『女性学年報』第30号 書いてつないで30年
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目次
<特集『女性学年報』に寄せて〜歴代編集委員・執筆者・読者から>
- 上野千鶴子、堀川喜子、源淳子、小川かおり、荻野美穂、姫岡とし子、長谷川七重、桂容子、森松佳代、細川祐子、横川寿美子、森理恵、千葉麗、荒木菜穂、河嶋静代、森綾子、黒木雅子ほか
<日本女性学研究会30周年記念「女性学・ジェンダーフォーラムin2007」>
<一般投稿>
- フェミニズムと男女共同参画の間には、暗くて深い河がある/桂 容子
- 総合職経験を持つ大卒専業主婦にみる性別役割意識の変容/石河敦子
- DV被害者支援をおこなう民間シェルターの課題―利用者からの異議申し立てを中心に―/木下直子
- レズビアンのパッシング実践の可能性について/石井香里
- 「産ませること」から「選択的に産ませること」へ―1950年代の受胎調節普及事業・家族計画運動における助産婦への期待―/木村尚子
- 遊廓のなかの女性たちがみた「近代」――1920年代の新聞記事を中心に/山家悠平
投稿論文 要旨
- フェミニズムと男女共同参画の間には、暗くて深い河がある/桂容子
思いのほか長い間、「男女共同参画」という領域で仕事をすることになった。仕事をしながら、どう考えても納得のできない矛盾に何度もつきあたった。が、まわりはその矛盾を気にしていないように見える…。私が間違っているんだろうか、私の感じ方がおかしいんだろうか、何度も自問した。一方で、ふと洩らす私の疑問には、同意してくれる人も結構いた。行政の人ですら、同意見であったりした。たぶん、みんな感じているのだろう。わかっているのだろう。でも、問題化されることはない。何か目に見えないバリアでもあるのか? 私は、そういう「暗黙の…」というものに疎い。空気も読めない。どうせKYで無謀なんだから、この際、言挙げしておこうと思った。
内容は大きく分けて、行政現場で感じる矛盾と、男女共同参画センターに感じる矛盾である。どちらにも通底しているのが、フェミニズムとの距離の遠さである。顔は似ているが、中身は全く違う。むしろ、フェミニズムの隆盛によって、既存社会の秩序が揺るがされることのないように、行政が、程の良い、中産階級の女性向けのセンターをつくってきたのかと勘ぐりたくなるような出来映えであり、現状だ。
バックラッシュばかりが「敵」であるかのような風潮が蔓延しているが、それほど、ここから先がバックラッシュ派だ、というような明確な線は引けない。確かに、明らかに名乗りを上げて看板を掲げて主張する人たちはいる。が、私には、そういう旗印のはっきりした集団よりも、フェミニストを装いながら、あるいは男女共同参画を推進する行政内部にいながら、既存の秩序に従順な人々の方が不気味だ。そういう人々が、なしくずしに、フェミニズムの成果を葬り去る役割を担う気がする。足下から、隣から、侵食は始まっている、という気がする。そういう人たちは、旗幟鮮明ではない。常に、状況を見て態度を決める。権力のある方につく。この人達によって、やがて、事態は転覆される日がくるのではないか。長年、男女共同参画センターは、うかうかしていると、反フェミの拠点になりかねないと危惧してきた。その色合いが、最近はとみに濃くなっているように思う。
本稿では、そのことについての批判を「程よく」書いたつもりなのだが、あるいは、度が過ぎただろうか。今の私には判断がつかない。大きな権威や勢力に、非力で楯突くしんどさと怖さを味わいながらの作業だった。
- 総合職経験を持つ大卒専業主婦にみる性別役割意識の変容/石河敦子
総合職とは1986年の男女雇用機会均等法施行後に企業がとりいれはじめたコース別人事管理制度で設けられた昇進も昇給もある採用枠である。女性が総合職で採用されることは、男性と平等に働く機会が与えられ、男性なみの働き方が期待されることを意味する。高学歴女性は性別役割規範に否定的だといわれるが、実際には専業主婦になる大卒女性は多く、長期キャリア志向を持つことが期待される総合職女性さえ、専業主婦になる。こうした現象は女性たち自身の性別役割意識と関連があるのではないか。本研究では、大卒専業主婦の総合職志向と性別役割意識の関わりを問い直すべく、総合職を経験した大卒専業主婦を対象に、性別役割意識の変容を探った。
インタビューの結果、現在は性別役割規範に肯定的な大卒専業主婦たちが、大学時代に総合職を希望していたからといって性別役割規範には否定的であったとはいえないようだ。質問への抵抗感、記憶の矛盾や曖昧さを考え合わせると、性別役割規範に変容があったとは結論しがたい。出産・育児によるキャリアの中断はやむをえないとする向きもあり、総合職志向は必ずしも継続就業志向を意味しないことがわかる。では彼女たちは一概に腰掛けのつもりで就職したかといえばそうでもなく、大学時代、仕事も家庭もと考える両立志向であったことも明らかになった。彼女たちが専業主婦になったのは、できると思っていた両立ができなかったからだ。両立挫折の背景に彼女たち自身の性別役割規範があった。性別役割規範肯定の主観的根拠としては、育児が女性の仕事であるとの考え、夫が家事に不向きであるとの思い込み、自分より夫が外で働くほうが有利であるとの判断があげられる。社会や職場のジェンダー格差も離職を促した。とくに職場の性差別的慣行は社内での居心地を悪くしたし、会社の育児制度は使いにくく、社会的育児支援が十分ではなかった。
