安藤雅樹
あの須磨の事件についての話である。須磨の事件というより、その事件の後日談、ということになるのだろうか、「フォ−カス」という写真週刊誌に犯人の中学生の写真が掲載されたそうである。とんでもない話だ。「フォ−カス」編集部内では一応掲載するかどうかについて議論がなされたそうである。議論をして、どうして「載せる」という結論になるのだろうか。編集長の独断で載せた、と言うならまだわかるのだが。
「フォ−カス」は店頭になく、見ることができなかったが、その掲載についての是非、(というか「是」の意見、つまり掲載に賛成の意見しかなかったが)を識者が語った談話が10個載っていた週刊新潮は読むことができた(もちろん立ち読みで。さすがに買うわけにはいかないだろう)。錚々たるメンバ−が談話を寄せていたが、中学生はもうすでに大人だという意見、少年法の枠にはまらないほど残虐な事件だという意見から、写真掲載ではまだなまぬるい、両親の写真も載せるべきという意見まで、ここまで言うか、というような談話が並んでいた。 その中で、おもしろいな、と思ったことは殆どの人が「人権」ということを目の敵にしている、ということであった。あくまで印象であって本当にそうかは分からない。しかし、「人権」ということで、この事件(中学生の犯人の写真掲載の件)をひとまとめにしてしまって、そして、人権というのはそんな普遍的なものではないんだから、そうやって人権侵害だ、と責め立てるのはおかしい、という考えは大部分の「識者」の頭にあった、と思う。
僕は確かに西洋的な人権が普遍的だとは思わない(思う人もいるだろうが)。しかし、この写真掲載の件を「人権」とすぐに結びつけるのはおかしいと思う。なにか「人権」というキ−ワ−ドを使ってしまうと、個々の問題が消えてしまう様な気がするからだ。
小林よしのりの「新・ゴ−マニズム宣言」で、松本サリン事件で警察やマスコミに犯人扱いされた河野義行さんに対して、小林よしのりは「予断・偏見完全否定派の人権派」になってしまったと批判している(河野さんは「裁判が終わるまでは麻原が有罪か分からないので、麻原を憎むことはない」という趣旨のことをどこかで言ったようだ)。このように「人権」というキ−ワ−ドでくくってしまい、全てを都合のいい解釈に繋げるのは、間違っていると思う。
写真掲載のことならそれは「人権」という問題ではなく少年法の問題であり、河野さんのことならそれは被疑者の立場という問題であると思う。別に「人権第一主義」を批判するのはかまわないが、それを今はほかの問題に安易に結びつけすぎているのではないか、ということを思った。
と、偉そうに言ってしまったが、実はこう思い出したのはつい最近のことである。それまでは人権思想押しつけNGO・アムネスティの会員でありながらも「人権」と言うものはかなり眉唾ものだぞ、とだけ考えていた。今もその考えはあまり変わっていないのだが、少なくとも「人権」というようにひとまとめにすることはやめたほうがいい、ということに気づいた。言論の自由がない国に生まれることを考えると、言論の自由がある国に生まれたほうがいいに決まっている。「家」制度の中に押し込められているよりも、個人主義で職業選択の自由があるほうがいいに決まっている。そんなことは当たり前なのかも知れないが・・・。 これからは「人権」という言葉を使う時に漠然とした意味で使わないよう、気を付けたいということを改めて思った。