以下は、「週刊金曜日」1998年3月20日(No.211) (Tel:03-3221-8521)
に掲載された記事です。筆者と掲載誌編集部の了承をえましたので、転載します。
なお、誌面掲載時は縦書きです。

コラム「憂楽帳」と「訂正」の虚報で問われる
『毎日新聞』の報道姿勢

姜 恵


 二月四日付『毎日新聞』(以下、『毎日』)夕刊のコラム「憂楽帳」に、学芸部記者の署名入りで「ナヌムの家」という記事が掲載された(次ページ参照)。何度も我が目を疑わざるをえなかったが、記事の内容は最初から最後まで、全て事実無根である。
 記事中で「ナヌムの家・パート2」となっている映画の正式な日本語タイトルは『ナヌムの家U』だ。同作品は前作『ナヌムの家』の公開(一九九六年)に続き、この春から全国で上映がされはじめている作品だが、まず、一月一四日には試写など行われていない。公開以前にBOX東中野(東京都中野区)で試写が開かれたのは、監督と出演者が来日した一月二一日だけである。
 仮に記者が日時を誤認したとしても、当日(一月二一日)は記事が伝えるような観客からの野次など一切なかった。さらに、出演者である元日本軍「慰安婦」女性は上映中、別の場所に待機していたので、会場には誰もいなかった。
 したがって、会場での身の上話など、はじめからあり得ない話なのである。

「訂正」でさらに嘘を重ねる

 このコラムの内容に対して同映画の配給会社が抗議した結果、翌日の『毎日』夕刊に「訂正」が掲載された(次ページ参照)。「確認不足のため」と記事にあるので、確認に基づいて書かれたであろう「訂正」通りにコラムを読み直すと、次のようになるのだろうか。
 一昨年のある試写会場で中年男性二人が野次を飛ばしたが、スクリーンの中の元日本軍「慰安婦」が身の上話を始め、男性はその話を聞いて体をがたがた震わせ会場から出て行った……。
 もし、訂正の段階で『毎日』が事実の確認をしていれば、今回書かれたコラムの内容が事実無根だったことの責任は、記者個人の「確認不足」だけが問われることで終っていたかもしれない。だが、『毎日』は「訂正」を出す段階でも十分な確認をしていなかったようだ。一昨年とは『ナヌムの家』が公開され、劇場公開初日に会場で消火器をまかれる妨害事件があった年だ。しかし、その作品にも、今回の『ナヌムの家U』にも、コラムが伝えた元「慰安婦」女性の身の上話と同じ内容など出てこないのだ。
 これは「訂正」ではなく、嘘の上塗りである。

抗議者に対して「あなたには関係ない」

 コラムに関して、真っ先に抗議をしたのは『ナヌムの家』『ナヌムの家U』両作品の配給を担当した(株)パンドラ代表取締役の中野理惠氏だった。以下は彼女に聞いた話である。
 彼女は紙面を読んだ二月四日夕方から当夜零時過ぎまで、佐藤記者や編集局次長(訂正の担当責任者)と訂正記事の掲載をめぐって電話とファクスのやり取りをした。しかし、電話に出た編集局次長が「社内処理をすればよいことで、あなた(中野氏)には関係ない」と答えるなど、『毎日』側の発言と文章は不信と怒りを増幅させるようなものだった。そこで彼女は、毎日新聞社社長、編集局長、学芸部長の三氏宛てに二月九日、掲載記事と『毎日』側の対応についての質問状を送った。
 質問状の内容は、(1)事実無根の記事を執筆するような記者に、執筆の機会を与えた『毎日』の記者倫理綱領はどうなっているのか、(2)百万部を越える印刷物に事実無根のことが掲載された場合の被害と責任についてどう考えるのか、(3)以上を読者に対しては紙面で、質問者に対しては書面で、誠意ある回答を求める、というものだった。
これに対し、『毎日』の学芸部長から二月十二日付で返信が届いた。
(1)コラムの記事は「新聞記者の<イロハのイ>」の作業を欠いたものであり、その責任は社内の懲罰委員会で審査のうえ処断される。(2)(質問者=中野氏は編集局次長から「あなたには関係ない」と言われたことを質問状に書き添えていたが、その発言事実を否定したうえで)被害が出ないように、責任を明らかにするために掲載したのが「訂正」である。当事者が「訂正記事では済まない」と思う気持ちも推察している。(3)以上を回答とし、読者との関係においては、二月五日付の「訂正」をもって完了していると考える。

 これが「回答」の要旨である。社長、編集局長から反応がなかった点について中野氏が再度問うたところ、記者の直属上司として学芸部長が出したこの書簡が、毎日新聞社からの回答だとのことだった。
『毎日』側が事の重大さを認識していないことは「回答」から分かるが、そもそも記者はなぜ、この「架空の物語」を書いたのだろうか。そして、ジャーナリストとしての最低限のモラルを、どこで、どのように回復するつもりなのだろう。

責任逃れの『毎日』に次々あがる抗議の声

 さらに記者個人の責任に加え、この件を通して毎日新聞社が読者の中に残した不信は大きい。記事が記者の署名入りだとはいえ、問題は記者個人が社内で罰せられれば済むような簡単な問題ではない。
 自社の紙面に嘘を掲載した責任に対し、『毎日』はなぜ社の問題として向き合うことをせず、さらなる嘘を「訂正」記事に重ねたのか。なぜ、自らの報道姿勢を検証し直す機会につなげることができなかったのか。嘘のコラムから嘘の訂正に至るまで、いかなる検討を経たことを根拠に、読者への責任が「完了した」と開き直ることができるのか。今後、読者への信頼をどのように回復しようと考えているのだろうか。
 嘘に気づいた読者が『毎日』の報道姿勢に対して抱える不安や危機感と、毎日新聞社が抱える課題がコインの裏表となってしまったような状況だが、分かりやすいまでに極端な形で現れたこの問題が、『毎日』をはじめとするメディアが自らの報道姿勢を問うきっかけとなることを願いたい。
 こういった問題意識を共有している市民の間で、『毎日』側がこの件について読者への責任を果たす意思がないことが明らかになった時点から、抗議の声があがりはじめている。そして、そのネットワークは今月中にも会として立ち上がるための準備作業にかかっている。
筆者は、本映画の日本語字幕翻訳や監督来日の通訳などを配給会社から依頼されていたため、記事の嘘を見破りやすい立場の読者だった。だが同時に、『毎日』が多くの良心的な記者を抱え、意欲的な報道姿勢を持っているという印象から、同紙には好感を抱いている読者でもある。
 嘘はいけないと教えられた多くの子供は、大人になって、実際の社会が嘘に満ちていることに気がつく。しかし、そのような大人の一人として、例えば筆者が、嘘だらけの世の中に気づいてからも絶望しないでいられるのは、嘘を三度も重ねる人ばかりではないということをも知っているからである。二つの嘘に怒りを感じながらも「三度目の正直」を『毎日』に対して期待する理由は、そこにある。

(かん へじょん・一九六五年生まれ。通訳・翻訳業)