キャリア断念には、自身の価値を認められないなど現在の生活における不満と将来への不安が少なからず伴った。総合職経験にあって専業主婦に欠けるのは社会的評価である。こうした不満を抱える大卒専業主婦たちには、離職による人生的損失を埋めるためにも、社会活動や再就職活動により社会的評価を受ける場が必要だろう。
- DV被害者支援をおこなう民間シェルターの課題―利用者からの異議申し立てを中心に―/木下直子
DV被害者支援の現場では、「同じ女性として」被害者と痛みを分かち合い、連帯しようとする特徴があった。特に民間であれば、無償に近い状況であってもボランタリーな精神で取り組みが行なわれているため、シスターフッドは支援事業の推進力となってきたと考えられる。しかし近年、DV被害者支援を受けた当事者から、民間の支援者に対する異議申し立てがなされるようになった。「二次被害」が問題化されているのだ。それらに対して支援者側からの明確な応答はみられない。
本稿では、異議申し立てをする新しい主張に対し支援者側からの応答が盛り上がらないのは、それらが「善意」の支援者を責めているよう映るため、支援者自身がとまどっていたり、受け止めきれなかったりしているのだと想定する。
そこで、異議申し立ての声を伝えてくるものとして三本の論文を対象に絞り、議論を概観しつつ、要点を整理する。さらに、二〇〇七年に筆者が実施した「シェルター利用満足度調査」の結果も手がかりにすることで、サバイバーの想いを探る。これらにより、議論の活性化につなげることを目的とする。
三本の論文からは重要な視点が提示されており、いずれも具体的な事例を挙げている点で説得力がある。しかし、論理展開の整合性に関して議論の余地のありそうな点や、さらなる実態調査が求められる側面も見られた。
「シェルター利用満足度調査」は小規模な調査ではあるが、利用者に歓迎されていること、違和感を持たれた出来事など双方がわずかに見えてきた。支援が決して「二次被害」を起こすばかりではないことが再度確認できたともいえる。支援という事業の枠組みを超えたところでの感情の触れ合いも捉えることができた。
とはいえ支援-被支援の関係性には、どうしても権力関係が生じる。積極的な是正のための一つの打開策として、民間シェルターのネットワークによる苦情処理制度の構築を提案したい。支援者たちは日々多忙な業務を抱えているが、異議申し立ての声を集約し、反論も含め、応答する必要があるだろう。それらに真摯に向き合うことは、より対等な関係性を探る上で重要になってくるだろう。
すべてのサバイバーの声を聴き届けることは困難であっても、すでに出ている意見と向き合い、痛みを想像し、議論が継続されることを願う。
- レズビアンのパッシング実践の可能性について/石井香里
レズビアンのパッシングとは、レズビアンが異性愛者のふりをすることを指す。全てのレズビアンがパッシングという行為を経験するにもかかわらず、パッシングは単に後ろ向きであるとか、「本当の」レズビアンならばしない行為であると考えられてきた。果たしてレズビアンのパッシングとは本当にそれだけの行為なのだろうかという疑問が本稿の出発点である。パッシングという言葉は決して一般に馴染のある用語ではないので、始めにパッシングの概念と機能について整理した。次に、レズビアン解放運動がカミングアウトを解放戦略の主要な戦略として採用しているために、「隠す」行為であるパッシングはレズビアンの可視化を妨げる行為として考えられてきたことを確認した。
ところで、レズビアンのパッシングの概念定義には諸定義あり、レズビアンのパッシングは複雑な現象である。そしてその実践に対する解釈もまた否定的なもののあれば肯定的なものがある。心理学的な研究においては嘘をつくことからくる罪悪感やストレスが指摘されてきた。また。レズビアンの運動家であるアドリエンヌ・リッチは、レズビアンのパッシングをレズビアン連続体の可能性を破壊する行為であるとして糾弾した。本論ではシェリー・イネスのパッシングに対する前向きな見解に着目し、そこからレズビアンのパッシングの肯定的側面について検討した。パッシングは時に身を守り、公に晒せば破壊されてしまうかもしれない性的なアイデンティティを存続可能にすると考えられる。
