越南珍道中1

岸田研作


 これは今年の3月14日から25日まで僕が弟とともにヴェトナムを旅行したときの記録である。これまでも外国を旅行することはあった。しかし日本に帰り絶え間なく日常の雑事に追い立てられる生活を送っていると、確かに僕に大きな感動を与えたはずの出来事や異国の風変わりな景色に関する記憶の多くは、いつの間にやらその輪郭がぼやけ、あるいは輝きや色彩を失い、いつの間にかのっぺりとした霧の中に飲まれていってしまった。それは目が覚めるまでは現実のこととして露ほども疑いを入れなかったほどの鮮やかな夢が、いったん目を覚ますと急速に失われ、どうしても思い出せないのと似ている。そしてある場面はかなりはっきり思い出せるものの、それがいつどこであったかは分からなかったり、旅行の同行者に旅の思い出を語りかけられても前世の記憶のごとく全く心当たりが無かったりする。

 もちろんあらゆる体験について、牛のように繰り返し繰り返し反芻することなく、むしろ夏の夜に夢幻と咲いては次の瞬間かすかな残像を残しては消えていく大輪の花火のように、その一瞬を味わえば良いという見方もあろう。しかしそれなりに充実していると自負しているものの、僕の日常生活は、研究者という職業柄もあるであろうが、朝起きた瞬間にその日に自分が行うであろう行為のほとんどすべてが分かってしまい、昨日と今日の区別、あるいは一週間前と数ヶ月先の区別さえつかない。僕の日常生活はのっぺらぼうのように無表情ではないが、切っても切っても同じ顔が出てくる金太郎飴に似ている。それ故わずか10日間とはいえ、毎日思わぬ出会いや見たことのない風景・文化に接することが出来たこの刺激的な旅の記憶は忘れ去るにはあまりにも惜しすぎる。それにたとえもう一度ヴェトナムを訪れることがあったとしても、僕の研究室での日常のように全く同じ体験をすることは決してないであろう。さらにこの旅では僕が大学に入って以来久しぶりに弟と過ごすことが出来た。この旅は、意志疎通のレベルはそれほど高くないものの、仲の良いちょっとアホな兄弟の珍道中と言ったものでもある。旅行中弟にはしばしば「外道め!いい加減にしてくれ」(外道:岸田家の用法では「愚かで下品な様」)となげかれることはあったが、お互いよく助け合って旅を乗り切った(と思う)。そしてこの旅では、長らく遠ざかっていた南北問題を久しぶりに考えさせる場面にもしばしば会った。今のところそのことがこれからの僕の生き方にどのような影響を与えるかは定かではないが・・・

 そこで研究の合間を縫って、ここに多少たどたどしくともささやかな旅の記録を記すことには何らかの意義があり、将来これを読み返すことがあれば、それは土産物屋で買ったティー・シャツなどよりはずっと良い記念となって旅での出来事を私に懐かしく思い返させるであろう。さらにこのことは、流されやすい日常生活の中で南北問題への関心を風化させない作用を持つかもしれない。

 しかし最初に断って置くが、これはあくまで旅の間に僕が自分の個人的な体験を記した手記を基にしたものであり、後に自分で読み返せるように(手帳の字はくさび形文字よりも読解が困難である)、あるいはこの手記を読む人がいるとして彼又は彼女らにとって多少意味が分かるように加筆修正したものである。それ故、この旅の記録を読むことで南北問題に関する理解が深まったり、今後ヴェトナムに旅行する人々に役立つ知識が得られるかはさだかではない。また僕にとっては興味深い体験でも読者諸氏にとっては冗長で退屈な記述も多いであろうがご容赦願いたい。

第0日目(3月14日)

 関空を14時30分に発って6時間後、眼下にはゆったりとして異様にぐねぐねとしたサイゴン川が薄墨色の夕闇の中にさらに黒く流れている。細い支流が大気中をビリビリと走る雷のように無数に流れ、サイゴン川は全体として巨大な龍の様である。僕たちは時計を2時間巻き戻し、南ヴェトナム最大の商業都市ホーチミンのタンソンニャット国際空港にやや緊張しながら降り立った。というのも「地球の歩き方」(以下略して「地球」)によると、空港を一歩出たとたん早速僕たち旅行者にとって決して避けることの出来ない最初の試練が待ち受けているはずだからだ。その試練とは、空港から市内に入るタクシーの料金交渉だ。ちゃんとしたメーター・タクシーに乗れば良いが、うっかりすると相場の何倍もの料金をぼったくられるらしい。つまり市内へのタクシーの交渉は、ほとんどあらゆる取引に交渉が必要なこの国を旅行する僕たちのこれからの交渉の幸先を占うものである。

