深川博志(京大医3)
医学部生ですと自己紹介すると、半分くらいの人は、「え、じゃあ、解剖やるんですか(*1)」と聞いてくる。私は今年4月末〜7月はじめにかけて、週4回、午後1時〜6時すぎに解剖実習をやった。以下、実習を通して思ったことなど。
(*1) 人間の苦しみを理解しつつも、一時の感情に惑わされず、科学的・合理的に問題に対処する。あるいは、自然の情を失い、患者を機械として扱い、カネと権力のためには手段を惜しまない。そんな医者に対するイメージの一端は、普通の人には許されない「解剖実習」からくるのかもしれない。
医学部のカリキュラムを簡単に説明する。1・2回生で一般教養、3・4回生で基礎医学(*2)、5・6回生で臨床医学を学ぶ。基礎医学は文字通り、医療を行う上での基礎となる分野であり、解剖学をはじめ、生化学、生理学、病理学、薬理学などがある。臨床医学は、普通に想像する「医学部での勉強」であり、内科、外科をはじめ、病院内の掲示板で目にするであろう診療科を全て一通り習う。
一時期騒がれた早期専門教育(*3)のため(そして私立大学では医師国家試験対策に時間を割くためもあってか)、全体として前倒し傾向にあるが、大枠は以上のとおりである。
また、日本のみならず、多くの国でもだいたいこのようなカリキュラムになっている(*4)。
晴れて全課程を修了すると、卒業試験があり、3月末に医師国家試験がある(*5)。
(*2) 基礎医学から独立させて、社会医学を3つ目の分野として付け加えることもある。日本では、衛生学・公衆衛生学、法医学の2教室しかないことが多い。時代に遅れがちな医療業界でも最近はやりだした、国際保健やEvidence Based Medicine(根拠に基づく医療。これまでの医療が根拠に基づいていなかったわけではない。しかしここでいう根拠とは、これまで臨床であまり重視されてこなかった、二重盲検法による比較対象試験や大規模追跡調査など、統計的手法によるものをさす)も、ここに入る。
(*3) 東北大では入学直後に解剖実習を行う。京大でも、生化学は2回生で学ぶ。しかし、医者としての知識も雰囲気も身についていないこの時期にやることとして、適切かどうか。たとえば、看護実習等でコ・メディカルの仕事を体験してはどうか。医者以外の視点から医療現場を見るのは、この先ほとんどないから。
(*4) アメリカ合州国は例外で、学部卒業後、基礎医学と臨床医学を2年間ずつ学ぶ。大学院のようなもの。
(*5) 法律上は、医師免許さえあればどの科目の診療をしてもいいことになっている。実際は、就職時に専門とする科目を決める場合が多い。
人間を切り刻むなんて気味の悪いことはとても私にはできない、やはり医学部生は特殊だ、だいたい死体を目の前にしただけで卒倒してしまう、という声を何回か聞いた。
私だって、3号boxに入って死体があったら、とりあえずギョッとするだろう。しかし、実習室に入るたびにギョッとしていたのでは、仕事にならない。で、どうしたか(*6)。
一番大きいのは、慣れである。初めて経験する事態には誰もが戸惑うが、何度も繰り返すうちにそれは日常となり、何とも思わなくなる。最初の実習では、皆メスを入れるのに躊躇していたものだ。
もう一つは、自分なりの儀式を作ることである。京大の解剖センターは、1階に更衣室があり、地下に実習室(*7)がある。センターに入り、更衣室で白衣に着替え、階段を下り、実習室の扉を開け、その日の実習の要点を聞き、ご遺体に黙祷し…という、毎日繰り返される、何気ない行動を通じて、「今日も解剖をするんだ」という意識(*8)が高まった。
ただこうしたことは、実習をやっていた当時はあまり意識することはなかった。解剖実習は、要するに血管・神経・筋肉の同定の繰り返しなのであるが、これがなかなか大変なのである。実習中にいちいち教科書を開ける暇はない。だから自分の頭の中で、○○動脈はどこを通って、その周りには××筋と△△筋があって…ということをイメージできなくてはならない。ところが私は人体についてなにも知らなかったうえ(*9)、2次元情報から3次元情報を組み立てるのが大の苦手ときている。精神的にかなり疲れた。
また、午後ずっと立ちっぱなしで、蒸発する防腐剤の下で作業すること自体、肉体的にもかなり疲れるものだった。
(*6) ヒトの死体を見て触るのは、今回が生まれて初めてであった。初めて死を看取るのは、ほぼ間違いなく、医者としてになる。もちろん肉親の死を期待しているわけではないが、それにしても、ひどく人生を損している気がする。それらはあくまでも、人間ではなくヒトの死/死体でしかないのだから。
(*7) 地下といっても地面は掘り下げてあるので、密閉されているわけではない。
(*8) その意識には、与えられた課題をともかくこなさなければならないという思いも、きちんと学ばなくてはご遺体に対して失礼だという思いも、感情を切り離して遺体を客観視するという思いも含まれていた。
(*9) 全てのページが初めて聞く単語で埋め尽くされた本を読むのは、相当な苦行であった。
