『女性学年報』第24号内容紹介

特集:再考・女の戦後/小特集:母と子
<本体価格 1900円>

女性学年報24号目次(投稿原稿のみ)
<日本語要約付き>             【購入の申込みはこちらから】

<特集:再考・女の戦後>
「ウーマンリブとメディア」「リブと女性学」の断絶を再考する
       ―1970年秋『朝日新聞』都内版のリブ報道を起点として―………斉藤 正美

ミス・コンテスト批判運動の再検討………西倉 実季

中原淳一の女性像〜あなたがもっと美しくなるために〜………小山 有子

米軍統治下沖縄の出生力転換と生殖の政治学
        〜優生保護法の「廃止」と助産婦の交渉〜………澤田 佳世
  
『わたしの作文』に見る「主婦」と「作文」のパワー
          ―1950〜60年代における『主婦的状況』の一側面―………森 理恵

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自分のことばでかたるということ―女性学における言語使用の社会言語学的分析―………糸魚川 美樹

セクシュアル・マイノリティへのサポートがあっても、
            自らのセクシュアリティを生きることが難しい女たち………小橋 模子

<小特集:母と子>
レズビアン・マザー素描………泪谷 のぞみ

母娘のテーマ・序章―桐野夏生『リアルワールド』を中心に―………藤田 嘉代子

子育てと虐待〜当事者の語りから………玉里 蜜子

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家長・五郎の創造―TVドラマ「北の国から」の結末をめぐって―………横川 寿美子

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<日本語要約・掲載順>

◆「ウーマンリブとメディア」「リブと女性学」の断絶を再考する
       ―1970年秋『朝日新聞』都内版のリブ報道を起点として―………斉藤 正美

 女性学はフェミニズムの課題を解決する方略であり、同時に理論や認識論でもある。にもかかわらず、「リブ運動と女性学の断絶」が語られているのはどうしてなのか。このような疑問からそれに関係している「メディアにからかわれたリブ」言説の再検討を試みる。本稿では、「ウーマンリブ」という記号を産出した1990年『朝日』都内版という言説空間を起点として考察する。
 フェミニズム理論による批判的ディスコース分析とインタビューを取り入れ、かつ未踏査の運動資料にもあたった結果、『朝日』都内版は、嘲笑の対象として取り上げるのではなく、「ウーマンリブ」という「キーワード」をつけたり、運動のビラを掲載するなど工夫して積極的な報道を行い運動を顕在化していたことが判明した。また、多くの女性読者が報道の「呼びかけ」に応え、運動に参加するなど報道は運動の資源となっていたことも明らかになった。
 女性学において「メディアにからかわれたリブ」という言説に長年疑問が持たれなかったということは、女性学がメディアと女性運動を二項対立でとらえる社会理論を無批判に援用し、女性運動を犠牲者化する仮説に依拠していたことを示している。しかしながら、女性学にとって最も重要なのは、「だれのための研究か」、「なんのための研究か」を問うことの方である。 


◆ミス・コンテスト批判運動の再検討………西倉 実季

 本稿の目的は、1980年代終盤から90年代初頭にかけて盛り上がりをみせたミス・コンテスト批判運動の主張を確認し、そのうえでこの運動の限界を検討することである。
 ミスコン批判はおもに、@性の商品化、A性差別、B人権侵害の三つを論拠に展開された。「性の商品化」批判は、男性=選ぶ側/女性=選ばれる側という視線の政治のもとでの女性のモノ化を問題化するものである。「性差別」批判は、ミスコンで評価される「美」はきわめて特定の形の「美」であり、女性の価値がそうした「美」に一元化されることの不当性を告発している。「人権侵害」批判においては、外見で人を評価することが問題視されている。
 ミスコン批判運動が抱えてしまった限界は、「性差別」批判と「人権侵害」批判との混用にある。その結果、「ミスコンは外見で人を判断するからよくない」という主張がフェミニズムのミスコン批判として流通し、様々な反論や違和感を喚起することとなった。
 私たちがミスコン批判から何かを継承できるとすれば、「人権侵害」批判のような道徳的主張に墜ちることなく、ミスコンがなぜ性差別の実践なのかを検討していくことではないだろうか。


