<関連記事連載>
カネミ油症事件から学ぶこと(3/3)
大久保 貞利
□初めは勝訴やがて逆転敗訴
未曾有の食品公害事件として、当初カネミ油症事件は高まる世論を背景に、運動は大いに盛り上がりました。そうした運動の盛り上がりの中で、被害者たちは被害の損害賠償を求め裁判闘争を展開しました。民事訴訟が7件、刑事訴訟が1件、計8件の訴訟が行なわれました。訴訟相手は、加害企業のカネミ倉庫、同カネミ倉庫社長加藤取三之助、PCBを製造したカネカ(当時は鐘淵化学工業)、それに国と北九州市の行政です。カネミ倉庫と同社長相手の裁判は民事も刑事も勝利が確定しました。カネカについては、最終的に示談金を支払うことで決着しました。
問題は行政、とくに国です。ダ−ク油事件は国のタテワリ行政の弊害を示す出来事です。またPCBを食品製造過程で使用することを許可したことは行政の責任です。さらに、食品中毒事件として事件発覚後速やかに対処すれば被害も最小限に留められたのに、それを怠り、被害を拡大したことは国の責任で、国の責任は免れないと被害者は追及しました。こうした主張を当初は判決で認め、国は被害者一人当たり約300万円の仮払金(訴訟が途中なので仮として支払う)を支払いました。1985年2月の全国統一訴訟第3陣第1審(福岡地方裁判所)までは、それこそ破竹の勢いで、被害者(原告)は国(被告)に次々と勝訴しました。
しかし、1986年5月の全国統一訴訟第2陣の控訴審(福岡高等裁判所)において、国に責任は無いとする逆転判決が出てから、状況は一変します。当然ながら、原告はこの判決を不服とし最高裁判所に上告しました。しかし、このまま行けば敗訴判決が出る可能性が濃厚となったため、原告側は裁判を取り下げざるを得ませんでした。
□ここから仮払金問題が起こる
原告側は、泣く泣く裁判の取り下げを決断しました。ところが、ここで第2の悲劇が起こります。原告側は、訴訟を取り下げはしたがすべて負けたわけではないと判断しましたが、国は違いました。裁判を取り下げた以上、原告側に支払っていた『仮払金』(かりばらいきん)は返還してもらうというのが国の見解です。カネミ油症は全身病で元気で働くことができず、多くの原告は仮払金を生活費として使っていました。裁判の取り下げは1987年でしたが、それでも最初の10年は静かに過ぎていきました。国の債権管理法は苛酷な法律で、国の債権(原告からすれば債務=借金)は末代まで取り立てるという法律です。取り下げから10年経ち、民法上の時効が成立する直前の1997年6月、国は仮払金の返還を求める調停を申し立て、支払わなければ強制力を発動する文書を原告側に郵送しました。驚いたのは原告たちです。すでに仮払金は生活費として使ってしまった人たちがほとんどでした。
国のこの強権発動の動きに絶望し、自殺した人、子どもからなじられた人、結婚を解消された人、まさにあちこちで悲劇が展開されました。ダイオキシンを食するという、人類史上初めての仕打ちを受けた被害者は、健康を奪われただけでなく、国からの仮払金返還という重荷も背負わされたのです。被害者に何の科(とが)も何の罪もないのにです。事件当初は関心を示したマスコミや世間も、その頃にはカネミ事件は終わったと、関心を寄せなくなっていました。被害者たちは、世間からも国からも棄てられたという思いを持って生きざるを得ませんでした。
□カネミ油症被害者支援センタ−の設立
世間からカネミ油症事件は忘れられ、当初大きく盛り上がった被害者たちの運動も沈滞化しました。こうした状況を変えたのは、カネミ油症被害者支援センタ−(YSC)の取り組みです。YSCは2002年に設立されましたが、設立メンバ−が取り組みを開始したのは1999年からです。
YSCの主要メンバ−は、ごみ問題、特にダイオキシン問題に、東京で取組んできた人々です。これらの取組みのきっかけは、ダイオキシンで死んだ人はいないという、行政や一部“専門家”からの反論にどう対応していくかを、市民運動側からも問われていた時期だったことです。もう一つのきっかけは、1999年に関西で開かれたダイオキシン市民集会で、被害者の矢野トヨコ・忠義夫妻がアピ−ルしたことです。そこで、東京のYSC設立メンバ−とカネミ被害者が繋がったのです。特に、矢野トヨコさんが執筆された『カネミが地獄を連れてきた』のインパクトは強烈でした。
