Q:なぜ『誓い』を執筆したのですか?
ロシアによるチェチェン戦争が行われている間、私は医師として多くの恐ろしい事柄を目撃してきました。1994年に始まった第一次チェチェン戦争中、私は負傷者の治療にあたるという仕事に専念しました。1999年に第二次チェチェン戦争が始まったとき、私はチェチェンで何が起こっているのかを世界に知らせる必要があると考え、日記をつけ始めました。私は甥のアダムにできる限り録画をしてもらうようにも頼みました。すべての人に知らしめるために負傷者の記録をしたかったのです。
Q:あなたは戦争の恐怖に関する証言者なのですね?
そうです。私は力で問題を解決することには反対です。もっとも苦しんでいる人々のほとんどは、軍隊ではなく、ごく普通の市民なのですから。例えば、私の甥のアダムは、英国の通信社であるロイター通信社にビデオテープを送ったために殺されてしまいました。
Q:この紛争のさなかの医師としてもっとも困難だったことは何ですか?
医科大学を卒業したとき、私たちは皆、助けを必要とする者であれば誰でも見捨てずに救わなければならないというヒポクラテスの誓いに対する忠誠を求められました。私はただそれを行っただけです。私は助けを求めて病院を訪れるすべての民間人を治療しました。ロシア兵やチェチェン戦士の手術も行いました。
Q:戦争の中でロシア兵とチェチェン戦士の手術を行ったのですね?
はい。それによって大きな問題に巻き込まれました。チェチェン過激派の何人かは彼らの理屈から私を裏切り者であると見なしたのです。ロシア側も私を裏切り者であると見なしました。双方が私を殺害しようとしました。最終的には逃げ出すしかありませんでした。
Q:チェチェンとロシアの戦争はどのように始まったのですか?
本当に長年にわたって—実際には400年ほどですが—チェチェン人は独立を求めて戦ってきました。ソビエト連邦が1991年に崩壊したとき、チェチェンは独立を宣言しました。ロシア人は独立をしばらくの間容認してくれていましたが、1994年になると軍事力を用いてチェチェンを押さえ込むことを決めたのです。
Q:なぜロシア人は、たとえば同じようにソビエト連邦の一部であったアルメニアやグルジアの独立を認めておきながら、チェチェンの独立には難色を示したのでしょうか?
それは複雑な問題ですね。ロシア人は、チェチェンが分離することでロシア連邦の他の民族地域もそれに続き、ロシア連邦が多くの異なる国家に分裂することを恐れていました。ロシアはまた、チェチェンの地下に眠る石油を維持したがっていました。彼らはチェチェンに建設した巨大な石油精製所を確保しておきたかったのです。そして、最後に、ロシア人は米国や英国、フランスを始めとする他の欧米諸国がカスピ海やコーカサス地域に介入することを好みません。彼らはそうしたすべての地域を確実に統制下に置こうとしたのです。
Q:どのようにして医師になったのですか?
若い頃には私は熱心な運動選手でごく普通の学生でした。けれども私の家族の中では医学が非常に重んじられていました。私の父は漢方医です。姉妹は看護士です。私も人々を助けることのできる職業に就きたいと密かに考えていました。ですから、高校を卒業したときに、シベリアのクラスノヤルスク医科大学を受験したのです。
Q:なぜそんなに遠くにある医科大学を選んだのですか?
私は運動選手としてクラスノヤルスクを訪れたことがあり、その場所に非常に心を惹かれたのです。シベリアの人々はとても友好的です。景色も素晴らしいですし、シベリアの冬も好きでした。
Q:運動選手だったとおっしゃいましたが、どんなスポーツが好きなのですか?
私たちチェチェン人はあらゆる護身術を好みます。私は柔道とテコンドー、レスリングとサンボが好きです。
Q:サンボとは何ですか?
1917年の革命以降、ロシアで発達した護身術のひとつで、柔道から発展した護身スポーツです。今はアメリカでも人気になってきていますが。それはともかく、アメリカで私は13年ぶりにスポーツを再開し、2001年にはアルバカーキ▼1で階級別サンボの世界チャンピオンになりました。2002年にはシェリーブポート▼2で二連覇を果たしました。私はチェチェン国旗のもとで闘い、それによって強い充足感を味わいました。 ▼1 米国ニューメキシコ州の都市 ▼2 米国ルイジアナ州の都市
Q:戦争中にロシア人医師を救ったことが[著書に]書かれていますね。それについてお話ください。
1995年にチェチェン戦士たちが負傷した野戦司令官の一人であるサルマン・ラドゥーエフの命を救うよう私に要請しました。私は山の中にある秘密の隠れ家に連れて行かれました。そこには重傷を負った司令官がいました。弾丸が彼の顔の片側からもう片側に突き抜けていたのです。
Q:彼を救うことはできましたか?
私たちは彼を救うことができました。私は手術の助手が必要であることを戦士たちに伝えました。彼らは捕虜として捕えられていたロシア人医師を連れてきました。私たちはうまく協力し、手術が終わると私は彼を捕虜の医師として自分の病院に連れて帰りました。野戦司令官が親戚をロシア人に殺された報復として彼を殺害しようとするまで、何もかもがうまく行っていました。私は医師が逃げられるよう協力しました。けれどもその後、私は過激派に捕えられ、9日間にわたって穴の中に閉じ込められ、殺すと脅かされました。私は医師の逃亡を手助けしたことを否定し、結局は何の説明もなく彼らは私を解放しました。
Q:家族はいらっしゃいますか?
はい。妻のザーラと6人の子どもがいます。
Q:戦争中彼らはどこにいたのですか?
多くの場合、彼らは戦闘地域から離れていました。私の故郷のアルハン・カラがロシア軍によって包囲され、激しく爆撃されたときには、彼らをチェチェンの隣国であるイングーシに避難させました。
Q:戦争中は医療物資が不足していたのではないですか?
はい。非常に不足していました。私は歯医者で使われる局所麻酔薬のリドカインを使って切断手術を行いました。外科用のこぎりがなかったために、四肢を切断するために大工用のこぎりを借りなければなりませんでした。外科用糸がなくなったときには、傷口を縫い合わせるために一般家庭の糸を使わなくてはなりませんでした。
Q:どのようにして米国に逃れてきたのですか?
ロシア人たちが私を捕えようとしていると警告されたため、チェチェンを離れざるをえませんでした。ボストンの人権団体である、人権のための医師団が、2000年4月に私を米国に招いてくれました。モスクワの米国大使館がビザを発給し、私はロシアによる逮捕命令が下される前にワシントンDCに飛んできたというわけです。米国に来てからすぐに政治亡命を申請しました。10ヵ月後には家族を米国に呼び寄せました。
Q:米国に適応してく上で困ったことはありますか?
適応するのは容易ではありません。私は心的外傷後ストレス障害▼3に悩まされています。英語を学ぶことにも非常に苦労しています。けれども米国は私をとても温かく迎え入れてくれました。9.11の後でさえ、私や家族がイスラム教徒だからといって差別を受けたことはありません。
▼3 いわゆるPTSD。突然の衝撃的出来事等を経験することによって生じる特徴的な精神障害。