◆中原淳一の女性像〜あなたがもっと美しくなるために〜………小山 有子

 中原淳一(なかはら じゅんいち)は昭和期に活躍したアーティストである。彼の業績は挿絵やイラストだけでなく、人形制作、ファッションやインテリアのデザインなど幅広い領域にまたがっている。殊に女性雑誌『それいゆ』や少女雑誌『ひまわり』などを発行し、今なお熱烈なファンに支持され、その人気は若い世代にも広がりつつあるといえる。しかし、彼が読者の女性達に「女性たるもの美しくあるべし」と諭したモラリストとしての一面を持っていたことは広く知れ渡っているにもかかわらず、あまり言及されてこなかった。
 本稿では、今まで見過ごされてきた彼の言説に着目し、『それいゆ』を中心に彼が読者に提示した理想的女性像を検証した。淳一は外見だけでなく、精神的な内面からも古風な「女性らしさ」にこだわる姿勢を女性達へ説いていたが、現代において彼の思想および提示した女性像が支持されることにはこれからも考察が必要ではないかと思われる。


◆米軍統治下沖縄の出生力転換と生殖の政治学
           〜優生保護法の「廃止」と助産婦の交渉〜』………澤田 佳世

 本稿の目的は、米軍統治下沖縄における出生力転換の過程について、ジェンダー/権力構造の視点から探求することである。
 具体的にはまず、戦後沖縄の「過剰人口」を問題視する琉球政府と、軍政安定を脅かす不満分子となる「過剰労働力」を問題視する米軍、両者の異なる「人口問題」の視角に注目し、優生保護法「廃止」の経緯を分析する。次に、時の政治体制に翻弄され、合法的中絶や避妊へのアクセスが制限された沖縄女性の生殖経験と、助産婦たちの家族計画普及にむけた交渉を掘り起こしつつ、日本とは異なる出生力転換と生殖の政治学のありようを考察する。
 本稿では、文字化された歴史史料とともに、当時、優生保護法の立法化に関わった琉球政府関係者や助産婦らの聞取りと生活史料を相互補完的に分析し、女性の生殖を規定する重層的な権力構造を描き出していく。


◆『わたしの作文』に見る「主婦」と「作文」のパワー
    −1950〜60年代における『主婦的状況』の一側面−………森 理恵

 『わたしの作文』という同人誌を紹介し、その時期の「主婦」と「作文」について考察した。この同人誌は1954年から60年代なかばまで、「婦人ペンシル会」という女たちの会が発行したものである。発行のきっかけは月刊誌『婦人朝日』の投稿欄「私の作文」で、ここに投稿していた京都近辺在住の女たちが自分たちで雑誌をつくり、発行したのである。この同人誌はのちに『婦人朝日』と離れ、女が女の経験を女の言葉で語り、女が編集して発行する媒体となった。月に1〜2度例会をもち、お互いに文章を厳しく批評しあい、その結果を掲載していることも特徴である。
 この会の活動から、当時、「主婦」という言葉が、職業や子どもの有無、既婚未婚にかかわらず用いられており、不特定の女たちを結びつける便利な名乗りであったことがわかった。また、それまで「書く」機会も場所もなかった多くの女たちにとって、「作文」がいかに大きな意味を持ったかということがわかり、その活動が社会にあたえた衝撃についても確認できた。以上のことを忘れることなく、今後、「書く女」のひとりとして、私も活動していきたいと思う。


◆自分のことばでかたるということ
  −女性学における言語使用の社会言語学的分析−………糸魚川 美樹

 本稿は、「ある人が意識する/しないを問わず、言語に対してとる態度がどのような意味をもつものであるのかという問題を徹底的に追及しようとする」社会言語学の立場から、「女性学をかたることば」を再検討することを目的としている。特に、「自分のことばでかたること」にこだわり続けてきた本誌『女性学年報』を中心にとりあげ、創刊以来議論されてこなかった英語使用についてその意味を問い直している。
 日本で発行されてる学会誌・研究会誌における英語使用は、その存在理由および政治性を問われることなく広く受け入れられている。しかし、英語使用の自明視には、性役割を自明視するのと類似した権力構造をみることができる。さらに、英語を習得できる女とできない女という形で女たちを分断する。これを不問に付したままの英語使用は、性差別の場合と同様「うまれながらに存在する不平等」を助長する。『年報』をとおして、この慣習化し自明視されている言語的不平等を再考したい。