パッシングという行為を考察することによって、一枚岩的なレズビアン・アイデンティティは、その流動性と社会構築性が認識されることを指摘した。その上で、同性愛者が可視化した社会において、レズビアンという地に安住することなく、敢えて用語の誤用を促す確信的なパッシング実践こそが、これまで問題視されてこなかった異性愛に目を向けさせることができると考えた。以上のように、レズビアンのパッシング実践には秘められた変革の可能性があるとして論を閉じた。
- 「産ませること」から「選択的に産ませること」へ ―1950年代の受胎調節普及事業・家族計画運動における 助産婦への期待―/木村尚子
子どもを「つくる」とすれば数少なく計画的につくりその子をより良く育てたいという願望は、子どもの将来を願う親、とりわけ母親の愛情や責任から生じる当然の帰結と考えられている。日本でのこのような子どもの質への関心が大衆化し幸福な家族像が平準化するのは、1950年代から60年代にかけてであり、その中で幸福な家族の実現と管理とが女性の役割とされるようになる。本稿は、この時代から現代につながる女性役割の定着と生殖のあり方、そして子どもの質への観点に大きく影響を与えた1950年代の受胎調節普及事業と家族計画運動に着目し、受胎調節指導員としてその運動の推進を担った助産婦に対しどのような期待がされていたのかを考察する。
中心的な史料は月刊誌『助産婦雑誌』や日本産婆会機関誌などで、中でも『助産婦雑誌』は、行政関係者や産科医、助産婦などの執筆者が助産婦の資質向上のための最新の知識を与えることを目的としている。明治期以降その職業的基調を「産ませること」に置いた産婆・助産婦の多くが、戦後の第一次ベビーブームと呼ばれる繁忙期の後は厳しい現実に直面し、生業維持に困窮する助産婦の悲痛な声が多数寄せられる。これに対し行政関係者や産科医、一部の助産婦からは「母性保護」を掲げる政策に身を呈するよう説得が続く。助産婦の苦境が、政策側にとっては安価で即戦的な労働力として運動に動員する好機であったことがわかる。さらに助産婦には、避妊や人工妊娠中絶など「産ませないこと」をもその職域とし、「不良な子孫」の出生排除、すなわち「選択的に産ませること」が期待された。史料には、これに積極的に応じて優生手術対象者の発見に協力する助産婦の手記が見られる。このような助産婦が抱く質への観点とそれにもとづいた選別は、運動の拡大とともに大衆化する。そこで重視されたのは、性の二分化の強調とその役割徹底によって実現する「幸福な家族」の姿であり、その実現のために身体をとおして役割を果たす女性であった。
この時期の一連の運動によって産む/産まないという選択を女性が自覚的に行うようになり、同時にその選択は子どもの質への観点を伴って戦後の新たな秩序としての家族と男女の役割を意味づけた。これは、日本の人口の質と量に関する政策課題が幸福な家族像として個々の生活に浸透し、生殖とその結果としての子どもの質と量への管理が具現化した過程である。1950年代の助産婦への期待は、このような性別役割の徹底と生殖のあり方の平準化を先導し、社会を補完する家族を形成することにあった。
- 遊廓のなかの女性たちがみた「近代」―1920年代の新聞記事を中心に―/山家悠平
一九二六年八月八日の『大阪朝日新聞』には「東京まで走った娼妓廃業/広島に舞戻って」という短い見出しがある。新聞が伝えるのは、二十代後半のふたりの娼妓が広島の遊廓を飛び出し、夜行列車で上京して警視庁に廃業を訴えた、という出来事である。しかし、そのシンプルな「事実」のまわりに、どれだけ語られていない歴史的条件がひそんでいるだろうか。広島の娼妓たちは、だれと話し合って、どんな展望を持って、遊廓から飛び出すことを決めたのだろうか。実のところ、いままでの女性史研究はその問いにはっきりと答えることができなかった。それは研究者たちが事実の究明に不誠実であったということではなくて、そもそも娼妓たちがどのように自分たちの状況をとらえていたのか、という問いがなかったのだ。「後悔したときは時おそく、二度と通常社会に戻れない。なぜなら男の社会は彼女たちの存在を咎めず、存分に利用しながら、しかも自分たちとおなじ人間であることを認めようとしないからである」という『明治女性史』における村上信彦の記述に代表されるように、売春をして生きるということの困難があまりに「自明」であったからである。その悲惨な売春のイメージを大きなフレームとして、これまで遊廓のなかの女性たちの生活史は常に特殊な歴史として、ほかの女性たちの状況から切り離されたものとして記述されてきた。しかし、もし別々のものとして語られてきた歴史を、「近代」という共通の文脈に置きなおしてみたら何が見えてくるだろうか。必要なのは、女優に憧れて汽車に飛び乗った酌婦たちの経験を、あるいは東京の貧民街をさまよった金子ふみ子のまなざしを、遊廓のなかに生きる女性たちの視線や言葉と重ね合わせていくような作業である。この論文では、遊廓のなかの女性たちがみた「近代」を、かの女たちの言葉や行動のなかに、そしてかの女たちと同時代を生きたさまざまな女性たちの視線が交差する場所にさぐりたい。