 水色のアオザイ(ベトナムの女性の民族衣装)姿の係員に誘導されて入国の手続きを済ますと空港の出口はすぐそこだ。外に出ると日はすでに落ちているものの、やはり空気はなま暖かい。我々は6時間のフライトで確実に季節を4ヶ月進めた。ヴェトナムは今乾期の終わりで、気温は一年で一番高い。しかし空港で僕たちが感じた夏の夜の熱気は、むしろ柵の後ろで帰国者を歓迎する人々の喧噪や僕たち旅行者を獲得しようと目を走らせるタクシー・ドライバー達によってもたらされたものであったように思う。

 我々は数多くのドライバーのかなり強引な勧誘に会いながら、「地球」の教える通り車体に会社の電話番号が書いてあるメーター・タクシーのひとつに乗った。幸いにもドライバーは私たちが乗って走り出すと、メーターを倒してくれた。とりあえず順調な滑り出しのようである。日本で予約しておいたホテルの近くの中央郵便局を指定し、僕はほっと一息ついて流れる街の風景を観察することにした。道の両側に街灯が続いてるもののすでに7時に近いので建物の輪郭はよく分からない。しかし道は、僕たちのタクシーのまわりを含めてバイクの大洪水である。車はタクシー以外ほとんど見かけない。二人乗り、三人乗りのバイクがほとんど交通ルールなど無きに等しい様子でブンブン走っている。誰一人としてヘルメットをかぶっていない。そしてその間を自転車も走っている。よくこれで事故が起こらないものだ。しばらく観察していて気づいたことだが、この時間帯を走る多くの人は勤め先からの帰宅や何らかの商用で走っているのではないようである。多くの若者の後ろには彼のガール・フレンドであろう女性が乗り、親父さん風の人の後ろにはそのおかみさん、そして二人の間に小さな子供が二人ぐらい挟まっていたりする(まさしくマイカーだ)。何と彼らの多くはどうもバイクに乗って夜の散歩あるいは夕涼みをしているようなのだ!

 見ているとヴェトナム人の日常がそのまま走っているようでかなり面白いのだが、おかげで道はかなり混雑し、タクシーはノロノロ走る。それでも30分ほども経たない中に目的地に着いたようである。料金はドル払いだったが、まあ相場どうりといったところだった。

 僕たちはほっとしてタクシーから荷物を下ろした。ところが降り立っていざあたりを見回すと、どうも自分たちの場所がよく分からない。指定した場所とちょっと違うようである。タクシーは僕たちがキョロキョロしている間に行ってしまったので、僕たちは大通りの中州で立ち往生しながら地図を広げた。しばらく地図とにらめっこをしていると、帽子を目深にかぶりかなりボロボロで汚れた格好をした若い男が僕たちに近づいてきた。彼は大きなしかしほとんど中に何も入っていないと思われるずた袋を引きづりながら「オテール!オテール!」と呼びかけてきた。どうも「ホテル」の勧誘のようである。僕たちはすでにホテルを予約していたし、予想外に自分たちの現在地が分からなかったので、余計な面倒に巻き込まれたくなく無視していた。しかし彼は「オテール!、オテール!」と繰り返し、僕たちから離れようとしない。そして彼が一瞬僕に近づいたかと思うと、ギャッと僕の手から腕時計をちぎり取ろうとし、逃げていった。まさしく一瞬のことで、次の瞬間僕の頭にカッと熱い血が昇り、同時に背筋がぞっとした。幸いにも腕時計はしっかりはめてあったので取られなかった。男はときどきこちらをふりかえりながら遠ざかりやがてバイクの洪水の中に消えていった。手首には爪の後がくっきり残り血がにじんできた。この出来事で僕たちの緊張は一気に高まった。僕たちは、さっきまでのんきに見ていた街の風景が、実は安全なグラス・ボートから海中を眺めている時の光景と同じようなものであり、実際に見知らぬ夜の街を歩くことが予想外に危険と緊張を迫られるものであることを思い知らされた。

