在日朝鮮人と民族学校そして京都大学

片田 孫 朝日


 京大の周辺をぶらぶらしていると、一風変わった感じの制服を着た女学生を目にすることがある。白あるいは紺の着物風の上着と、腰の上の方で留められている丈の長いスカート。それは、朝鮮の伝統的な服装であるチマ・チョゴリの制服であり、彼女たちが通っている学校が、いわゆる民族学校である(注1)。以下の文章では、まず民族学校というものについて簡単に紹介し、次にこの学校に対する、日本政府や京都大学の嫌がらせについても伝えていきたい。

 現在、民族学校は、京都にいくつかあるものを含め、日本中に150校ほど存在する。そこでは、およそ2万人の在日朝鮮人が、英語や理科などの科目とともに、朝鮮語や朝鮮の歴史を学んでいる。民族学校は、普通学校と同じく6・3・3・4制の学制をしいており、大学は東京に1校だけある。

 民族学校の教育科目は、普通学校のそれとたいして変わらない。ただし、授業中に使われる言葉は朝鮮語である(「日本語」の科目だけは、日本語で授業が行われる)。生徒たちは学校に入り立てのころ、苦労して朝鮮語を覚え、学校の中では原則として朝鮮語を使う。また、音楽の授業で、朝鮮の伝統的な楽器を使ったり、社会の授業で朝鮮の歴史を学んだりもする。戦後間もない頃の、もともとの出発点において、民族教育は遠くない将来に朝鮮に帰るための準備という意味が多分に含まれていたが、50年後の今日では、その位置づけも当然のことながら変わってきている。日本での生活がこれからも続いていくことを前提に、社会の授業では、朝鮮の歴史や地理に加えて、在日朝鮮人の歴史や日本史・日本地理などの内容が、いっそう量を増している。

 朝鮮語や朝鮮の歴史を学ぶ場として、民族学校のほかに、民族学級を挙げることができる。在日朝鮮人が集住している大阪には、普通学校の中に特別にもうけられた民族学級が80ほど存在し、課外の授業に民族教育をおこなっている。

 

 ところで、在日朝鮮人が、そもそもどういう人たちなのかを知らない人のために、それを簡単に紹介しよう。在日朝鮮人というのは、読んで字のごとく日本に住んでいる朝鮮人のことだが、その起源は朝鮮の植民地時代にさかのぼる。1910年以降、朝鮮総督府による植民地政策は、農村で生活できない膨大な数の人間を生み出し、その結果、土地から切り離された農民が、職を求めて都市や国外へと流出していった。当時、内地と呼ばれていた日本にも植民地時代を通じて400万人を下らない労働者が流入したと推定されている。ぼくの祖父も、兄と連れだって12才で、釜山から下関に渡ってきたひとりである。一般に出稼ぎ労働者は、短期で故郷へと帰っていく単身・男性の者が多かったが、彼らが外地(朝鮮)に住む家族を呼び寄せたり、最初から家族ぐるみで渡ってきたりして、内地に生活の中心が移るケースもあった。これらの出稼ぎ労働者を、ひとまず「自主的に」渡日した人間と呼ぼう。よく知られているように、39年以降には、「強制的に」内地へ連れてこられた人間も100万人を下らないと言われている。これらの「自主的」「強制的」に渡日した朝鮮人の中で、帝国の敗戦後に帰郷しなかった(あるいは、できなかった)人たちとその子孫が、いわゆる在日朝鮮人である(現在、在日朝鮮人の数は、朝鮮・韓国・日本国籍あわせて90万人ほどだと思う)。

 植民地時代すでに、内地で生まれた子供の中には、親の話す「くずれた」日本語を母語とし、朝鮮語を話せないケースも珍しくなかった(言うまでもなく、朝鮮語を学ぶことは禁止されていた)。戦後も50年以上たった現在、朝鮮語を母語として生まれてくる在日朝鮮人は、ゼロといって間違いない。ぼくは、自分の家でも、祖父母の家でも、朝鮮語が話されているのを聞いた覚えさえない。だからそういう世代の人間にとって、民族学校は、朝鮮語や朝鮮の歴史を学ぶ貴重な場である(と言っても、子供が自主的に普通学校をけって民族学校を選ぶというより、親の意向で決まることが多いのだろうが)。

 民族学校に通っている生徒の数は、学校に通う在日朝鮮人全体の中で見ると1割ほどにすぎない。つまり、ぼくを含め大部分の「在日」が、普通学校に通っていることになる。 ぼくは、全ての在日朝鮮人が、朝鮮人である以上、普通学校(つまり大和民族学校)でなく、朝鮮民族学校に通うべきだとは思わない。しかし、歴史的経緯から考えても、親が子供たちに朝鮮の言葉や文化を伝えたいと思っている場合には(あるいは子供が、学びたいと思っている場合には)、十分な学習機会が与えられてしかるべきだと思う。

 ところが、戦後、日本政府は一貫して民族学校を潰そうと試みてきた。1948年、すでに日本の至る所に500校あまり開かれていた民族学校は、48年の文部省通達や49年の閣議決定「朝鮮人学校の処置方針」などによって、ほとんど全て非合法化されてしまった。そして、この写真にあるように、トラックで乗り込んできた警官隊によって、多くの学校が暴力的に閉鎖されたのである。ぼくの叔母たちも岡山県西大寺にあった民族学校に通っていたが、この学校も反対運動を押し切るかたちで48年頃に閉鎖されている(注2)。大阪では、学校の閉鎖に対する抗議行動の中で、16才の少年・金太一(キム・テイル)が警官に射殺されるという事件もあった。非合法になってなお、守り抜かれた学校が基礎となり、しだいに数を増やして今日に至っている。

