震災地・宮城県気仙沼市を訪問しました

大久保貞利

 2011年5月20日〜21日をかけて、震災地の宮城県気仙沼市を訪問しました。気仙沼市は、今回の東北大震災で甚大な被害にあいました。前自治労気仙沼市職労委員長で、気仙沼市の課長をしている友人が被災したというので、大変心配していましたが、昔の友人たちでぜひ激励に行こうと話がまとまり、現地に出かけました。

義援金と楽器を寄贈
 宮城県気仙沼市を訪問するに際して、義援金として約40万円、タオル等の物資、それに楽器4点を渡しました。この楽器についてのエピソードを以下に示しておきます。
 大津波により、気仙沼市民吹奏楽団や各学校の楽器が相当数流されました。学校に対しては文科省が補充する予定です。しかし、気仙沼市民吹奏楽団については、チューバ、ユーフォニューム、トロンボーン、トランペットの4種類の楽器を失いましたが、補充の見通しがありませんでした。そこで東京から参加したメンバーの中の荒川区市民グループが、24年前に、韓国の舞踏演奏グループ「サルムノリ」の演奏会を開いた時に得た収益金50万円を、楽器代として提供することを決めました。しかし、チューバやユーフォニュームのような大型楽器は高額です。そこでお茶の水に開店中の下倉楽器にお願いし、被災地援助のために、チューバ、トロンボーン、トランペットを50万円という破格の値段で提供して頂くことになりました。
 ユーフォニューム(チューバに次ぐ大型吹奏楽器)については、仙台出身のメンバーの娘さんが、高校時代に吹奏学部に所属してユーフォニュームを担当していましたので、その娘さんが大切にしていたユーフォニュームを、被災地に提供されることを承諾されました。それを提供するに至ったのは、よほどの決意だと察せられます。楽器に添えられた短い手紙に熱い心情があふれていました。  気仙沼市民吹奏楽団の団長と団員に対し、気仙沼市役所玄関前で贈呈式を行いました。団員の人は、4つの楽器それぞれを、その場で演奏してくれました。その模様はNHKテレビ仙台支局と河北新報が取材し、NHKテレビ東北版ニュースで、その日のうちに放映されました。

被災地・天国と地獄
 私は車で東北自動車道を通り、仙台市内のホテルに宿泊しました。その途中、放射能測定器で何ケ所か測定しました。仙台では仙台からのグループと合流し、その夜は市内の酒場で旧交を温めました。酒場の女将は今回の津波で母親を失った方でした。見た目にはどこまでも明るい人でしたが、別れ際に、「被災地に行ったら、“がんばれ“は言わないでくださいね」と念を押された時は、ドキッとしました。
 翌日に仙台のホテルを出て、他のメンバーとJR気仙沼駅前で合流しました。合流したメンバーの中の2人は、共に気仙沼市の課長として、被災活動の最前線で活躍されています。
 JR気仙沼駅は、震災の気配がまったく感じられませんでした。気仙沼市役所も見た目は普通でした。途中の道端でも、ところどころで屋根にビニールシートがかけられている程度で、大震災の面影はありません。
 義援金などを贈呈の後、上記の2人に案内していただき、被災地に向かいました。JR気仙沼駅と気仙沼市役所は高台に向かう途中にあります。海方面に向かって下るにつれて津波の爪痕が見え始めました。崩壊した店、がれきが積まれたままの空き地、一階部分がめちゃめちゃな家、押しつぶされた車、が次々に見えてきます。
 突然視野が開かれ、大空襲を受けたような、がれきが一帯に続く地区がJR気仙沼線を境に目に飛び込んできました。そこは鹿折(ししおり)地区です。大きく折れ曲がった鉄くずが目につきます。ここらへんは水産加工場、造船場、機械修理工場、倉庫、各種部品会社とその従業員たちの家や宿舎が立ち並ぶ、職住接近地区でした。

地震、津波、火事、雪
 さらに車で被災地内に入って行きました。アスベストが危険だからとマスクの着用が勧められましたが、臭いが知りたくて敢えてマスクをしませんでした。テレビ画面では絶対にわからないのが現場の臭いです。魚の臭いと燃えカスの臭いがします。しかし、震災後2カ月が経ったためか、強烈な臭いはしませんでした。
 すべて流され土台だけの家、壁が津波で持って行かれ骨組みがむき出しのビル、幾重にも重なった車の残骸、ひんまがった鉄骨、押し流されたひっくり返った漁船、原型はかろうじて留めているが、3階部分までめちゃめちゃなビル、まさに戦場のような風景です。陸に打ち上げられた大型漁船のそばまで行きました。長さは70メートルほどもあります。高さも15メートルはあるでしょう。これで、200〜300トンのクラスなのです。
 案内してくれた人は、市議会の開会中に震災に遭ったそうです。市議会が行われた市庁舎は被害が少なかったため、住民記録は無事でした。そのためにその後の被害証明書発行がスムーズにできたといいます。その方は処分場担当課長だったのですが、震災直後から市庁舎内で様々な処理に追われ、震災の日は市庁舎内に宿泊しました。翌日に外に出たところ、市内の惨状を目撃し、言葉を失ったといいます。「大地震の後に大津波に襲われ、次に大火事になった。そして停電の夜に雪が降った。一日にして気仙沼市民は地震、津波、火事、雪と4重苦で痛めつけられた」と、たんたんと話された言葉に重みが増します。「私は処分場担当なので、この膨大ながれきの処理に頭が重い。いくら処分場用地を確保してもすぐに満杯になってしまう」。

