シンポジウム「もう一つのヒバク」
携帯電話基地局の健康被害を考える(3)
2012年3月に東京都で開かれたシンポジウム「もう一つのヒバク 携帯電話基地局の健康被害を考える」の報告内容の一部を、電磁波研会報・第76と第77号に続き紹介いたします。同シンポジウムの録画は、ウェブサイトhttp://denziha.net/で閲覧することができます。なお、掲載した内容は、報告者と編集者の推敲により、シンポジウム当日の内容とは若干異なる場合があります。
携帯電話基地局周辺における健康被害事例報告
報告:長野県伊那市・在住者
私たちは18年前、長野県高遠町(現・伊那市)に、石窯焼き天然酵母のパン屋を開業しました。田畑には小麦、ライ麦、米が実り、インディアンテントの周りにはチューリップやひまわり、野菜が育ち、タンポポが咲き乱れ、子どもたちは裸足で飛び回っていました。
基地局で家族全員が体調不良に
仕事も順調になった1999年、裏山250mの所にドコモの携帯基地局が設置されると、葉の長さが75cmある巨大タンポポが発生し、家族全員が体調不良に陥りました。私は三番目の子を流産し、頭痛、味覚障害、飛蚊症などに悩まされました。長男は足の痛み、不快感、ジクジクした出来物、いぼ、そして鼻血がよく出ました。長女は心因性視覚障害、遠視、乱視、弱視、聴力障害、注意欠陥多動障害、アトピー、首から上にかけての不快感、イライラ、浅い眠り、抜け毛、おなかの内側がかゆく、泣き叫びながらこぶしで自分のおなかをたたくなど、心身ともに不調になりました。夫は、眼痛、頭痛、吐き気、嘔吐、脈拍60が急に90になるなどの症状が現れ、眼科医は「命に関わる」と急性緑内障の見立てをしましたが、原因がわからず、首をかしげるばかりでした。
ためしに1週間、電磁波の少ない環境で過ごすと、家族全員体調が良くなり、家に戻ると悪くなりました。そんなことを繰り返すうちに、基地局から遠ざかると症状が軽くなることがわかりました。
電波が届かない場所へ引っ越す
2004年、さらに第三世代アンテナから電波が出ると、症状は急激に悪化しました。長女は、毎朝泣きながら起きてくるようになり、顔色も悪く、8歳なのですがとても老けたように見えました。「何もかもイヤになった。楽しいことは何もない」と不登校になり、命の輝きを失った抜け殻のようでした。月1回程度だった夫の嘔吐は、2回3回と増え、ついに仕事も出来なくなり、基地局の電波が届かない山奥へ逃げるように引っ越しました。
すると、すぐ体調の変化が見られました。家族全員食欲が戻り、新しい出来ものは出なくなり、長女を苦しめていたおなかの内側のかゆみも、それから1回も出ていません。心因性視覚障害はなくなり、子どもたちに笑顔が戻りました。でも、0.3まで落ちた長女の視力は改善されませんでした。眼の網膜機能は2歳から5歳まで著しく成長するはずなのに、長女は2歳半から7歳まで基地局の電磁波に24時間365日被曝していたのです。正しい機能状態にするために、神経眼科で針治療や理学療法を受け、さらに電磁波をカットする布で被曝量を減らすと、視力は両眼1.5に戻りました。
しかし、一向に改善しない夫の症状を、医師は次のように説明しました。「ご主人の嘔吐、脳血管障害などは、電磁波の障害に間違いなく、その障害を獲得した体は微量の電磁波を浴びても自律神経失調症状態が出現する」。
私たちは長野県行政に携帯圏外の必要を訴えましたが、県は携帯エリア拡大を事業者に要請し続けています。
奪われた圏外
さらに、伊那市の要請を受け、2010年、家から1.7kmの所にドコモは基地局を建て、あっけなく電波が届き、携帯圏外は奪われてしまいました。伊那市広報には、次のような記述がありました。「過去に電磁波被害を理由にアンテナ施設の建設反対運動が起き、建設中止となったケースがある。そうしたことがないよう、地区として要請運動等の対応をしていただきたい」。子どもたちは「通学路に携帯基地局を建てないで」と訴えましたが、長男は伊那市から「また引っ越してはどうか」と言われ,長女は教育委員会から「転校したらどうですか」と言われました。失言だったと両者から後日謝罪がありましたが、長男は傷ついたのか、しばらく学校へ行けませんでした。
また、長女には修学旅行の思い出がありません。小2の時から電磁波で体調を崩すことを伝えてきましたが、他の保護者の強い希望と、利便性・経済性が優先され、行き先は東京タワーでした。中学は宿泊場所が2泊とも京都タワー直下でした。学校から「心配でしたら、別の安全と思われる宿に親と一緒にお泊まりください」と言われ、長女は「修学旅行なのに友だちと泊まれないなんて」とあきらめました。