 やがて地図上での僕たちの場所が確認できた。思っていた場所ではないものの予約していたホテルとそれほど離れているわけではない。少しほっとしてあたりを慎重にうかがいながら歩き出す。歩道を歩いていると物売りの子供達が次々と寄ってきて絵はがきなどを売ろうとしたり、シクロと呼ばれる人力車が声を掛けてくるが、一切無視して道を急いだ。子供もシクロも断ってもかなりしつこい。先の一件のおかげで、声を掛けてくる誰もが怪しく思われとにかく一刻も早くホテルで落ち着きたかった。まだ開いている商店やのんびり夕涼みしながら食事をしたり寝椅子に座っている人々がいたが、じっくりと眺める余裕は到底無かった。

 やっとホテル・ボンセン(日本の旅行会社を通じて予約しておいた中級ホテル)に着いたとき僕たちは安堵と歓喜ではち切れんばかりであった。ところが僕たちの喜びはホテルの従業員の一言で蜃気楼のように消えてしまった。彼によると僕たちが泊まるホテルはボンセン・第二ホテルだと言うのだ。「何〜?そんなん聞いてないがなあ!」幸い近くだというのだが・・・僕たちは倍加された疲労感を背負って再び夜の街を歩き始めた。そしてお約束通り、近くだという第二ホテルがなかなか見つからない。ぐるぐる歩き回るがよく分からず困って立ち止まると、俺はホテルの従業員だという明らかにそうでない男が何人もつきまといシクロやバイクに乗れとしつこく誘う。そして物売りの子供がわらわら寄ってくる。困っているのにまともに道を聞ける相手もいない。かなりイライラしながら歩いていると、実はかなり第一ホテルと近いところに第二ホテルを見つけた。

 ホテルの自分たちの部屋に入ってベッドに寝転がると、見知らぬホテルの一室でこれほど安堵感を覚えるものかと我ながら驚かされた。もうホテルはおろか、部屋からさえ一歩も出る気は無かった。弟も同じだった。その晩僕たちは世間知らずで怯えた羊の様な目をしていただろう。普段なら決して手をつけない部屋に備え付けてある冷蔵庫のビールをぐぐっと飲んで、これからの旅の行く末を案じながら眠りについた。夕食は取っていなかったがもうどうでも良かった。  

第1日目(3月15日)

 さすがに腹が減っていたので、僕たちはホテルの朝食をがつがつ食った。それほど豪勢ではないがフランス・パンがうまかった。昨日はさんざんだったが、さあ今日は気分を一転頑張るぞ!

 ベトナム空港のオフィスでリコンファームを済ませ、中央郵便局に立ち寄ると、今度はホーチミン最大のベンタイン市場に向かう。街は昨夜と同様バイクの洪水だ。交通ルールは無きに等しく、信号でさえ目安でしかない。赤になってもバイクの群は横断し続け、進行方向が青になったバイクの群が走り出すと、交差点はもう訳が分からなくなる。誰が誰に対して鳴らしているのか分からないほどやたらとクラクションが鳴らされ、かなりうるさい。ホチーチミンの街はガラス張りの高いビルが立ち並んだり派手な歓楽街があるわけではなく、大きなデパートなどもほとんど無い。コンクリートの建物は塗装が剥げて傷んでいるものが多い。しかし忙しげに人々が行き交いひしめきあっているこのエネルギッシュな空間はやはり大都会だ。

