変わらず男の古い先生たちで「昔はフェミニズムを研究すると言うと笑われたものですよ」みたいな調子で始めるのです。そういう中で、真剣に女性学を運動とつなげていくという部分は、いまだに埋まっていない空白だという感じを私は持っています。

 この間モンゴルの東アジア女性フォーラムについての報告があったのですが、みんな研究発表のためだけに来て、研究発表をした人は帰ってしまうのです。ご多忙なのだろうとは思いますが、東アジアとの連携という視野は全然なく、多くの場合ヨーロッパとかアメリカ研究報告です。研究者は30代で、自分では自立しようという意識を強くもっている。ましてや専業主婦になろうなんていう意識は毛頭ないんだけれども、フェミニズムや女性学について質的に違うものとして内面化しています。

 女性学、フェミニズムというのは上下関係なしでやるとか、ピラミッド構造を壊すとか、プロもアマチュアも一緒だとか、そういうのがあるんだけれど、これだけ学問的に蓄積してくると、いろんな用語が出てきて、蓄積された文献があって、そういうのをまったくなしに、自分の思いだけをぶつけるというだけでは、確かにもう議論として物足りない。女性学やフェミニズムというのはいつも同じことを言ってるという印象がもたれる理由は、女性主体の抑圧認識をどのように共有するかというところにあると思う。

 自分は差別がないとか、専業主婦になって幸せに暮らそうと思っている学生たちが、初めて大学でジェンダーや女性学に接して、いやそうじゃないんだということに気づいていく。この間も結婚ということで大学でセミナーをしたのですが、ジェンダーや女性学をやっている教員たちにとっては食い足りない。研究会ではいつも、学生に調査を実施してもらって、その結果分析と一緒に研究会をもっています。大学の研究所というのは、もうちょっと学問的なアカデミックな知識の蓄積がなければいけないという話が出ますけれども、そういうマーケットはそう広くないから、そういうことをやったって、知ってる人が二十人くらい集まって終わりなんですよ。仲間うちでこちょこちょやっていることになります。それじゃだめだというので、別姓だの離婚だの結婚だの、援助交際だとか現代のテーマを上げると、それは学問じゃないと思う人が多くて、はじめてそういう話を聞いた女子学生とか地域の主婦が集まる。明らかにすみ分けが始まってしまっていて、その間でコミュニケーションもない。

 女性学というのが学術会議に地位を持ってるから、論文本数の高い人が幹事に必要なんです。そういう人を引き込むと、学術委員の選挙に推薦されて、学術会議の中で唯一の女性が、社会学研究領域から女性学会の人が出てくるだけなんです。世代間格差というか、世代は同じでも学問領域で活動している人は運動では全然顔を出さないし、ずっと運動している人は堂々巡りの議論をしていて出口なし。それを蓄積して学問領域で長年やってきた人は「もうああいう議論はつまらない」と言って議論にも何も出てこない。ですから、日本女性学研究会の意義は、そういう人たちと運動をどうやってつなげるかです。

 それと研究者の間では西欧米、北ヨーロッパ西ヨーロッパアメリカが中心で、いまだに主流です。東アジアとかアジア太平洋地区の話になるとやっぱり話としてはレベルが低い、遅れてる社会という意識の人がまだ多い。日本の女性はそこでは告発される側になっていくわけですよね。そういう部分は学会発表でも極めて少ないです。

 女性学の教育というのを大学で二十年近くやってみて、最近インターンシップというのがあるのですが、これが必要かなという気がしています。現場に行って何週間か活動をして、例えば夏休み一ヶ月間NGOで活動してきて、それが単位の要件になるという内容です。カラードウィメン(有色女性)のNGOがあって、そこで何週間か活動してくると2単位になる。そういうNGOを大学同志ネットワークとしていっぱい持っているんです。かなりの数の学生が行くので学生一人ひとりをそんなに手とり足とり面倒をみている暇がないというのですが、でも中に踏み込んで運動をやってくれるんですよね。そうすると全然違う視点をもって帰ってきます。そういう活動を中に入れていかないと。

 さっき出ていた政治の話でもそうですよね。政治にしたって政治理論として勉強するのと現場では全然違いますから、結局使い物にならない。現場に即した知識をもってしかも、ジェンダーに即した視点で運動するということはどういうことなのか、それは別に出来上がったものがあるというわけではなく、試行錯誤しながらやっていく。現場に行って見てきて、そしてまた教室に入ってくる。そういう形を作っていかないと、このまま五年、十年たったら、多分女性学に対する信頼が非常に薄れていくと思うんですね。いつまでも同じことをやっているといわれる人たち。それ以外の人たちはジェンダーとセクシャリティという言葉をどんどん入れ替えていって、外縁形成をして形而上学的になっていってしまう可能性がありますね。

 高校や大学でNGO活動を通してジェンダー視点を入れるという、現場とをつなぐ努力というのをこれからも、やってみたいところです。ただ最近の学生は、アルバイトで忙しいので、そういうことははやりませんが。100人、150人いるうち2、3人がそういうところに行って、目からウロコという状態になって帰ってくる。そういう人たちと一緒に活動やりながら、女性学をやっていく、そういうところです。

 以上、今の私のおかれている状況を紹介しながら、女性学の焦点の稀薄化、学問と運動の乖離、その格差を埋める努力の事例を紹介させていただきました。