◆セクシュアル・マイノリティへのサポートがあっても、
   自らのセクシュアリティを生きることが難しい女たち………小橋 模子

 えっ?アメリカにも既婚のレズビアンがいるの?という筆者の素朴な驚きから始まった短いエッセイである。アメリカ、ロサンゼルスのLGBTコミュニティ事情を織り混ぜ、既婚レズビアンについてのドキュメンタリー映画や本を紹介しながら、今日の社会で女が自分のセクシュアリティを探り、それを生きることの難しさを描いている。


◆レズビアン・マザー(素描)………泪谷 のぞみ

 生殖補助技術の登場とともに、いままで無視され、居ないも同然に扱われてきた、「レズビアン」に、にわかに光があてられ、「将来、レズビアンたちは男性との交渉なしで子どもを持つことができるようになる・・」と、ファンタジックに物語られる。しかも、その実、厚労省の生殖補助医療部会は、人工授精を法律上の夫婦に限定し、レズビアンやシングル女性の生殖医療へのアクセスが、封じられている。つまり、一方で当事者でもない人々が、頼みもせぬクローンの子どもを持つ可能性をレズビアンに示唆し、一方でローテクノロジーである人工授精をレズビアンに与えない。「子の福祉」にそむくからというが、いったい、シングル女性/男性、レズビアン/ゲイカップルに育てられる子どもが、幸せになれないなどと、誰が決めたのか。現在の単親家庭へのゆゆしいハラスメントでなくて、なんだろう。いまはただ、情報を集めて、対抗できる力を蓄えたい。そのための、ひとつの習作が今回の文章です。これからも、セクシュアルマイノリティと生殖・子育てにまつわる情報をこつこつと地道に集めていきたいと思っています。


◆母娘のテーマ・序章―桐野夏生『リアルワールド』を中心に―………藤田 嘉代子

 本稿では、桐野夏生『リアルワールド』を母娘関係の視点から論じ、この作品が近代家族の子どもの経験、という新しい研究分野について示唆しているものを考察した。近代家族という経験がわれわれ自身のものとして定着してきた現在、この作品で試みられているような、近代家族の子どもという経験を主題化することが必要ではないだろうか。


◆子育てと虐待〜当事者の語りから………玉里 蜜子

 本稿は、「子育てと虐待」をテーマとした日本女性学研究会の例会で、自分自身の経験から「虐待をする側」の当事者として話したことをきっかけに、この問題について考えたことを述べたものである。まず例会で語った内容を記述し、そこから見えてきたいくつかの問題点について自分なりに勉強して考えたことを整理し、「虐待」問題解決に向けての当事者の立場から見た課題と対応策を提起している。ひとつは、いわゆる「ふつう」の家庭での通常の子育てに伴う「しつけ」的状況における暴力的行為について、どうして何がどう「虐待」と違うのか違わないのかを考えた。またLDなどの軽度発達障害があるいわゆる「育てにくい子ども」の場合の「子育てと虐待」についてや、「虐待する側」の立場から「なぜ」と「どうしたらやめられるか」という問題についても考えた。
 フェミニズムの視点で、当事者性をもって、ということをキーワードに、そして実践につなげるために、これを書いた。


◆家長・五郎の創造―TVドラマ「北の国から」の結末をめぐって―………横川 寿美子

 本稿は、2002年秋に最終回を迎えた「北の国から」(1981年以降随時放映)を、主人公・五郎の自己実現の在りように焦点を当てながら振り返るものである。
 最終回「02遺言」の物語の中心は、一見、五郎の息子・純の結婚にあるように思えるが、見方をかえれば、それは五郎が息子に自分の跡を継がせ、格好の嫁を娶せて同居させるまでの過程でもある。北海道の奥地で自給自足に近い暮らしを送る五郎の晩年が、かくも「家長」的なものであるのはなぜなのか。五郎がずっとこだわってきた「手作り」による家の建築が、最終回で突如「家業」化される経過を追い、彼と純の恋人(=嫁候補)たちとの関係性の変遷をたどることで、彼の男としてのステータスを上げるために、このドラマがどのような策を講じてきたかを考察している。また、純の恋人たちの父親をはじめ、脇役で登場する男たちと五郎とのそれぞれの力関係から、このドラマに内包された権力志向を探っている。