運動とシスターフッドのフェミニズムを
『女性学年報22号・特集:渡辺和子追悼集』発刊を記念して
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演 者 紹 介 |
2月例会と「百合祭」と「霧の子午線」
まず、2月例会のスタッフの一人として、参加者数を報告しておきます。一般参加47名、日本女性学研究会会員と『追悼集』協力者(スタッフ含む)27名、合計74名の参加をいただきました。昨秋から準備を始めたスタッフの熱意と協力のかいあって、大勢の方に(もちろんわたしも含めて)改めて「渡辺和子さん」の業績を理解していただくことができ、同時にフェミニズム・ネットワークの心意気(わたしはこれがシフタ―フッドだと思っている)をわかり合える機会を得られた事は、本当に嬉しいことでした。また、この例会は「(財)大阪府男女協働社会づくり財団」すなわちドーンセンターとの主催共催事業として開催する事ができましたので、大阪府下の女性センターをはじめとする行政関係機関への広報やメディア関連機関への周知も早くから行われた事もあり、いくつかの新聞が特別な依頼なしに広報してくれたり、いつもドーンのロビーや各階にチラシが置かれてPRされるなど、一般の方への広報についてはたいへん大きな助けとなったと思います。その上に、会場や附帯設備を提供していただけたり、数日前の急遽のビデオ使用のお願いについても便宜を図っていただくなど、このイベントを開催するに当たってたいへんご協力をいただいた事を、紙面を借りてご報告とお礼申し上げます。
さて、表題についてですが、竹村和子さんのお話しを聞きながら思い出していた数年前のある映画があります。題名の思い出せなかったその映画が、何と一週間後の24日にドーンセンターで行われた映画鑑賞とトークのイベント『百合祭』において、トークショーのところで取り上げられていたのです。この時わたしは会場の外で3月3日のチラシを配っていたのですが、中から聴いたことのあるような俳優の声と会話が聞こえてきて、耳を澄ましていたら「その映画」だとわかりました。しかもまさしくわたしが「感じた事」と同じ分析を語られているではないですか。けれどちゃんと聞いていないので題名がわからない。そこで帰ってからインターネットで「映画、吉永小百合、岩下志麻、学生運動」と打って検索に掛けたら、本命情報が三つ現れて『霧の子午線』(1996年/東映)とわかりました。
検索で現れた情報のうち二つは個人的な映画批評のようでした。おかげでストーリーもずいぶん詳しく思い出すことが出来たのですが、肝心の見方が違う。最後の志麻さん演じる○○がノルウェーの岸壁で両手を突き上げ、吉永演じる△△(その直前に死ぬ)の名前を絶叫するシーンについても「まるで巫女の雨乞いのような物々しさで一気に興ざめ。小百合ちゃんの絶命演技を木っ端微塵にしてくれました。」と書く。これがもし、○○が男性だったら、、、「長年つきあった恋人の死をここまで嘆くかの壮絶な演技」となるのでしょうか。
三つのうち一つはなるほどの見方。「夜中(略)テレビをつけたら、岩下志麻と吉永小百合主演の映画がやっていた。(略)学生の頃から続く2人の女性の友情を描いたもの。(略)、二人の関係がどうにもビアンチックだった。なんかとくした気がした。」(レズビアンの方の日記風ホームページの一部のようでした。そんなこんなの情報も検索で一発で出てくるから、ホームページやインターネットの使い方には気をつけましょうね。)
6年前のちょうど今ごろ2月末、あの映画を観にいった時、映画館は二人の主演ゆえのおじさんたちがいっぱいだった。今回の『百合祭』も、新聞の宣伝のおかげもあっておじさんがたくさん観に来ていた。そこで演じられた女たちの「変わらぬ友情―ロマンティックラブ」。お後に続きますのは、わたしたちの実践・実演かな、、、。さて観客はいかが?