復興の難しさ
 気仙沼湾に大島という島があります。大島行きのフェリー乗り場や漁港の漁獲陸揚げ場や市場も見ましたが、どこもめちゃめちゃに破壊されています。地震と津波からかろうじて逃れビルの屋上で救助を待つ人たちの命を大火事が奪ったそうです。湾の先端近くにあったオイルタンクが流され、市街地に流されて引火して市街地を焼き、山火事まで引き起こしたのです。そのオイルタンクは直径が10メートル以上あり、ビルの4階に達するほど巨大なのです。オイルタンクがあった場所から流された市街地までは、1キロ以上もあります。津波の破壊力を見せつけられました。
 助かった漁船で早く漁業を再開しないのですかという質問に対しては、商工・農業・交通担当課長である、他の方が答えてくれました。「日本中にいろいろな漁港がありますが、それぞれ特徴があります。気仙沼漁港はかつおの水揚げ高で日本一の漁港です。しかしそれ以外でも、たとえば鮫はふかひれとしては商業ベースに乗りやすいが、それ以外の肉や皮や骨も有効活用しないと採算に合わない。気仙沼にはそうした加工処理場も備わっているので鮫の漁獲も多い。また遠洋漁業から戻って漁船は修理やメンテナンスが必要で、そのための造船所も必要です。漁業とはそうした総合的な設備が整ってこそ産業として成立するのです。たとえ漁船が整備され、陸揚げ場所が確保されても、後方処理する加工場や市場や倉庫や修理工場やそこで働く人たちの家や交通手段、流通ルート等々、様々な機能が回復しないと漁船は出発することができないのです」。ただ被災地を見て回っても、なかなかこのような話は聞けません。国が復興に乗り出せとマスメディアは言うが、国や県は早急に復興資金を確保し、後は現場の市町村や住民たちに権限を与えることが、復興への道ではないだろうかと強く感じました。国は復興のマスタープランを作る際、現場で奮闘している方々の声を取り入れていくことが、現場に見合った復興計画につながるのだと思います。

体だけは大切に
 一通り現場を見た後、案内してくれた方々と合わせて、近くのファミリーレストランで食事をしながら交流会を持ちました。「はじめの一ヶ月は、被災の巨大さの前でなにをしていいかわからずパニック状態でした。ようやくここにきてなんとか踏ん張れるようになってきました。皆さんから頂いた40万円は、関係者と相談して、必ず明日につながるような使い方をさせていただきます」と案内してくれた方の一人が語り、もう1人の方は「私は、むしろ今のほうがやることが多く、悩みます」と正直に胸の内を語りました。行政に対する責任感が強く、有能な2人が過労で倒れないか本当に心配です。いつかこの地で復興を祝した再会をしようと約束し、気仙沼を後にしました。

宮城県南三陸町の爪痕
 気仙沼市の北に隣接するのが岩手県陸前高田市で、その南には宮城県南三陸町があり、その入りくんだリアス式海岸は南三陸金華山国定公園に指定されています。今回の大震災の大津波でもっとも破壊された地域なのです。気仙沼市の漁港から南三陸町まで、私たちは海岸線沿いに南下しました。震災後、まず死者・行方不明者の捜索が最優先され、次に道路を覆うがれきを排除し通行道路を確保されました。道路が確保されないと重機が入れず復旧活動が制限されるからです。
 道路だけは整備されましたが、両側の風景は惨々たるものです。大きな町には復興のために重機が入っていますが、人口が300人程度の集落は放置されたままです。この海岸線にそってJR気仙沼線が走っており、リアス式海岸を眺望できるためマニア受けする路線ですが、今回の津波でズタズタにされ、復旧のメドは立っていません。路床自体が流されているため、別に線路を敷き直す以外に復旧は不可能に見えます。南三陸町にとっては、JR気仙沼線が車以外の唯一の交通手段だっただけに、お年寄りにとっては打撃です。  道路は海岸線を通っていますが、ところどころで山側にも入るので、どこまで津波が来たかわかります。びっくりするほどの高さにまで、津波が来ています。やまつつじが美しく咲き、海はどこまでも穏やかで美しく、空は青く澄み渡っているのを見ると、ほんとうに考えさせられます。
 岩手県陸前高田市と並び、南三陸町は津波でもっとも破壊された町です。気仙沼市は湾から山の中腹にかけて市街地が形成されているため、高台は無傷でしたが、南三陸町はすべて平地に市街地が広がっていたため、町は津波で完全に消滅しました。それは言葉には表現できない凄まじさです。人がいない静けさと不気味さはなんとも言えません。それだけではありません。鳥も虫もあたりにいません。ただがれきと廃墟のビルだけが続く風景です。町長がアンテナにつかまって九死に一生を得たビル(防災センター)も見てきました。

複雑な思いで帰路に
 南三陸町の人々がどこに避難しているかはわかりませんが、どんな思いで自分たちの故郷の行く末を考えているでしょうか。被災地訪問はここを最後にして帰路につきました。
 途中で放射線測定器(ガンマー線測定器)を使って計測したので、その数値を掲載します。栃木県佐野は0.15(単位はマイクロシーベルト/時;以下同じ)、那須高原は0.47、白河は0.51、鏡石は0.35、吾妻は2.2、白石は0.16、仙台泉は0.07です。佐野と吾妻はサービスエリアで測定、あとは走行中の測定です。


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