 日本政府は、かつての様なあからさまな弾圧を差し控えているとはいえ、今もなお民族学校に対する嫌がらせをやめてはいない。その嫌がらせの1つが、民族学校出身の生徒たちに、京都大学を含む国立大学への受験資格を認めていないことである。昨年、京都大学理学部に入学した安炳和(アン・ピョンファ)君の言葉を引こう。 

 

 “僕は今年、愛知朝鮮高等学校から京都大学に入学しましたが、入試の勉強以外に様々な苦労を強いられました。それは民族学校出身者には国立大学への受験資格がないためです。

 そこで京大を受験するために僕はまず大学入学資格検定試験(大検)を受けねばならなかったのですが、実は、中学も民族学校に通っていた僕などは、その大検の受験資格すらないため通信制の高校にも通わなければならなくなったのです。

 通信制の高校には、毎日通う必要はなかったのですが、それでも月一回はスクーリングに行かなければならず、またかなりの量のレポートを提出しなければならなかったので、民族学校での勉強、受験勉強と合わせるとかなりの負担になりました。”(注3)

 

 大学への受験資格は、学校教育法第56条に定められているが、文部省は民族学校卒業者はこれに該当しないとして、大学への受験資格を認めていない。だから、受験資格をえるために大検を受けることになるのだが、大検は、そもそも中学卒業者や高校中退者のための救済制度であり、そのため、(普通学校の)中卒の資格が必要である。したがって、その資格もない炳和君のような生徒たちは、大検を受けるために通信制や定時制の高校に便宜的に入学しなければならない。

 それでは、全ての大学が、文部省の不当な方針に従っているのかというと、そうでもない。現在、私立大学では424校中192校、公立大学では53校中27校の大学が、民族学校の生徒たちに受験資格を認めている(京都の大学では、私立大学で同志社・立命・大谷大・京都外大・精華大など、公立で京都府大・京都市立芸術大などが認めている)。これらの大学は、上述の56条をうけて受験資格者を定めている学校教育法の施行規則第69条の五「その他大学において、相当の年齢に達し、高等学校を卒業した者と同等以上の学力があると認めたもの」を根拠に、大学独自の判断で受験資格を認めているのである。民族学校出身者に受験資格を認める私立・公立大学は、近年も増え続けている。

 京都大学通則にも、その第5条に「本学に入学することができる者」として「本学において、高等学校を卒業した者と同等以上の学力があると認められた者」とある。したがって、総長の決定により受験資格を認めることはできると思う。しかし、文部省の指導に逆らうことをしらないこの大学は、95年から京大で継続的に行われてきた受験資格を要求する署名活動や話し合いにも、全く応じる気配がない。受験を認めていないのは、他の国立大学も同じである。

 付け加えておくと、政府の嫌がらせにより民族学校の生徒や親たちが被っている不利益は、受験資格の問題だけではない。民族学校は、公に認められた学校法人ではあるが、政府の政策により一般の私立学校と同等の地位を得ることができず、そのことが大きく影響して、地方公共団体から十分な教育助成を受けることができない。全国平均で児童一人当たりの助成額は、一般の私立学校の5分の1ほどにとどまっている。民族学校は、もともと、敗戦後の苦しい生活の中で、親たちがわずかばかりのお金を持ち寄って始められたのであり、今日も高い授業料ー例えば月額で初級12500円・中級18000円・高等28000円ーと在日同胞の寄付により、予算の大部分が賄われているのである(注4)。 朝鮮人の渡日の要因や、植民地時代の同化政策のことを少しでも考慮するならば、また民族間の平等という常識から考えても、日本政府がこれまで行ってきたこと、現在行っていることは全く不当であろう。受験資格の問題において、その政策に追随している京都大学も同様である。94年、京大で、民族学校出身者の学生を中心に結成され、ぼくも参加している「民族学校の出身者に京大への受験資格を求める連絡協議会」(民受連)は、これからも講演会や署名活動などを通じて、受験資格その他の問題を広く学生の間で共有しつつ、大学との交渉を試みていくつもりである。ユニセフのメンバーにも、この問題に少しでも興味をもってもらえるように、学習会など働きかけをしていきたいと思っている。少しでも多くの学生がこの活動に注目し、参加して欲しい。

 

(注1)
 ぼくの知る限りでは、女性だけが朝鮮の伝統的な着物を制服として使っているようだ。なぜ男はブレザーで女はチマ・チョゴリなのかという点は、ちょっと考えてみる必要があるのかもしれないが、この文章では扱わない。

(注2)
 52年のサンフランシスコ平和条約の発行とともに、国籍の選択権すら与えられず、旧植民地出身者は日本国籍をはく奪された。日本国籍をもたない叔母たちは、祖母が学校に頼み込むことで、普通学校に「通わせてもらう」こととなった。当時、多くの朝鮮人が民族学校を追われ、母の姉弟たちと同じ道を歩んだのだろう。

(注3)
 96年度京都大学11月祭講演企画「国際化時代の民族教育」パンフからの引用

(注4)
 1970年に東京都が初めて助成金を出して以来、助成金を出す地方公共団体は増えてきており、助成額も一般の私立学校に比べ低いものの、増加の傾向にある。

 掲載した写真は全て、高賛侑『国際化時代の民族教育』1996/東方出版 より
 民族学校に関する記述も、この本に負うところが大きい

〈付記〉
この文章は、97年度の文学部新歓パンフレットに、「京都大学への受験資格をもとめて」と題して書いた文章を、ほとんどそのまま転載したものです。

(かただ そん あさひ/京大ユニセフクラブ)

 

ユニトピア 1997年度目次へ