大久保貞利
2011年8月は岩手県陸前高田市に5日間、9月は岩手県釜石市に4日間入りました。未曾有の津波被害に遭った被災者のことを思い、何かしたいの一念でした。
遠野こころのネット
岩手県遠野市には、NPO「遠野こころのネット」が被災地ボランティア活動をしていることを聞き、連絡をとりました。岩手県遠野市は、柳田國男の「遠野物語」で知られた民話の里であり、内陸部に位置していて、津波の被害には遭いませんでした。ボランティア活動をするには、あまり被災地に近いと不都合が生じます。ボランティア活動者のための宿舎、食事、洗濯、風呂、日用品等の調達に困るからです。
このNPOは、遠野市総合福祉センター内の体育館に本拠を置いています。ボランティアが寝泊まりする体育館、および、ボランティアを現地まで送迎するバス・車等のハード面は遠野市が受け持ち、運営はこのNPOが行っているのです。
体育館で雑魚寝
ボランティアは、常時200人から300人が出入りしています。大学・高校や生協など、まとまった人数で参加している団体は別に宿舎を用意して、そうでない一般の人たちは体育館で雑魚寝です。ボランティアは志願なので、寝袋、作業着、作業靴、軍手、ゴム手、着替え、食事、さらに水などは、すべて自前です。
多くの人は近くのコンビニで食事や水を調達していました。男性は体育館の板敷き、女性は和室で寝泊まりします。クーラーやテレビはなく、洗濯も自分でしますし、シャワーを使う時間は、一人15分と決められています。
規則正しい生活
毎朝7時に受付を行い、7時15分からラジオ体操して、7時半からミーティングが行われた時に、3か所の現地(釜石市、大槌町、陸前高田市)に振り分けられます。遠野こころのネットの代表の説明では、「被災地は観光地ではありません。ボランティアは、“してやる“という傲慢な気持ちでなく“させていただいている“という謙虚な気持ちが大切です」。
ミーティングの後は、8時に各方面毎にバスに乗り、夕方4時半に戻ります。昼食休憩は12時〜1時の1時間。作業はガレキ撤去が中心。規則正しい生活が、毎日繰り返されます。参加者は、生協、地域団体、学生、高校生、親子等々様々で、個人参加も多数います。法政大、東洋大、東大、神奈川大、○○高校等のゼッケンをつけている人もいます。作業は大体10人で1班を構成します。炎天下で同一作業をするので、自然と連帯感が芽生えます。ただし代表が言うように、ボランティア作業は競争ではありません。各自のペースで無理なく参加する精神をもって、老若男女が協力し合います。
多くの人と知り合えた
陸前高田市の作業においては、私が所属した班には、北海道利尻島から来た営林署職員、韓国の人、ナイジェリア出身のカナダ人夫婦、リストラ中の若者、東大医学部生、埼玉の特別支援学校教員、60代と思われる女性、と実にバラエティに富んだ構成でした。行き帰りのバス内や昼食時や小休憩時に雑談する中で、友達の輪ができます。
陸前高田市の気仙町でガレキ撤去しましたが、1か月前までは、近くにある水産加工場からサケやサンマが大量に流され、それらが腐ってウジがわくなかで、それを手づかみで集める作業があり、それは大変だったそうです。腐っている魚は崩れやすいので、手でとる以外になかったそうです。いまでは流れた魚はありませんでしたが、土にしみ込んだ臭いが強烈で、ハエが大量に発生していました。
体育館に戻ってからも、毎日夕方5時半からミーティングがあり、その日の問題点を出し合い、改善していきます。
被災地ボランティアという行動は、邪心がなく心が洗われるせいか、誤解を恐れずに言えば実に楽しい毎日です。だからこそ、リピーターが多いのでしょう。
陸前高田市の松
岩手県陸前高田市は、宮城県南三陸町と並んで、最も津波の被害がひどかったところです。小さな平野が広がり、平野に市街地が展開していたからです。陸前高田市の名所は高田松原であり、海岸線2キロにわたり約一万本の松が生え、白砂青松が自慢でした。渚百選にも選ばれていましが津波で流され、たった一本だけ奇跡的に残りました。倒れた松でせめて京都の大文字焼きで貢献しようとしたら、放射能値が高いと拒否されたのは記憶に新しいところです。
釜石市の小川づくり
ボランティアの魔力に魅かれ、9月にも岩手県釜石市に行って、小川づくりに精出しました。釜石市の箱崎地区で、津波に流され埋まった小川を掘り、石で両堤を築き砂利を敷いて、小川を復元するという作業です。土木作業なので体力に自信のない人はいりませんというのですが、敢えて挑戦しました。陸前高田市のガレキ撤去よりはるかにハードな作業でしたが、その分完成した時は達成感がありました。隊長は熊本大学医学部生で、長幼の序も上下関係もありません。能力のある人が隊長になり、残りのメンバーはただ指示に従い作業するだけです。