「慰安婦」問題にかかわる言論が、「強制連行アリ/ナシ」とか、「謝罪する/しない」とか、「自虐/自由主義史観」とかの二分類で語られたり、整理されたり、理解されたりすることがはやる中で、どちらの派なのかということばかりに注意が向かい、何を言っても、言っていることの意味が事実や言葉のなかから理解されず、どちらかの陣営の宣伝なのだろうと解釈されてしまうこと。そういう解釈を助長しそのお手本のような「言論」が、ちまたにあふれているときに、その後押しをしてしまうような記事を載せたことで、多くの日本人が、事実として存在する対象に自分から近づいていってものを考える機会を、さらにもう一度うばってしまうという役割を、この『憂楽帳』の記事は果たしてしまったと思います。
わたしは、『慰安婦』問題を見るなかで、今の日本がかかえている思想の貧しさや醜さに、今の日本人が気づき、自分たちがどう変われるかという視点で問題を考えていく必要があると思うようになりました。ここでこれ以上の説明はできませんが、ここで言う、「貧しさ」や「醜さ」への認識を回避し、今の自分たちへの痛みを伴わない気安いイメージで、この問題を「ちょっと感動的」な話へと還元してしまったことの中に、どこまで行っても折り合えない戦後処理問題の解決を妨げている、わたしたちの思考様式の一端を見るような気がしてなりません
秋月康夫