総務省は、国の機関が行政的観点から予防的対策を推奨すべきではない。各個人のリスク認知に応じて対策が取られるのなら、それは適切という見解を示しています。これを受けてか、行政も教育委員会も及び腰です。ことさら、過疎地では生活道路の改修、高齢者のデイサービス等で市にお世話になっているからと、基地局をやむを得ず受け入れる例もあります。また、去年の原発震災後、安否確認のために子どもに携帯を持たせたり、24時間身につけるようになった人も少なくありません。携帯を持たない私たちは、親子で話しました。安否がわからなくても、生きていればいつか会えるだろうし、そうでなかったら、この世では会えないのだから、お互い、その場に居合わせた人と助け合おうと。
本当の被害者はだれか
私たちが基地局の健康被害を受けて13年たちました。容易に解決しませんが、私たちも生きるのをあきらめるわけにはいきません。長男は中卒で専門学校へ入り、木工と金属を学び、現在は工房づくりに取りかかっています。長女は小卒で専門学校へ入り、モザイクとフレスコ画を学び、現在はにわとりを飼い、畑やパンの仕事の合間に絵の仕事もしています。夫と私も10年ぶりに小麦とライ麦をまき、この春は、陸稲をまく予定です。水田と違い政府に管理されないお米であり、ユビキタス社会とはほど遠い暮らしです。ブレーカーを切ると楽なので、夜はろうそくで過ごすことが多くなりました。心地よく揺れる炎はほんのりと暖かく、心が癒やされます。しみじみと流れていく時間、清らかな空間に包まれると、ふと、本当の被害者はだれなのかと疑問がわきます。遠い昔から流れ、未来へと流れていく時の力は、携帯によって忘れられたかのようです。自分の時間を持てない人たち、洗脳され、基地局を建てることに全力を尽くす人たち。このまま被害を置き去りにしていくと、いつの日か、東電の人たちのように、携帯電話会社の人たちが責められる日が来るかもしれません。そうならないことを、私たちは祈ります。
子どもの権利条約
日本は、子どもの権利条約の締約国です。子どもの権利条約第6条では、生きる権利とともに、発達する権利をすべての子どもに認め、それを手助けしていくことを国の義務としています。そのためには、欠かすことのできない三つのポイントがあります。まず最初に、子どもの心と体の成長に害を与えるようなものから子どもを守ること、二つ目に、子どもが不安を覚えずに生活でき可能性を十分に伸ばしていけるような環境を整えること、三つ目に、子どもの声が受け入れられ一緒に考えてもらえるような関係を大人と子どもの間に作ること。
2010年、私の両親は、携帯圏外の環境を取り戻すため、長野の自宅から東京までの220キロを13日かけて歩きました。最終日、ドコモ本社までの道のりは、多くの賛同者と一緒に私も歩きました。山梨での交流会に参加した13歳の化学物質過敏症の男の子が、こんな感想を書いてくれました。「今日のような語り合いを通して、僕は見えない電磁波や化学物質過敏症で苦しむ子どもたちに、あきらめないでほしいことと、気持ちをわかってもらえる大人たちが必ずどこかにいるということを知ってもらいたいです」。
私は2010年、ドコモのコンプライアンス推進委員会に要請署名を提出しましたが、いまだに返事がありません。家から半径500メートルを、早く携帯圏外の環境に戻してほしいと願っています。
ヒバクは終わる、あなたが望めば
私たちの基地局問題をきっかけに結成された、伊那谷の環境と健康を守る会は、ドコモに抗議文を送り、以下のように訴えました。「科学的根拠が十分でないという理由で、現に電磁波過敏症に苦しみ、将来の生活、営業計画に大きな支障を抱えている一家を見殺しにする権利は、何人にもないはずです」。基地局の電磁波被曝によって奪われている、胎児や子どもの未来を取り戻すために、立場を超えて、少しでも良い方向に向かうことを私たちは望みます。そのことを、総務省の人たちが望めば、携帯電話会社の人たちが望めば、裁判に携わる人々が望めば、マスコミの人々が望めば、そして、あなたが望めば。ヒバクは終わる。あなたが望めば。この言葉は、絶望の中から生まれた、私たちの希望です。
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