盛況でした。若いかたも多いようでした。講演者の竹村和子さんがとりあげられたのは、ロマンティック・フレンドシップという、渡辺さんが論文にされたり、学会でお話されたテーマでした。以前『女性学年報』で、「"ロマンティック・フレンドレス"とアダムレス・エデン」という文章を渡辺さんが寄稿されたとき、コメンテーターをしたおりに渡辺さんとあれやこれや夜中の電話で話したりしていましたので、竹村さんが多岐にわたる渡辺さんのどの取り組みに言及されているか、よくわかりました。また竹村さんご自身のお話も明解な口調でわかりやすかったのではないかと思います。「ロマンティックな」という形容詞を説明するよう、ある会合で「わかっていない」ようすの男性に質問されたあと、渡辺さんはその質問を自分なりに深めていたのではないかというご指摘がありましたが、そのとうりだと思います。第一稿を見て、「『若草物語』の姉妹の、それぞれ個別のメンバーへの「執着」の温度差などに注意を払えば、近親相姦的同性愛という、このころは表現しにくかった、あるいは作者にも意識しきれてなかった何かがあったと考えられませんか」とファックスでコメントしたところ、早速電話があり(夜中の1時前でした)「うーん、そうかも。取り入れてみる」とおっしゃいました。
私自身はすぐに人のコメントを素直に聞けるほうではないので、ちょっと驚きました。でも、暴露してしまえば、他の原稿はすでに2、3度のコメントを終えて掲載か否かという煮え詰まった議論の対象となっていた7月の最終締めきりの前日にこういう状態だったのです。第一稿をファックスでいただいたのがその前の日でした。ろくな睡眠もとらないで2日くらいで書きあげたようすで、電話で話しているとき、「あら、欠伸がでてきたわ。あまり眠すぎると欠伸も出ないのよ。ちょっと体調がましになったというしるしだわ」といった内容のことを、私の話をさえぎるかのように言われたことを記憶しています。
纏わりつく娘を片手で抑えながら、必死で無い知恵を絞ってコメントしていた私がふとだまると、電話の向こうでほんとうに大きな欠伸が聞こえたので、気が抜けて大笑いしてしまいました。その笑いで、同性愛的関係とロマンティック・フレンドシップという、今思えば渡辺さんには一つのテーマだったかも知れない話題は頓挫してしまい、とにかく編集委員会のメンバーに見せられる形にして、委員会の当日もってくる、という約束で電話は終りました。そして当日、委員会がグラグラ煮え詰まっているところへ、他の自分が司会をしている催し(しかも同日に二つとか)の合間をぬって、「ついでがあってよかったわ」と口ばしりながら無事原稿を届けられました。私は他のメンバーには聞こえてないよう願ってました。
竹村さんのお話にもどりますと、ロマンティックという意味を、「中世の騎士道における騎士と主人の奥方との肉体接触性をあくまで排除した精神性」と「女同志の関係が、ペニスを介在させないゆえ、肉体的接触として警戒されなかった、あるいは認められなかった」という側面での重なりがあり、語源的にはロマン語の物語、つまりロマンティックなという形容詞につながる、といったさわりから、女同志の「愛着」は、本当の男女関係を知る前の予行演習的位置付けに矮小化される、という話に進んだと思います…が、実はちょっとバタバタしていて、途中を聞き逃してしまいました。でもそのあとのフィルムは見ることができました。
私は質問用紙で、中世の騎士道における恋愛の精神性というのは、男同志の主従関係の一部ではないか、また、ジェンダーを超える瞬間として紹介されたグレタ・ガルボの男装は実は女装の極地ではないか、そして後の二つの女同志のレズビアン的な関係の例も、男を心地よくさせる演出の一部ではないのか。もしそうだとしたら(竹村さんはそうだと答えられました)これらを「ロマンティック・フレンドシップ」と関係づけることは、女どうしの関係を"hunting"していることになる、つまり、穿ちすぎの解釈になるという危険性はないのか、と尋ねました。が、この質問には時間の都合で答えていただくことはできませんでした。
ここ20年来、文学研究はテクストの意味に、読者やその時代の意識を投影する「読み」の手法で突き進んできました。竹村さんはその最前線でフェミニズムを生かしてられる研究者だと理解しています。テクスト「読み」重視は、それまでの、作家を妙にまつりあげたり、作家個人の経験と作品をびったりくっつけて研究することとはいわば反対の方向です。竹村さんが、今回のお話にあたって取られた解釈の方向性、というかその手法にどっぷり浸かってられるのか、その限界のようなものを意識しながら語られていたのか、をちょっと確認しておきたいと思ったからです。 とまぁ、好き勝手に原稿スペースをうめてきましたが、実は久しぶりにいろいろな方のお顔を見られて、また、著作だけで知っている講演者にも会えて、本当に楽しい会でした。ちょっと時間足らずで残念だったことを2点。一つは、本当に素朴な質問だったかもしれない、「シスターフッド」って何? という声に、言いたいこと、是非言っておくべきことがある人たちがたくさんいたのに、おそらくは若い、あるいはフェミニズム「初心者」の質問者と、そうした人たちをつなぐタイミングを逃したこと。もう一つは、「少女」への抑圧の形についてさまざまに考察してきている人がいたのに、「少女期の一過性の情熱」と女どうしの関係を処理してしまうという抑圧のペクトルが今、どんな方向に「少女」たちの関係に影響しているのか、コメントをいただけなかったことです。
追伸 竹村さんって、おもしろそう(失礼)。もっと日本女性学研究会に呼ぼう!