 僕たちが通りを横断するのに少し難儀していると、にこにこしたアイスクリームの屋台を押した小柄なおじさんが一緒に渡ってくれた。アイスを勧められたが、別に食べたくなかったので断った。それに見ず知らずの人の好意はやたらと信じるべきではないだろう。しかし彼はアイスを二つ盛ると弟の手に強引に押しつけ、にこにこしたまま僕たちの進行方向とは全く別の方向に手を振りながら去っていった。僕たちはアイスを彼の好意と解釈して食べるべきか道ばたに置いていくべきか思案した。そして結局歩きながらアイスを食べることにした。彼の意図はなお不明なものの、僕たちの進行方向とは全く違う方向に去って行った彼と再び顔を合わせるとは思えなかったからだ。弟はアイス屋さんが仲の良い東洋人の兄弟を見て好意的なプレゼントをくれたのだろと言った。僕は必ずしもそう思った訳ではないが、藤田が山岳の少数民族の高校生から受けた好意を何となく思い出し、内心うれしく思いながらアイスを食べ食べ歩いた。日本に帰ったらこのエピソードを藤田に話してやろう。ところがいくらも歩かない中にいつの間にやら僕たちの後ろからさっきのアイス屋のおじさんが追いかけてきた。しかしさっきのにこにこ顔は全く失せ猛禽類のようなするどい顔つきになっている。そして僕たちに一人5万ドンを払えと迫ってきた。5万ドン!日本円にして約500円(この旅行中私たちは主に屋台で食事をするが、いくら高くても飲み物を入れて一食二人合わせても3万ドン前後である)。この卑劣な行いに対し僕たちはもちろん抗議をするが相手は頑として聞き入れない。弟は逃げようと言い、僕は相手を殴り倒したい衝動に駆られた。しかし敢えて相手の言い値のまま払うことにした。かなり腹がたったが自分の軽率さに対する戒めだった。そして払い終わった瞬間、僕たちは昨日のこともあり人を信じるという感情を全く無くしていた。恐らく僕たち旅行者があまりにもお金を持ちすぎているのが悪いのだろう。もともとの経済の発展状況に加えこの為替レートの差である。そしてヴェトナム人の生活は確かに貧しい。藤田が受けた好意は幸運な偶然と彼の熱心な語学熱(彼は数ヶ月間難解なヴェトナム度語の修得に励んだ)の賜だったのだろう。僕は心の中で自分を納得させたが、この街では僕たち旅行者がヴェトナム人にとって大金のつまった歩く財布でしかなく、彼らは何とか隙を窺い金をかすめ取ろうとしているように思われとても寂しく感じた。これまでもスタディー・ツアーでフィリピンに行ったり、親とタイに行ったりしたこともあったが、このように寂しくむなしい思いをしたのは初めてだった。絵はがきを売りの子供達がまた寄ってきたが、その愛くるしい笑顔にも貧しさにももはや何も感じなかった。

 次に僕たちが訪れたのは戦争証跡博物館だった。ここにはヴェトナム戦争で使用された戦車や飛行機、そして写真パネルなどが展示されていた。中に入ると街の喧噪から解放された。多くの外国人がここを訪れるはずだが、ほとんどヴェトナム語の解説だけである。しかし写真パネルは戦争の残虐さを生々しく伝え、白黒だが思わず目を背けたくなるほどのものもある。アメリカ兵は農村を包囲し、解放軍の食料になるからと穀物を焼き払った。破裂して無数の弾丸となって肉に食い込むボール爆弾を見て、弟が「これを発明した人は罪だなあ。」と言った。僕たちはヴェトナム人に親しみを感じなかったが、それでも「戦争が人間の行いの中で最も醜くいものである」という沖縄の戦争博物館で見た言葉を思い出し、改めてその言葉の正しさを実感させられた。ヴェトナムはアメリカに勝利して統一を果たした、とどの本にも書いてある。しかしそれは何という大きな犠牲の上に勝ち取られた勝利だろう。新聞で時々アメリカのMIA(ヴェトナム戦争での行方不明者)の確認がアメリカとヴェトナムの間で外交問題となっていることが報道されているが、死者の数はアメリカが軍人6万人に満たないのに対し、ヴェトナム側は500万人以上に達し、もちろんその多くは民間人なのだ!街では地雷で足を吹っ飛ばされた人を始め、戦争の後遺症を持つ人を多く見かける。ただでさえ定職に着くことが難しいこの国で、彼らの多くは失業している。政府の補償もあるが、国全体が貧しいのでとても十分な水準ではない。ストリート・チルドレンもそうだが、彼らにお金をせがまれるとかなりつらい。

 館を出て市場に向かう。そしてベンタイン市場で飯を食うと、明日参加するミニツアーの予約をするためシン・カフェという名のカフェを目指して再び歩き出す。市場ではやたらと声を掛けられ気疲れした。他の欧米人と比べても僕たちはかなりよく声を掛けられように思う。日本人はお人好しで金を持っていると思っているのだろうか?そう思うと僕たちのイライラはさらにつのった。気温はかなり暑いが湿度が低いのだろうか、意外にも京都の真夏と比べるとずっと過ごしやすい。二人とも体力にはそこそこ自信があったので交渉がかなりめんどくさそうなシクロを敬遠しひたすら歩く。 