私は2回生のときから、友達2人(*10)と勉強会をやっている。解剖学は医学を学んでいく上でとても大切な科目なので、相当熱心にやった(*11)。
友達の一人は、昔から医者になりたくて、今は思う存分医学の勉強ができて嬉しくてしかたがないという人。もう一人は、人の輪のなかにいることが好きで、人を幸せにする手段として医療を学びたいという人。そんな人達だから、知識も情熱も、私の及ぶところではない。彼らと連日一緒に過ごして、劣等感が刺激されないほうが不思議である。
実習も勉強会もなかった(だけど授業はあったはずの)よく晴れた日の午後、突然思い立って、ひとり映画館に行った。心を鎮めるために、涙を流したかった。あそこまで追い詰められたのは、久しぶりだった。
劣等感だけではない。それを契機に、それまで先送りしてきた、この先何をしたいのかという問題が吹き返したから。そもそも、明確な理由があって医学部に来たわけではない(*12)し、職業選択に直結していることを深く考えたわけでもなかった。
本当に医者でいいのか。ほかにもっとふさわしい道があるのではないか。そんなことを悩んでいた。
結論は、そう大したものではない―――医者が自分にとって一番幸せな道かどうかは分からないが、やりがいのある、意味ある仕事だ。政治や社会に関心があることは確かなのだから、これからどうするにせよ、そのこと自体は忘れないようにしよう。
解剖実習は通過儀礼だという(*13)。多くの人は、そこで医学部生としてのアイデンティティを確立する。私も「多くの人」の一人だった。
(*10) 彼らにはとても感謝している。実習時の彼らの支えなしには、今の私はありえなかった。
(*11) 実習開始から、実習が終わりに近づいた6月末まで、勉強会をやらなかったのは5月4日と5日だけだった。これほど熱心にやったために、後述する通り、精神的に追い詰められたのかもしれない。私は、よくいえばバランスをとろうとする、悪くいえば一つのことに没頭できない傾向があるからだ。
(*12) 強いて言えば、自分の得た知識を社会に還元するのに、一番手っ取り早いと思ったから。しかし医者に今ほどの社会的地位が与えられておらず、周囲がこぞって反対したら、来なかっただろう。
(*13) ついでながら、医学部生の多くは「勉強ができない」「患者さんとうまく意思疎通できない」ことに悩むらしい。前者についてはもう開き直った。深川に好意を抱いている人は、後者について、病院実習が始まる5回生の10月に励ましのメールをくれると、結構ポイントを稼げるかも。
解剖実習が終わって、十人くらいが一斉に風邪を引いた。実習室に夜遅くまで残ることの多かった、おなじみのメンバーである(*14)。実習中は皆それなりに大変だったし緊張していたんだと分かって、少しほっとした。上だけを見つづけるのは、疲れる。
(*14) あれだけ同じ時間を一緒に過ごすと、皆の性格がわかってくる。そして、緩やかな連帯感も出てくる。今のところ、試験対策にしか発揮されていないが。
偏差値の高い人を一堂に集めることに世の批判は多く、わが身を省みても胸を張って反論できないのだが、メリットもあることに気付いた。
医学部生の多くは、試験の成績を(結局は)有力な評価基準とする学校社会で、トップだった人々である。勉強に関しては、(表面的にはともかく)それなりの自負を持っている。そういう人を一箇所に集めるとどうなるか。やはりその内部で、(勉強という基準での)序列が決まり、多くの人はトップではなくなる。挫折を経験したことのない人にとって、これは貴重な体験であろう。「こんな簡単な問題も解けないのかと馬鹿にすることさえあったが、解剖実習を通じて、数学を理解できない人の苦しみがわかった」と言う人もいた。
人の苦しみの分からない人間を入学させたこと自体が間違っているといわれそうだ。では、どうするか。偏差値の低いほうから入れるか。くじ引きにするか。そもそも、医療に何をどこまで求めるのか。
「構造は機能を現す」という説がある。大動脈壁が弾力に富んで厚いのに対し、静脈壁が薄っぺらいのは、前者が大きな圧力/圧力差に耐える必要があるのに対し、後者にその必要がないからともいえる。「なんでこれがこんなところにこんな形であるんだろう」と考えると、無味乾燥な解剖の勉強も、少しは楽しくなる。で、昔からの疑問でいまだにいい答えを見出せないのが、
霊長類の指はなぜ5本か、4本や6本では不都合があるのか
これは懸賞問題。筆者を楽しませてくれる解答をお願いします。
解剖実習で使うご遺体は、全て生前の本人の意志により献体していただいたものです。京大医学部への献体に関しては、京大白菊会(*15)で対応しています。献体していただいても、本人やその家族に直接的なメリットはありませんが、医学教育のために協力したいという方は、どうぞ。ご遺体は白菊会で焼却して遺骨を返還するとともに、毎年10月、解剖体祭と称して慰霊祭を行っています。
最後に、献体していただいた皆様に感謝し、ご冥福をお祈りします。
(*15) 他の大学医学部/医科大学にも、類似の組織がある。