笙野頼子さんがある対談の中で、こう話していた。
「・・・反動的な男の人が「これはフェミニズムですか」と、反感むき出しで訊いてきたら、「そうだよ、フェミニストだよ、ばーか」と答えてやります」。
私は感嘆した。私の中には笙野頼子をはじめ、「孤高のフェミニスト」と勝手に名づけ、見習いたいと思う方が何人かおり、竹村和子さんもその一人だ。竹村さんといえば、「ジェンダー理論の第一人者」として定評がある。が、私が竹村さんの書いたものにぐらっとくるのは、ダイレクトな理論よりも、個々の作品論を通じてのことが多い。
最初にそう感じたのは、ある学会のシンポジウムでヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』論を聴いた時で、その次は映画『悪魔のような女』論を読んだ時のことだ。たとえば、後者には以下のような一節がある。
「おそらくそれ(女同士の連帯)は、「目のまえの目的」を共有するときに訪れる、きわめて個別的で、私的な出来事――具体的な差異を横断しつつ、つねに差異よって解体の危機にさらされる一瞬、一瞬の出会い――個人的な強烈な親和力なしには持ちこたえられない体験――なのではないか」(「〈悪魔のような女〉の政治学」『女というイデオロギー』南雲堂、1999年、310)。これを読んだ瞬間、映画の中でシャロン・ストーンとイザベル・アジャーニが演じた二人のヒロインの眼差しがいっぱいにはらむ、「かく乱的な」意味が見事に汲みとられていると感じた。
私にとっては、竹村さんが語ろうとするものは、小説や映画といった具体的な物語の一場面によって例証された時、イメージとして把握できることが多い。今回の講演も同様だった。渡辺和子さんが着目した19世紀後半の米東北部に見られた「ロマンティック・フレンドシップ」という女同士の関係に、竹村さんが読み取り、そこから語ろうとしたものは、私には、講演の最後に紹介された「うわさの二人」他、何本かのビデオクリップを通して伝わってきた。竹村さんの理論は、「理論」といっても、一分の隙も無い難攻不落の「城」というよりは、従来の理論や概念の隘路を縫うようにして繰り広げられる「パフォーマンス」に近いと思う。一つの主張としてというよりも、講演や質疑応答の場面ごとに、それぞれ感銘を受けるオーディエンスがいたのではないだろうか。
話を戻すが、私は「孤高のフェミニスト」を見習いたい。それは、「フェミニズムは私に必要な思想だが、そこにはまって後追いするだけじゃ、だめだ。〈なんか違う〉、〈そういうものかなぁ?〉というぼんやりした直観に試行錯誤して言葉を与える作業は私自身がひきうけなくては」という気持ちがあるからだ。質疑応答の中で、竹村さんは「女が「女装」するクィアさ」を口にされた。私は、先ほど開かれた冬季五輪のアイスダンスで、金メダルを取った「アニシナ・ペーゼラ組」の「マリナ・アニシナ」に不可思議な魅力を感じたが、その魅力は「これだ」と納得した。
鋭い直観は考え抜かれた思考の産物だ。私も七転八倒、試行錯誤しなければ、と気を引き締めた。