ところが大きなロータリーを過ぎたあたりから道が怪しくなる。僕たちは日にあぶられながら勘を頼りに歩いた。方向として間違っていないはずだ。そうしている中に、僕たちの前に本日最大の試練が二人の幼い兄弟の姿をとって現れた。そして私たちに一枚の紙のカードを示しながら、「チープ ホテル、タカイ、ヤスイ!」と叫び始めた。ホテルの勧誘らしい。彼らがあまりに貧しそうな格好だったので僕たちは気の毒に思った。しかし、こちらから頼んでもいないのに片言の日本語でしゃべりかけてくる奴ほど怪しい奴はいない。まだ日は高かったし、訳の分からないホテルの勧誘などされても困ってしまう。僕達はもちろん断った。ところが彼らは決して僕たちから離れずしつこくどこまでもついてくるのである。そして「チープ ホテル。タカイ、ヤスイ!」を叫び続けるのだ。そのしつこさは並大抵のものではない。普通の物売りの子供なら数十メートルも歩けば離れるものだが、彼らは何キロもついてくる。僕たちは自分たちの歩いている道がよく分からないので、時々立ち止まって道路の名前と地図を見比べて現在位置を割り出そうとするが、少しでも立ち止まると子供が断っても断ってもまとわりつき、それに加えてお節介なシクロのおっさんが、乗ってけ、乗ってけ!とうるさい。立ち止まることもままならない。僕たちは道が良く分からないので、同じ横断歩道を何度も何度も横断したりした。それに合わせて子供達も何度も横断歩道を往復する。それほど今日はきつくない予定だと思っていたが悪霊のようにつきまとう子供らに僕たちの体力と精神力は砂地に水がしみ込むようにどんどん失われていった。そして信じられないことだが、いつの間にか彼らのお母さんとおぼしき女性まで勧誘に加わりだした!「神よ、我を助けたまえ!」。

 やっとこさシン・カフェの近くにたどり着いて喫茶店を見つけたとき、僕たちはそれがまさしく砂漠のオアシスに見えた。シン・カフェはタイのカオサン通りのような外国人旅行者が集まる地域にある。喫茶店はアメリカ人好みの雰囲気だった。まるで入り口に魔除けの護符が張ってあるように子供達は中に入って来れない。とにかく疲れた。しかし安心するのはまだ早い。子供とその母親は店の入り口で僕たちの出るのを待っているのだ。ほとんど理解できないしつこさだ。僕たちはへたりこんでオレンジ・ジュースを飲んだ。ちょっと一息ついて体制を立て直さないと。ところが事態はあっけなく、しかも極めて意外な結末を迎えることになったのだ!僕たちがへたばっているテーブルに無精ひげを生やした、髪もぼさぼさの日本語を話す青年がやってきた。なんじゃこいつは?と思うが、彼は外の子供に頼まれて来たという。???どうやら日本人らしい(実際しばらく話すと彼は明らかに日本人、それも観光客だった)。彼によると外の子供の勧めるホテルは、本当に安くてしかも良いホテルだと言う。そして彼もそこに泊まっているらしい。子供は客をホテルに連れてくるともらえるチップが目当てだそうだ。僕らは顔を見合わせるが、しばらく考えた末、疑心暗鬼ながらそのホテルをとりあえず見に行くことにした。というのも子供達をいつ振り切れるか分からないし、まさか日本人がヴェトナム人に雇われるとは、両者の経済力の格差を考慮すると考えにくい。ホテルはその喫茶店からかなり近所にあった。やっと子供達がこれほどしつこかった訳の理由が少し分かった。実は最初に僕たちは彼らに自分たちがシン・カフェに行くと告げていたので、彼らとしてはどうしてもシン・カフェ近くにある彼らのホテルに僕たちを連れていきたかったのだろう。そして驚くべきことにホテルは本当に安くて(ツインで10ドル)、エアコン、冷蔵庫つきの良いホテルだったのだ。おまけに宿の青年は、少しはにかみやさんのとても感じの良い人だった。僕たちは自分たちが100回くらい断ったホテルに喜んで泊まることになったのだ!なんたる皮肉。信じたアイスクリーム屋に裏切られ、疑い続けた子供達の勧めが正しかったとは!

