京大ユニセフクラブ2000年度11月祭研究発表
「私たちのお金がこわす途上国の暮らし」

コラム いつから?"南北問題"


ODAを、南北問題を解決するための途上国への国際協力、と私は考えます。
それならば「南北問題の始まり」は「ODAの始まり」にもなるはず。
今回はその「南北問題の始まり」のお話。ちょっと歴史から覗いてみましょう。

「南北問題」という概念はイギリスで生まれました。初めての発言はロイド銀行頭取のオリバー・フランクス卿というお人。その内容は皆さんご存知のように、南側の開発途上国と北側の先進国との経済格差を縮めよう、そのために南側の国々を手助けしよう、というものでした。

けれど南北問題がででんと表舞台に上がったそのわけは、政治的な別の理由があったからこそ。そのシナリオを書いたのは当時のケネディ米大統領でした。彼は戦後から続いていた「東西冷戦」の風向きをどうにか変えられないかと頭を悩ませていました。このまま核兵器の開発で力争いを繰り広げていては、いつか世界が終わってしまうほどの恐ろしい核対決の日が来る。これはどうしても避けなければならないことでした。

そこでケネディ大統領が考え出したのが「東西冷戦」を「南北問題」へ転換させるという戦略シフト。「南北間の経済格差をなくすために東西両陣営が協力すれば平和な世界が作り出せる!」というのが表の顔。「新興途上国をいかに多く自分の側に取り込むか…」というのが裏の顔。つまりは核の力比べから陣営の規模の大きさ比べに変えたというわけです。

これには旧宗主国の多いヨーロッパも大賛成。なぜなら戦後の当時、植民地支配をしていた国々へ賠償を払えるほどの余裕もなく頭を抱えていたところに、体よくそれを肩代わりしてくれるという話が降ってわいて出てきたのですから。

そんなわけで1961年末の国連総会で60年代を「第一次国連開発の10年」として採択、10年間に途上国の経済成長を5%(年間)にまで高めようと世界的に援助していくことが決まりました。こうして、南北問題に取り組む国際協力が第一歩を踏み出しました。

その後の流れをさらっと見ていくと、64年の第一回UNCTAD(国連貿易開発会議)総会で、"援助よりも貿易を"という「国連開発の10年」に向けての新しい秩序が打ち出されて以来、それが70年代の第二次国連開発の10年、80年代の第三次国連開発の10年へと続いていきます。この30年の間には、いつしか戦略としての「南北問題」の色合いも薄れ、援助国が独自の利益に走った"開発熱狂時代"となりました。

そしてその間には70年代の二度にわたる、価格引き上げによる石油危機。西側援助国もこれには大打撃を受けて、「援助熱」も次第に冷めてゆきました。80年代に入るとオイルマネーの乱用などで中進的な途上国も累積赤字が危機的な状況に。一方、アフリカなどLDC(後発開発途上国)の公的債務も返済不能に陥ってしまいました。

ソ連の自己崩壊で「東西対立」も自然消滅してしまった最近は、それに対抗する戦略としての「南北問題」も影が薄くなって、援助国に"援助疲れ"の空気がどことなく漂っている状態です。

******

さて皆さんはこれを読んでどう思いましたか?
あくまでこれは歴史の一つの見方ですが、南北問題が、そしてODAが戦略的に使われてきたのなら、今現在も、これからも同じ事が十分あり得るという事ですよね。
それ以前に「援助」って一体何なのか考えてしまいます。
これでは政治の一つの道具でしかありませんよね。
大事なのは確かに助けを求めている人達なのに、それが見えてこない。
それでも援助がなされていること自体が重要だという意見もあるでしょうが、おおもとが戦略に始まる援助で、どれほど弱い人達までに届いているのかと疑いたくもなります。

とりあえず、私達は知ることから始めてみませんか?
それは小さなようで大きな希望の光です。

******

ここで新たに今、掲げられているのがグローバル・イシュー(地球的規模の問題)。「南北問題」を乗り越えて、地球環境、人口、貧困問題などのグローバル・イシューを解決していく「持続可能な開発」が叫ばれています。これも一説によると、援助疲れを感じている先進国を再び引き寄せるための戦略だとか―――

(京大農2回 辻田 香織)

●次のページへ

2000年11月祭研究発表 「私たちのお金のこわす途上国の暮らし」へ