「憂楽帳」の虚報を考える会
(1) 2月4日夕刊のコラム「憂楽帳」の記事が事実無根であること、(2)翌日の「訂正」がさらに新たな虚偽を含んでいること、の2点を確認すること。
(3) ねつ造コラム及び「訂正」が書かれるに至った経過と背景を明らかにすること、
(4)責任者への対応、再発防止と読者からの信頼回復のための行動について見解を明らかにすること。
さらに、(5)以上に対し新聞の紙面上で回答すること、というものでした。
この問題における毎日新聞社の対応窓口となったのは、発端となった記事を執筆した佐藤由紀記者の、当時の上司、奥武則学芸部長でした(4月以降、佐藤記者は配属が変更され、現在は学芸部ではない)。したがって、私たちと毎日新聞社との直接の話し合いは、すべて奥氏との間でなされました。
奥氏は、当会に対する4月23日付書面を通して以下のような主旨を伝えてこられました。;翌2月5日に訂正記事を掲載したが、(当会から)指摘されているようにその「訂正」が「《新たな虚偽を含んでいる》とするならば、新たなに《紙面で応えること》が必要であると思います」。
その後の4月30日、再度の話し合いのため毎日新聞社を訪問した会のメンバーに対して、近々紙面で見解を表明する。その見解表明は奥氏の署名記事になるが、たんなる個人的見解ではなく、毎日新聞社としての回答と考えてもらってよい、という主旨が奥氏より伝えられました。
まず私たちは、毎日新聞社が、申入書(5)の求めに応じ、記事の掲載で対応したこと自体は積極的に評価しています。これは「2月5日の「訂正」で読者への責任は完了した」との認識を示していた先の対応からすると、より読者に歩み寄った姿勢を示したものだったと考えます。
しかし残念なことに、5月8日の記事は私たちの申し入れの半分、しかも、より重要な半分への回答を欠落させていると言わざるを得ません。より重要な半分とは、虚報事件に対する責任を果たすよう求めた(3)(4)に他なりません。「憂楽帳」と「訂正」の虚偽を認めるよう促した(1)(2)は、検証のための前提に過ぎないのです。その前提に言及しただけの記事では、今回の事件を毎日新聞社がどのように受け止めているのかが語られていません。
毎日新聞社が当初よりは前向きな対応を示したにもかかわらず、私たちが5月8日の記事を「検証」として受け止められない理由は、そこにあります。
記事の中には、コラムを執筆した記者の認識の過ちや、「映画の優れた点を端的にしめすものと考えた」という、言わば執筆記者の意図とも取れる内容が述べられていますが、意図が何であれ、存在しない事件を詳細に描写するというのはねつ造です。その「ねつ造」という問題の核心を明言しないまでも、「事件はなかった」と認めるのであるなら、その後の対応や検証について、読者に示す責任が生じるのではないでしょうか。
5月8日の記事からは、「憂楽帳」と「訂正」の虚報によって歪められた映画「ナヌムの家」を原状に復す試みは見受けられます。しかし、検証を伴わない原状復帰の試みを通して、傷ついた信頼が回復されたと言えるのでしょうか。
また、「憂楽帳」の執筆記者は、この件については沈黙を続けています。何が、誰が、その沈黙を許しているのでしょう。その記者が書く新たな記事を安心して読むためにも、何らかの形で口を開いてほしいとの願いがあります。この数ヶ月間の毎日新聞社との対話を通して、毎日側が前向きな方向へと徐々に対応を変化させたことに接してきただけに、その一連の過程を佐藤記者と共有できなかったことを、私たちは残念に思うのです。
新聞社と読者、記者と読者の関係は、一人一人の記者が執筆する記事を通して結ばれています。そのことを踏まえた上で、傷ついた信頼を回復するための課題に向き合っていただきたいものです。