 チェック・インを済ませた後、まだ3時過ぎだったので僕たちはメーター・タクシーに乗って市内のお寺に出かけることにした。ガイド・ブックに大きく乗っている南部最大の寺、ヴィンギエム寺は人混みがかなりすごいであろうと思い、ヤック・ラム寺に行くことにする。弟が「タクシーの中からだと街を落ち着いて見れるな。」と言ったが、全く同感だった。ヤック・ラム寺はホーチミン最古の寺だそうで、内部は古い調度とともに歴代の僧の肖像画や遺影がずらりと並ぶ。遺影の額縁の飾りが金の蝙蝠だったのが意外で印象に残った。中は街の喧噪から隔絶され、僕たちは随分くつろいだ。そして寺の中をぶらぶら歩きながらこの国に来てからのことを振り返った。僕たちがこの国に来て日は浅く、不幸な偶然の連続であろうか、まだそれほど楽しい思いをしていない。それどころか、はっきり言って不愉快なことの方が圧倒的に多く、この旅行が終わった時点で何ら自分たちに楽しい思い出が残るかかなり心配であった。しかしある一点に関しては僕は心が打たれることがあった。それは僕たち日本人が失いつつあるある種の生命力をヴェトナム人が持っていることだ。この街の失業率は高く人々の生活は貧しい。そのおかげで僕たち旅行者は時には強引な勧誘やだまし討ちにあって嫌気がさしたりもするのだが、街では誰も唯下をうつむいてうなだれている者はない。みんな何とかして少しでもお金を稼いで、今日の糧を得て、そして少しでも豊かになろうとしている。僕たちにしつこくつきまとった幼い兄弟がホテルの勧誘でもらったチップはかなりささいなものだろう。しかし彼らはそれを得るために決して引き下がらずくらいついてきた。それに比べて僕たち日本人は文化的貧血症とでもいうようなものに侵されつつあるように思う。ここしばらく僕の心を暗くしている出来事のひとつに友人がオウム真理教に入ってしまったことがある。彼とはそれほど親しかったわけではないが、あのおぞましい一連の事件を起こしたオウムに今になって入るとは・・・彼が何故異教の世界に下りていったのかは分からない。しかしそれは明らかに彼が何かに絶望したからであろう。生きる力が急速に弱くなったのに違いない。それは僕にとって全く無関係なことではない。今、僕は自分の関心と適正にあった(少なくとも今のところ)仕事につき、優しい恋人に恵まれて、生まれて一番充実した日々を送っていると確信している。ところがそれにも関わらず、極めてまれであるが、僕は大した訳も無いのに無性に世の中のあらゆることが虚しく絶望的に感じられるときがある。そんなとき僕の胸には黒い風がびょょー、びょょーと吹いて、自分の魂が軽く薄くなるのを感じる。しかしヴェトナムの人々を見ると、僕やその他の日本人が時折見せるひ弱さをぜんぜん感じさせない。確かに彼らのあまりにも洗練されないやり方は見方によれば猛烈な拝金主義であり、それがたとえ貧しさからくるものだとしても、人のあるべき姿(そんなものがあったとして)とは思えない。それでも彼らの生きようとする意欲は非常に強く、極めて健全であるように思われる。僕の目の前で今娘さんとおばあさんがお祈りをしている。神妙な様子で、仏像の前で30センチ以上もあるお線香を頭の上に掲げ何度も頭を下げて祈っている。何を祈ってるかは分からない。しかし彼女らの祈っていることは、弱々しく震える魂の救済や形而上的な信仰のあり方ではないだろう。むしろ少しでも暮らし向きが良くなりますように、とか、病気のお父さんが早く良くなるますようにといった風な具体的で実際の生活により密着したものだろう。この国で飢えでばたばた人が死ぬようなことがあるのかはよく分からない。それでも、恐らく日本人よりも病気や事故で死ぬ人の割合は高いであろう。平均寿命もかなり短いかもしれない。しかし人の生きる価値がその人の生きたいという意欲によって測られるとしたら、僕より葉書売りの子供の方が生きる価値があるのかもしれない。

 夕飯は近くの大衆食堂で食う。豚の角煮が旨い。ヴェトナムでは一食の食べる量はそれほど大量では無かったが、食べるときはかなりがつがつ食べてしまう。その夜、僕たちはよほど疲れたのであろう。まるまる10時間も寝てしまった!

 

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