1999年以降、YSC設立メンバ−は活発に行動を開始しました。ベネチア開催のダイオキシン国際会議への参加(1999年)、東京都板橋区で76名が参加した市民集会の開催(1999年)、第1回五島列島被害者自主検診・被害実態調査実施(2000年)、単行本『今、なぜカネミ油症か』の出版(2000年)、農水省・厚生省との交渉(2000年)、衆参全国会議員へのロビ−活動(2001年)、等です。こうした前段の取り組みを経て、2002年6月にYSCが正式に発足しました。
設立後も、精力的にYSCは活動をしました。特に2003年11月に東京都文京区で開催された、ノ−モア!YUSHO(油症)35周年宣言集会は、110名が参加しましたが、特に、立場を越えた様々な被害者団体、全国油症治療研究班班長、行政担当者、さらに研究者が一同に会する、画期的な集会となりました。当然ながら、マスコミがこの問題に大きく関心を寄せるきっかけとなりました。
□超党派議員立法による仮払金問題の解決
カネミ油症問題は、(1)仮払金返還問題、(2)医療費公的負担、(3)生活費支援、(4)治療法研究、(5)認定基準抜本的見直、(6)未認定者救済、という6つの課題があります。
そのうちの仮払金返還問題は、2007年に全党派によるの議員立法が成立し、仮払金は実質的に返さなくて良いことになりました。被害者たちと支援運動の力で、立法化まで辿り着いたのです。成功の要因は、被害者団体が立場を越えて一致した行動をとったこと、さらに国会の全会派への働きかけにあります。被害者団体は過去の経緯から反目があり、なかなか統一した行動がとれませんでしたが、過去のしがらみのないYSCが、すべての団体や個人の融和に大いに力になりました。また特定の政党に偏らない方針のYSCは、当時の与党である自民党や公明党にも積極的に働きかけをしました。これが効を奏し、全会派一致の議員立法の成立として結実しました。特に、YSCの女性メンバ−が活躍しました。
□今後の方向について
仮払金返還問題の解決で、やれば出きるんだという思いが被害者たちに芽生え、被害者たちのYSCへの信頼は大きくなりました。しかし、仮払金返還問題とは別の課題は、残されたままでした。
最大の壁は、厚生労働省がカネミ油症被害者の症状は軽減していると捉えていること、さらに、カネミ油症は食品中毒なので、被害救済は加害企業であるカネミ倉庫がすべきであるとしていることです。前者の根拠は、全国油症治療研究班の研究報告です。後者の根拠は、裁判は原告側が取り下げたのであり、国に責任がないことは明らかと国が考えているためです。
この二つの壁を突破するものとして、一つは、被害者の実態を知るために国が実施した、カネミ被害実態調査の活用があります。この実態調査は、2007年当時の与党(自民党と公明党)プロジェクトチ−ムの救済策に基づいて実施されました。この実態調査は、1100人以上の被害者が回答した、画期的なものです。この実態調査をきちんと解析すれば、被害は軽減されていないことがわかります。しかし、国(厚生労働省)は、この実態調査の解析を実質的にサボタ−ジュしました。このままでは、全国油症治療研究班に判断が丸投げされてしまい、振り出しに戻ります。これを阻止し、実態調査の解析をきちんとさせることが重要です。現在、YSCでは独自の解析を行なっています。
もう一つは、カネミ油症救済法案を超党派の議員立法で成立させ、政治の力で国による被害者の公的救済策を実現させることです。
□カネミ油症救済の支援をお願いします
2010年2月に、YSCと被害者団体は、長崎で220人規模の大集会を成功させました。また2010年10月には、東京でカネミ大集会を140人規模で成功させました。こうした力をバネに、カネミ油症被害者の恒久救済をめざし、YSCは今後も精力的に取組んでいきますので、皆様のご支援をお願い申し上げます。
<終わり>
[会報第67号インデックスページに戻る]